世界樹の麓で
私の名前は、リィア。
物心ついた時から、私の中にはどうやら、二つの世界があるらしかった。
一つは、今私が生きている、色鮮やかな世界。
世界で一番優しい母さんと、世界で一番物知りな父と一緒に暮らす、大きな木のおうち。母さんが抱きしめてくれると温かいし、庭に咲く花の蜜は甘い香りがする。うん、とても優しくて、素敵な世界だ。
そして、もう一つ。
私の中にだけあるらしい、音も匂いも、温度さえもない、灰色の記憶の世界。
(……なんで知ってるんだろう、これ)
時々、ふとした瞬間に頭の中に流れ込んでくる、無機質な知識の断片。
母さんに抱きしめられて「温かいな」と感じる心とは別に、頭のどこかで「これは体温による熱伝導」なんていう、少し味気ない言葉が囁くのだ。
この色鮮やかな世界にいるのに、私は時々、分厚いガラス越しに自分の人生を眺めているような、言いようのない寂しさを感じることがあった。
「リィアは、本当に静かな子ねぇ。他のお友達はみんな外で走り回っているというのに」
その日、私は家の裏にある庭で地面にしゃがみ込んでいた。
母さんが、少し離れた場所で薬草を摘みながら楽しそうに私に話しかける。彼女が優しく鼻歌を歌うと、周りの薬草が心なしか生き生きと輝き出すのを、私は知っていた。
「昨日も一日中、石ころを並べていたでしょう? そんなに楽しい?」
「……うん」
私は短く頷いた。目の前には、私が庭中から集めてきた色とりどりの小石が並べられている。
灰色の記憶が囁く「これは堆積岩」「これは火成岩」なんていう科学的な分類はどうでもいい。ただ、心が惹かれるままに集めた、私だけの宝物だ。
「この石を見ていると、落ち着くんです。それに、この石……なんだか少し、温かい気がして」
私のその言葉に、母さんは「あら」と少しだけ驚いたように目を見開いた。
この石ころを眺めている間だけは、頭の中の灰色の声が、少しだけ静になる。そして、灰色の記憶では説明できない、微かな温もりを感じることができた。
「そう……。綺麗なものを、綺麗だと感じられるのは、とても素敵なことよ」
母さんは、心から嬉そうに微笑むと私の頭を優しく撫でた。
その温かい手に、私はこちらの世界の幸福を感じながら、このどうしようもない孤独感のことは、誰にも言わずに心の奥にそっとしまい込んだ。
夕食の準備をする母さんの隣で、私は今日見つけた一番綺麗だと思った小石をテーブルの上で転がして遊んでいた。
やがて、工房で仕事をしていた父が静かにリビングへと入ってくる。
「あなた、お帰りなさい。リィアと待っていたのよ」
「……ああ。ただいま」
父は、ぶっきらぼうにそう言うと、どかりと椅子に腰を下ろした。
そして、私のことを見ると、その無表情のままの顔で、私の頭に、ぽんと大きな手を置いた。父の不器用な、でも優しい愛情表現だった。
「リィア。今日も、いい子にしていたか?」
「はい」
私が頷くと、父は満足そうに、ほんの少しだけ口元を緩めた。
彼は、懐から、小さな木彫りの道具と、鈍く光る石を取り出す。
「まあ、新しい明かりですか?」
「……ああ。リィアの部屋に、と思ってな」
父は、そう言うと、木彫りの台座に石を-はめ込みその上にそっと手をかざした。
そして、何か一言、静かに呟く。
するとどうだろう。
鈍い石ころだったはずのものが、内側から、ふわりと温かい光を放ち始めたのだ。
灰色の記憶にある「電気」という光とは、まるで違う。それは、ただそこを照らすだけの無機質な光ではない。部屋の隅々までを優しく照らし、私の心まで温めてくれるような、生命力を持った光だった。
「……きれい……」
私は、その不思議な光景を、瞬きも忘れてじっと見つめていた。
石に宿る微かな温もり。母さんが口ずさむ、草木を元気にする歌声。そして、父が無から生み出した、この命の光。
