最後の夜と、旅立ちの朝
あの熱狂的だった学院祭が終わってから、季節は何度か巡った。
私たちの「カフェ・月の雫」は、学院祭の歴史に燦然と輝く逸話として、その後も長く語り継がれることになったらしい。
まあ、私にとっては、そんなことよりも、セラフィーナさんやミエルと、本当の意味で一つのチームになれたことの方が、ずっと大きな収穫だったけれど。
一年が過ぎ、二年が過ぎ……。
穏やかで、しかしどこまでも刺激的な学院での日々は、あっという間に過ぎていく。
鏡に映る自分の姿に、時々驚くことがあった。
ミエルはふんわりとした柔らかさを、セラフィーナさんは誰もが見惚れるような気品を、その身にまとうようになった。
私たちは、ゆっくりと、しかし確実に、少女から大人への階段を登っていた。
もちろん、成長したのは、見た目だけじゃない。
ミエルとの薬草学の実習はもちろん、護身術や野外活動の授業にも、私は積極的に参加した。
エレーナさんのような旅人になる――その目標が、私を机の上だけの勉強から、外へと向かわせていたからだ。
セラフィーナさんとは、訓練場で模擬戦をすることも増えた。
彼女の圧倒的な炎と、私の強化魔法を応用した戦術。私たちの戦いは、いつも見物人が集まる名物になっていた。
私たちは、それぞれの道を、全力で駆け抜けていた。
そして、どんなに忙しくても、月に一度、三人と、時々リリアーナさんを交えてお茶会を開くのが、私たちの決まりごとになっていた。
そうして、私たちが学院の上級学年である、五年生になった春。
いよいよ、今後二年間、学院の外での活動も認められる「自由研究期間」が始まった。
生徒たちは、自分の専門分野を究めるため、それぞれの道を選ぶことになる。
その日の放課後、私たちはいつものように、セラフィーナさんの私室のバルコニーで、お茶を飲んでいた。
「……ねえ」
ふと、セラフィーナさんが、真剣な顔で私とミエルを見た。
「あなたたち、これからの二年間、どう過ごすか、もう決めているの?」
その問いに、ミエルと二人、顔を見合わせる。
いつかは話さなければならないと、分かっていたことだった。
先に口を開いたのは、ミエルだった。
その声には、もう以前のような弱々しさはなく、自分の夢に対する、確かな自信が満ちている。
「私、学院に残ろうと思うの。エラーラ先生が、助教として研究室に残らないかって、誘ってくださって。もっともっと、新しい薬を作って、たくさんの人を助けたいから」
「まあ、あなたらしいですわね」
セラフィーナさんが、優しく微笑む。
「わたくしは、ご存知の通りよ。王宮魔術師団への研修という形で、四大氏族としての実務を学ぶつもりだわ。……少し、退屈かもしれないけれど、これも務めですから」
その横顔は、少しだけ寂しそうだったけれど、それ以上に誇らしげだった。
そして、二人の視線が、私へと注がれる。
私は、カップを静かに置くと、懐から、エレーナさんがくれた、あの古い羅針盤を取り出した。
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私たちの未来を決めた、あのお茶会から数日後。
私はまず、旅に出るための正式な手続きを済ませるため、学院の管理棟を訪れていた。
「――以上です。二年間の『長期野外研究』ですね。受理しました」
事務的な手続きは、思ったよりもあっさりと終わった。
どうやら、学長がすでに話を通してくれていたらしい。
(よし、これで正式な手続きは完了っと。……さて、次はちゃんとお世話になった先生方にご挨拶しておかないとね)
私が最初に向かったのは、一番気難しいであろう、あの先生の研究室だった。
重々しい鉄の扉をノックすると、中から「……開いているぞ」という、いつも通りの不機嫌そうな声が聞こえてくる。
「ゴーダ先生、お時間よろしいですか?」
「……なんだ、リィア君か。見ての通り、取り込み中だ。用件は手短にな」
先生は、フラスコから立ち上る紫色の煙を睨みつけながら、こちらを見ようともしない。
いつものことだ。
