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旅の始まりと、最初の足音

外門をくぐった瞬間、私は、世界の質感がはっきりと変わるのを感じた。


(……空気が、濃い!)


結界に守られた故郷の、どこか均質で澄み切った空気とはまるで違う。肌を撫でる風はずっしりと湿り気を帯びていて、濃密な土と腐葉土、それから名も知らぬ花の甘い香りが混じり合って、私の肺をいっぱいに満たしていく。

本で知識としては知っていたけれど、この生命そのものが凝縮されたような匂いは、想像をはるかに超えていた。知識として「知っている」ことと、五感で「味わう」ことの差に、私は軽い衝撃と、魂が震えるような興奮を覚えていた。


「ここからが、私の本当の旅の始まり……!」


幸い、目の前にはかろうじて道が残されていた。かつては人や馬車が行き来したのだろうか、森の侵食に耐え、細々と続く土の道。それが、私がこれから進むべき唯一の道しるべだ。


(よし、これなら迷うことはなさそうですね)


私は懐から自作の地図を取り出し、目的地までの距離を改めて確認する。最初の目的地である辺境都市アークライトまでは……順調に進んでも二週間はかかるだろう。


(二週間、か。長い旅になりそうだな)


それでも、不思議と不安はなかった。この日のために知識も体力も魔法も、出来る限りの準備はしてきたのだ。隣にミエルはいないけれど、彼女が作ってくれたお守りの薬草袋が、腰で優しく揺れている。


私は地図を懐に仕舞うと、森の奥をまっすぐに見据え、力強く一歩を踏み出した。


歩き始めてしばらくすると、木々の間から水のせせらぎが聞こえてきた。水分は旅の生命線だ。念のため、水筒を満たしておくに越したことはない。

音のする方へ道から少し外れると、陽光が木漏れ日のように差し込む、開けた場所に出た。そこには、きらきらと光を反射する清らかな小川が流れている。


(うん、綺麗なお水ですね。でも、念のため……)


しゃがみ込み、魔力で水質を感知する。毒性や有害な魔力の反応はなし。これなら大丈夫だろう。

革製の水筒に冷たい水を満たしていく。一口飲むと、ひんやりとした命の奔流が喉を潤し、身体の芯にじんわりと活力が湧いてくるのを感じた。


再び道に戻り、歩き出す。

日差しが差し込む明るい道には、見たこともない色の花々が咲き乱れていた。


(綺麗……。この花、学院の植物図鑑にも載っていなかったな)


思わず足を止め、一輪の鮮やかな赤色の花をそっと指先でなぞる。中心には金色の斑点。人間の国に近いこの辺境特有の植物なのかもしれない。

こういう時、ミエルが隣にいてくれたら、きっと名前を教えてくれただろうな、なんてことを思う。


(これも、立派な研究対象ですね。採取しておきましょう)


鞄から小さなガラス瓶を取り出し、丁寧に花をしまう。私の旅は、もう始まっているのだ。


陽が西の空へと傾き、森全体が茜色に染まり始める。そろそろ、野営の準備をしなければ。幸い、道から少し入ったところに、風雨をしのげそうな手頃な岩陰を見つけることができた。


まずは寝床の確保。地面の湿り気を防ぐため落ち葉を厚めに敷き詰め、その上に寝袋を広げる。次に薪拾い。これも基本通り、湿っていない手頃な枝を集めて岩陰の中心に積み上げた。


(火起こしは……まあ、魔法が一番早いですね)


指先に意識を集中させると、ぽぅ、と小さな火種が生まれ、薪へと移る。ぱちぱちと小気味よい音を立てて、炎が周囲の闇を温かく照らし始めた。

鞄から母が持たせてくれた干し肉と固いパンを取り出し、火で軽く炙ると、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。


「……うん、美味しい」


決してご馳走ではない。それでも、自分の力だけで迎えた一日目の夕食は、格別な味がした。


食事を終え、私は燃え盛る炎をただ静かに見つめていた。

故郷の家では今頃、父と母が夕食を囲んでいるだろうか。学院では、ミエルが研究に没頭して、セラフィーナさんに「また根を詰めていますわよ」なんて言われているかもしれない。


(みんな、どうしているかな……)


ふと寂しさが胸をよぎる。でもそれは、悲しいというより、どこか温かい愛おしい痛みだった。

私はマントの内側に隠していたセラフィーナさんのブローチにそっと触れる。ひんやりとした金属の感触と、込められた魔力の微かな温もりが、指先に伝わってきた。


(……一人じゃない)


見送ってくれた皆の想いが、今も私と共にある。そう思うと、心が少しだけ強くなれた気がした。


夜が更け、森の闇が深くなるにつれて、昼間は聞こえなかった音が辺りを支配し始める。遠くで響く獣の咆哮。風に揺れる木々が、まるで人の囁きのように聞こえる。

私は焚き火のそばに細い木の枝を数本、円を描くように突き刺した。そしてそれぞれの枝の先端に自分のマナを微量に込めていく。簡易的な「警報結界」。何かがこの円を横切れば、マナの繋がりが乱れてすぐに覚知できる。これでよし、と。


準備を終え、寝袋に潜り込む。硬い地面の感触が背中にごつごつと当たったけれど、それすらも新鮮な体験だった。

木々の隙間から、故郷で見るよりずっと大きく、そして近くに感じる赤と青の二つの月が見える。

尽きることのない探求心と、ほんの少しの寂しさ。そして、まだ見ぬ世界への確かな期待を胸に、私は旅の最初の夜の眠りへと落ちていった。


―――


翌朝、鳥のさえずりで目を覚ました私は、驚くほどすっきりとした気分だった。

どうやら、初めての野宿も無事に乗り切れたらしい。


(よし、二日目も頑張りましょう!)


手早く朝食を済ませ、寝袋を片付け、焚き火の跡を綺麗に消す。旅人としての基本マナーだ。

さて、出発しようか、と荷物を背負った、その時だった。


(……ん?)


私は、ふと地面のある一点に、違和感を覚えて足を止めた。

昨日、私が寝ていた場所から、ほんの数メートル離れた地面。そこに、見慣れない跡が残されていたのだ。


それは、大きな爪で、地面を深く抉ったような跡だった。それだけじゃない。近くの岩肌が、まるで硬いヤスリか何かで削られたかのように、白く傷ついている。


(……なんだろう、これ。ただの獣の爪痕にしては、あまりに深く、そして硬質すぎる。まるで、岩そのもので引っ掻いたような……)


私は屈み込み、その傷跡にそっと指で触れてみた。

知識が囁く。これは、ただの動物じゃない。おそらくは、魔物。それも、岩や鉱物に近い性質を持った、硬い外皮を持つタイプの。


周囲の空気が、昨日とは少しだけ違う、ぴんと張り詰めたものに変わったのを感じた。

どうやら、私の平穏な一人旅は、思ったより早く終わりを告げるのかもしれない。


私は、父がくれた『月鋼』の入った革袋を、いつでも取り出せるように腰のベルトに付け直した。

そして、昨日よりもずっと慎重に、周囲への警戒を怠らず、再び南へと続く道を歩き始めた。

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