私がずっと感じていた、灰色の記憶では説明できない「何か」の正体。
――魔法。
あの夜、父が見せてくれた魔法の光。
それは、私の心に灯った、消えることのない道標となった。
私の「知りたい」という気持ちは、もう誰にも止められなかった。
私は、両親の目を盗んでは、書斎に忍び込むようになった。
まだ全ての文字が読めるわけじゃない。けれど、挿絵の多い、初級の魔法理論の書なら、なんとなく意味が分かる。
そこには、世界に満ちる「マナ」という力を、自分の意志で操るための、基本的な考え方が書かれていた。
(『マナを体内で感じ、練り上げ、形を想像し、外界へ放出する』……なるほど。言うのは簡単だけど、これがすごく難しいんだろうな)
私はそういった理屈を理解するのは、得意な方だったらしい。
本の内容を、何度も何度も、頭の中で繰り返す。
そして、ある日の午後。
私は、自分の部屋で、一人こっそりと試してみることにした。
本に書いてあった、一番簡単な魔法。掌の上に、小さな光を灯すだけの。
(マナを感じて……練り上げて……想像する……)
目を閉じ、意識を集中させる。
最初は何も起こらなかった。けれど、諦めずに何度も繰り返すうち、身体の芯に、温かい何かが生まれるのを感じた。
これだ。
私は、その温かい力を、ゆっくりと掌の上へと導いていく。
そして、父が作ってくれた、あのランプの光を、強く、強くイメージした。
目を開けると、私の手のひらの上に、ぽぅ、と。
ロウソクの炎ほどの、小さくて、でもとても温かい光が、確かに灯っていた。
「……できた……!」
思わず、声が漏れた。
初めて自分の手で生み出した、この世界の光。
灰色の記憶にはない、温かい奇跡。
私は、夢中になって、その光を何度もつけたり消したりして遊んでいた。
――その時だった。
「リィア……? あなた、今……」
扉の隙間から、母さんが息を呑むのが見えた。
その隣には、父もいる。その目は、いつもよりずっと大きく見開かれていた。
二人は、私の掌に浮かぶ光と、私の顔を、信じられないものを見るように、何度も見比べている。
「……独学で、か。……なるほどな」
父が、感嘆とも呆れともつかない声で、ぽつりと呟いた。
私は、二人が入ってきたことに驚いて、慌てて光を消した。
「あ……あの、ごめんなさい! 勝手に本を……!」
だが、父は怒っていなかった。
彼は部屋に入ってくると、私の前にしゃがみ込み、その大きな手で、私の頭を優しく撫でた。
「……お前は、俺の想像を、いつも超えてくるな」
その声は、どこまでも誇らしそうだった。
母さんも、涙ぐみながら私をぎゅっと抱きしめてくれる。
「すごいわ、リィア! あなたは、本当にすごい子よ!」
その日を境に、私は正式に、父の書斎への立ち入りを許された。
私の才能を認めてくれた両親は、それから惜しみなく、私に魔法の知識を授けてくれるようになった。
――だが、ある日。私は見つけてしまった。
書斎の一番奥、埃をかぶった一角にある、他の本棚とは明らかに雰囲気の違う棚を。
そこに並ぶ本は、エルフの使う木の皮や葉ではなく、動物の革で装丁されていた。
「この本は……?」
「……ああ、それはな、リィア。外の世界の書物だ。人間という種族が書き記した物語だよ」
「人間……! 読んでもいいですか?」
私の期待に満ちた問いに、父は静かに首を横に振った。
「まだ早い。……お前はまず、我々エルフの知恵と歴史を学びなさい。それが、お前を守る盾になる」
父の言葉は優しかった。でも、なぜだか胸のあたりが少しだけ、ちくりとした。
(ダメって言われると、余計に気になっちゃうんだけどなあ……)
その日から、書斎の奥にある革張りの本棚は、私にとって一番気になる場所になったのだった。