「はい。自由研究期間を利用して、二年ほど旅に出ることにしました。そのご報告に」
「……ほう。書斎の知識だけでは、飽き足らなくなったか」
先生は、ようやくこちらに顔を向けた。
その瞳には、ほんの少しだけ、面白いものを見るような光が宿っている。
「いいだろう。本物の素材に触れてこい。それが一番の勉強だ。……で、行き先は?」
「人間の国を、いくつか」
「……そうか」
先生はそれだけ言うと、また実験に戻ってしまった。
もう話は終わり、ということらしい。私が「失礼します」と踵を返そうとした、その時だった。
「――待て」
先生は、研究室の奥の、一番厳重に保管されている棚から、小さな革袋を取り出すと、それを無作法に私に放り投げた。
「……これを持っていけ。最高品質の魔力回復薬だ。私の特製品だからな。お前のその、地形をいじるような燃費の悪い魔法は、外では命取りになるぞ。無様に魔力切れなんぞ起こすなよ」
袋の中には、ひんやりとしたガラスの小瓶が三本。
私が驚いて顔を上げると、先生はもう、こちらを見てはいなかった。
(……本当に、素直じゃない人だな。でも、父と少しだけ、似ているかもしれない)
私は、そのぶっきらぼうな優しさに、心の中で深く頭を下げ、静かに研究室を後にした。
次に訪れたのは、私たちの担任である、エラーラ先生の研究室だった。
ゴーダ先生の混沌とした研究室とは正反対に、そこは陽光が差し込む、整然として落ち着いた空間だった。
「……あなたなら、いつかそう言うと思っていましたよ」
私の報告を聞いた先生は、少しだけ寂しそうに、しかしどこまでも優しく微笑んだ。
彼女は、温かい薬草茶を淹れてくれる。
「あなたの才能は、この学院という枠には、収まりきらないものですから。……ええ、行きなさい。あなたの心が望むままに」
「先生……」
「ですが、これだけは覚えておいて」
彼女は、私の手を、そっと両手で包み込んだ。
「外の世界は、この学院のようには優しくありません。あなたのその知恵を、決して驕ることのないように。そして……困った時は、いつでも仲間を頼りなさい。あなたには、ミエルさんや、セラフィーナさんという、素晴らしい仲間がいるのですから」
その、母のような温かい言葉に、私は胸がいっぱいになった。
「……はい。肝に銘じます」
最後に、私は学長室の扉を叩いた。
エルミナ学長は、私の話を聞くと、全てを悟ったように、静かに頷いた。
「君が、この学院で最高の成績を修めた生徒の一人であることは、誰もが認めるところ。その君が、さらなる知見を求めて外の世界へ出るというのなら、我々に止める権利はありません」
彼女は、机の引き出しから、一枚の羊皮紙を取り出した。
そこには、アルボリア学院の正式な印が押されている。
「これは、君が我々の生徒であることを示す、ただの紙切れに過ぎんかもしれん。二年間の『長期野外研究』を、学院が正式に認めたという、内々の許可証ですな」
「ありがとうございます」
「外の世界では、その許可証が何の意味もなさない場面の方が多いでしょう。君の本当の身分を証明するのは、君自身の力と、そして何より、君がどう行動するか、だ。……決して、自分を見失うでないぞ。達者でな、リィア・フェンリエル。二年後、君がどんな土産話を持って帰ってくるのか、楽しみに待っておりますぞ」
先生方への挨拶も、これで終わりだ。
しばらく学院内をふらふらと歩いていると、日が傾き始めていた。
部屋戻ると、ミエルとセラフィーナさんが集まっている。
三人で過ごす、最後の夜だ。
と言っても、特にしんみりした空気はない。
私たちは、床に地図を広げ、お菓子をつまみながら、いつもと同じように、これから先の未来の話をしていた。
「見て、ミエル。あなたの研究が進めば、この南方の砂漠地帯でしか採れない薬草も、私たちの森で育てられるようになるかもしれないわ!」
「うん! それが、私の目標なの!」
「セラフィーナさんこそ、王宮に入ったら、きっとすぐに団長ですね」
「ふん、当然ですわ。わたくし以外の誰が、その任にふさわしいというのかしら」
強気にそう言いながらも、彼女の横顔は、少しだけ寂しそうに見えた。
