ロックリザードとの戦い
昨日の朝に見つけた、あの不気味な爪痕。
あれ以来、私の旅は、のんびりとした遠足から、緊張感を伴う探索行へとその姿を変えていた。
(……おかしい。獣の気配が、全くしない)
森は、昨日よりもずっと静かだった。鳥のさえずりも、虫の羽音さえも聞こえない。まるで、この森の生き物たちが、何かを恐れて息を潜めているかのようだ。
この不自然な静寂は、強力な捕食者が近くにいる何よりの証拠。私の魔力感知が、肌をピリピリと刺すような、重く、硬質なプレッシャーを捉えていた。
(来る……!)
私は足を止め、いつでも動けるように腰を落とす。
そして、その音は、唐突に響いた。
ガサガサガサッ!
道の脇にある、背の高い茂みが激しく揺れる。
次の瞬間、そこから一体の魔物が、地響きを立てながら姿を現した。
(ロックリザード……! しかも、図鑑で見た個体よりずっと大きい……!)
全長は三メートルほどだろうか。岩石のようにゴツゴツとした灰色の皮膚は、並大抵の攻撃では傷一つ付かないだろう。ギョロリとした黄色い目が、侵入者である私を明確な敵と認識し、その口からシュー、と威嚇するような音が漏れた。
どうやら、この辺り一帯が、彼の縄張りだったらしい。
(……これは、厄介なことになりましたね)
逃げる、という選択肢は一瞬で消えた。魔物はすでに道を塞ぐようにして、こちらを睨みつけている。そして何より、私の本能が告げていた。ここで背を向けたら、一瞬で喉笛を食いちぎられる、と。
学院での模擬戦とはわけが違う。これは、本物の「戦い」だ。
ごくり、と喉が鳴る。
だが、恐怖に震えている暇はない。
私は懐から、父が託してくれた、あの黒い布包みを取り出した。
「……お父さん、最高の素材、早速使わせてもらいますね」
布を解くと、光を吸い込むような漆黒の金属塊――『月鋼』が姿を現す。
私はそれを左の掌に乗せ、意識を集中させた。
(まずは、形を定義する。相手は硬い外皮を持つトカゲ型。必要なのは、突き刺すための鋭い切っ先と、叩き割るための重量。そして、私の体格でも扱えるバランス……!)
「――物質同調」
私の翠の瞳が、淡い金色に輝く。
月鋼が、まるで生き物のようにゆっくりとその形を変え始めた。私のイメージに従って、無数のマナの糸が金属の粒子を繋ぎ合わせ、一つの剣へと姿を変えていく。
刃渡りはおよそ80センチ。片手で扱うには少し重いが、強化魔法を併用すれば問題ない。柄の部分は握りやすく、滑り止めのための細かな凹凸まで再現する。
刀身は光を吸い込むような漆黒の輝きを放ち、その刃先には研ぎ澄まされた冷気が宿っていた。
数秒後、私の右手には、作りたての月鋼の剣が、まるでずっと前からそこにあったかのように、しっくりと収まっていた。
(よし……これで、戦える!)
私は作りたての剣を中段に構え、静かにロックリザードの出方を待った。
一瞬の静寂。
先に動いたのは、ロックリザードの方だった。低い姿勢から、弾丸のように私へと突進してくる。狙いは私の喉元。その口が大きく開かれ、鋭い牙が剥き出しになった。
(速い……! でも、直線的すぎる!)
私はその突進を冷静に見極め、最小限の動きで半身になってかわす。ロックリザードが、私のすぐ横を轟音と共に通り過ぎていった。
その一瞬の隙を、見逃さない。
私はすれ違いざま、体勢を低くしながら手にした剣を閃かせた。狙うは、鎧のように硬い皮膚に覆われていない、比較的柔らかそうな腹部。
ザシュッ!
手応えは、あった。
だが、浅い。月鋼の切れ味をもってしても、分厚い筋肉に阻まれ、致命傷には至らない。
「ギャウッ!」
傷を負わされたことに逆上したのだろう。ロックリザードが甲高い咆哮を上げた。
そして今度は、その長い尻尾を鞭のようにしならせ、私へと叩きつけてきた。
(さっきの突進からの、連携攻撃……! 速い!)
私はそれをバックステップでかろうじてかわす。尻尾が、先ほどまで私が立っていた地面を叩き割り、岩の破片が四方へと飛び散った。一撃でも食らえば、ただでは済まないだろう。
(……長期戦は不利。次で、決める)
私は剣を握り直し、静かに反撃の機会を窺った。
ロックリザードは、私の周りをぐるぐると回り、隙を伺っている。その黄色い目が、爛々と輝いていた。
私はその動きを冷静に観察しながら、思考を巡らせる。
(弱点は、腹部と、頭。そして首の付け根。でも、どうやってあの硬い皮膚を貫くか……)
答えは、一つしかない。
私の持つ、最大の火力で、一点を貫く。
ロックリザードが、再び突進してくる。今度は先程よりも速度も威力も増していた。
私は動かない。ただ、その漆黒の剣に、ありったけのマナを注ぎ込む。
ミエルがくれた薬草袋の温もりを、セラフィーナさんがくれたブローチの感触を、確かめるように。
「――強化!」
剣が、まばゆい金色の光を放つ。
私は突進してくるロックリザードの眉間、その一点だけを見据えていた。
そして、その牙が私に届く、ほんの寸前。
私は身を沈めるようにして、その懐へと飛び込んだ。
そして、下から上へ。
光の軌跡を描くように、剣を振り抜いた。
金色の閃光が、ロックリザードの顎の下から頭上へと、一直線に駆け抜けていった。
ゴトリ、と。
鈍い音がして、ロックリザードの頭が真っ二つに分かれ、左右に崩れ落ちる。
私は剣を振り抜いた体勢のまま、荒い息を繰り返していた。頬を、生暖かい返り血が伝っていく。
「……はぁ……はぁ……っ」
初めての、命のやり取り。
その、ずしりとした重みに、私はしばらくその場から動けずにいた。
やがて息を整え、倒れた魔物を見つめていると、不思議な現象が起こった。
ロックリザードの亡骸が、足先からゆっくりと光の粒子となって、霧散し始めたのだ。
(これが、魔力の還元現象……。本で読んだ通りだ)
魔物が死ぬと、その肉体を構成していたマナが、世界へと還っていく。
そして数秒後。魔物がいた場所には、こぶし大の鈍く光る石が三つほど、ころりと転がっていた。
私はそれに近づくと、慎重に拾い上げる。
(魔石……。ロックリザードの魔力が結晶化したものですね。ひんやりとしているけど、中には濃密な土属性のマナが凝縮されているのが分かる)
魔法具の素材や、錬金術の触媒として、高く取引されるはずだ。
初めての魔物討伐。そして、初めての戦利品。
それは、私がこの厳しい世界で、確かに一歩を踏み出した、何よりの証だった。