私たちは、明日から、それぞれの道を歩き始める。
もう、こうして三人で、当たり前のように顔を合わせることはできなくなるのだ。
夜が更け、お開きにしようかと、私が腰を上げた、その時だった。
「……リィア」
ミエルが、真剣な顔で私を呼び止めた。
彼女は、自分の鞄から、丁寧に布で包まれた、一つの革袋を差し出す。
「これ……私が今作れる、一番いい治癒薬と解毒薬。それと、どんな時でも元気が出るように、陽光花の蜜も……。リィアの旅が、少しでも安全になるように、お守り」
その、心のこもった贈り物。
私は、胸がいっぱいになりながら、それを受け取った。
「……ありがとう、ミエル。大切にします」
「……わたくしからも、ありますわ」
今度は、セラフィーナさんが、少しだけ照れたように、一つの小さなベルベットの箱を差し出してきた。
箱の中には、銀細工で作られた、美しい薔薇のブローチが入っていた。
その中央には、彼女の瞳と同じ、真紅の宝石が嵌め込まれている。
「……これは、わたくしの魔力を込めたお守りですわ。一度だけですが、強力な炎の障壁を発動させます」
「セラフィーナさん……」
「か、勘違いしないでくださいまし!」
彼女は、顔を真っ赤にしながら、慌てて付け加える。
「わたくしの好敵手が、人間の国でつまらない魔物にやられてもらっては、寝覚めが悪いですからね! あくまで、そのための保険ですわ!」
その、あまりにも素直じゃない、彼女らしい優しさ。
私は、思わず吹き出してしまった。
「ふふっ……。はい。ありがとうございます、セラフィーナさん。あなたらしい、最高の贈り物です」
私のその言葉に、彼女は「ふん!」とそっぽを向いてしまったけれど、その耳まで赤くなっているのが、私にはちゃんと見えていた。
そして、旅立ちの朝が来た。
私は、動きやすい旅装に身を包み、学院の正門の前に立っていた。
十八歳になった私の姿は、もう森から出てきたばかりの無垢な少女ではない。
知識と経験、そして仲間との絆を胸に、未来を見据える一人の聡明な「旅人」の顔をしているはずだ。……そうだといいな。
門の前には、ミエルとセラフィーナさん、そして、わざわざ首都から会いに来てくれた、父と母の姿があった。
「怪我だけはしないでね、リィア。ちゃんと、ご飯を食べるのよ」
母が、涙ぐみながら私を抱きしめる。
父は、私の頭を一度だけ、くしゃりと撫でた。そして、ぶっきらぼうに、しかしずしりと重い、黒い布包みを私に手渡した。
「……これを持っていけ」
布をめくると、中から現れたのは、光を吸い込むような、漆黒の金属塊だった。
「これは……『月鋼』……?」
「ああ。俺が打てる最高の金属だ。……お前の錬金術なら、お前だけの形に変えられるだろう」
父は、それだけ言うと、そっぽを向いてしまった。
「二年後、絶対だからね! 私、すごい薬を作って待ってるから!」
「……せいぜい、無事に帰っていらっしゃい」
ミエルとセラフィーナさんが、それぞれの言葉で、私を送り出してくれる。
たくさんの温かい想いを胸に、私は、一度だけ、全員の顔をしっかりと見渡した。
そして、最高の笑顔で、頷き返す。
「――行ってきます」
私は、くるりと背を向け、歩き出した。
人間の国へと続く、まだ見ぬ世界への道を。
もう、振り返らない。
だって、振り返ってしまったら、涙がこぼれてしまいそうだから。
学院の姿が完全に見えなくなり、私一人だけになったところで、ようやく足を止めた。
大きく、深呼吸をする。
森の空気とは違う、乾いた土と、遠い街の匂い。
私は、懐から、エレーナさんがくれた、あの古い羅針盤を取り出した。
これまでずっと、当てもなくくるくると回っていただけの、気まぐれな針。
そっと、蓋を開ける。
すると、どうだろう。
あれほど落ち着きのなかった針が、ゆっくりと一つの方向を指し示して、ぴたりと止まった。
南――人間の国々が広がる、その方角を。
(エレーナさん……。あなたのくれたこの羅針盤が、ようやく、私の進むべき道を指してくれました)
私は、羅針盤をそっと懐にしまった。




