失敗した実験
水晶蜜を手に入れた私たちは、いよいよ本格的な開店準備に取り掛かった。
学院祭まで、あと二週間。時間は、思ったよりもずっと早く過ぎていく。
放課後の錬金術教室は、すっかり私たちの「カフェ開発室」と化していた。
テーブルの上には、ミエルが集めてきた色とりどりの薬草、私が持ち込んだ錬金術の道具、そしてセラフィーナさんがどこからか持ってきた、やけに豪華なティーセットが並んでいる。
「リィア、この『星見草』のお茶、水晶蜜を入れたら、すごく香りが深くなったよ!」
「本当ですか? ……ええ、素晴らしい。これなら、私たちの看板メニューになりますね」
ミエルは、薬草の配合担当。彼女の生まれ持った才能は、水晶蜜という最高の触媒を得て、さらにその輝きを増していた。
私は、錬金術の知識を応用して、お茶請けとなるお菓子の開発担当。熱を加えなくても固まるクッキーや、食べると口の中でぱちぱち弾ける魔法のキャンディーなど、少し変わったレシピを次々と試作していく。
そして、セラフィーナさんは……。
「リリアーナ! テーブルクロスの角度が一度ずれていますわ! やり直しなさい!」
「は、はい! ただいま!」
「そこの氷の彫刻も、もっと輝きが足りませんわね! わたくしの魔法で、さらに磨き上げて差し上げます!」
彼女は、なぜか店の内装と、私たちの指導を、一手に引き受けてくれていた。
本人は「最高のカフェにするには、わたくしの美学が必要不可欠ですわ」なんて言っているけれど、本当は、私たちと一緒に準備をするのが、楽しくて仕方ないのだろう。
その証拠に、彼女が時々見せる笑顔は、以前よりもずっと、素直で、可愛らしかった。
リリアーナさんをはじめ、二組のクラスメイトたちも、そんな私たちの姿を見て、自主的に手伝いを申し出てくれるようになった。
私たちの小さなカフェは、いつの間にか、たくさんの友情に支えられて、形になっていった。
そうして、開店準備が順調に進んでいた、学院祭の三日前のことだった。
その日、私たちが開発室として使っている錬金術教室の扉を開けると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……うそ……」
ミエルの、震える声。
教室の中が、めちゃくちゃに荒らされていたのだ。
棚から薬草は散らばり、実験器具は割れ、そして何より――私たちが苦労して手に入れた、あの黄金色の『水晶蜜』の壺が、空っぽになって床に転がっていた。
しん、と静まり返る教室。
最初に沈黙を破ったのは、セラフィーナさんの、怒りに満ちた声だった。
「……誰ですの? わたくしたちのカフェに、こんな卑劣な嫌がらせをするのは……!」
彼女の周りで、魔力の奔流が渦を巻いている。今にも、犯人を見つけ出して、焼き尽くしてしまいそうな勢いだ。
「落ち着いてください、セラフィーナさん」
私は、冷静に彼女を制した。
「荒らされているように見えますが……何か、少し違和感がありませんか?」
「違和感ですって?」
「ええ。見てください。散らばっているのは、比較的安価な薬草ばかり。高価なものは、手付かずで棚に残っています。本当に私たちの邪魔をしたいのなら、もっと効率的なやり方があるはずです」
私のその指摘に、セラフィーナさんとミエルは、はっとしたように周りを見渡す。
(これは、悪意による破壊行為じゃない。もっと、切羽詰まった……初心者の犯行?)
私は、床に落ちていた水晶蜜の壺を拾い上げた。
その内側には、蜜がほんの少しだけ、一滴だけ残っている。
私は、その蜜を指ですくい、そっと舐めてみた。
(……なるほど。これは、ただの甘味料として使われたわけじゃない。何かの薬品と、混ぜられていますね)
私は、床に残された、かすかな足跡に目を凝らす。
それは、私たちよりもずっと小さな、おそらく下級生のもののようだった。
「……犯人は、おそらく、同じように学院祭の出展を準備していた生徒でしょう」
私は、自分の立てた仮説を、二人に静かに伝えた。
「おそらく、自分の研究に行き詰まり、私たちの水晶蜜を使えば、うまくいくと考えた。……そして、私たちのレシピを盗もうとして、慌てて棚をひっくり返してしまった。そんなところではないでしょうか」
「……そんな……」
私のその言葉に、セラフィーナさんの怒りの魔力が、すうっと収まっていく。
代わりに、その瞳には、戸惑いと、ほんの少しの同情の色が浮かんでいた。
「だとしたら、その生徒は、今頃……」
「……行きましょう」
私は、静かに言った。
「その『犯人』を、助けに」
私のその一言で、その場にいた三人の空気が変わった。
セラフィーナさんの瞳からは怒りの炎が消え、代わりに冷静な光が宿る。
ミエルも、涙を拭って、力強く頷いた。
「でも、どうやって探すの? 学院は、とても広いのよ?」
ミエルのもっともな疑問に、私は静かに答えた。
「犯人は、おそらく下級生。そして、大きな音や光を出せないよう、人気のいない場所で実験をしていたはずです」
「だとしたら、旧校舎か、使われていない倉庫あたりですわね」
セラフィーナさんが、即座に候補地をいくつか挙げる。
「ええ。そして、私たちには最高の『鼻』がいますから」
私は、ミエルに向かってにっこりと微笑んだ。
「ミエル、お願いできますか? 水晶蜜の、あの甘い魔力の香りを、辿ってほしいんです」
「……うん、やってみる!」
ミエルは、目を閉じ、森の気配を探る時のように、神経を集中させる。
やがて、彼女ははっと目を開くと、教室の扉を指差した。
「……こっち。すごく、すごく薄いけど……確かに、香りが続いてる!」
ミエルの優れた嗅覚が、私たちを導いていく。
普段は使わない渡り廊下を抜け、生徒たちの笑い声が遠ざかっていく。
やがて、私たちは、ほとんど誰も寄り付かない、旧西校舎と呼ばれる古い建物の前にたどり着いた。
「……間違いない。この建物の中から、水晶蜜の香りがする。でも……なんだか、すごく嫌な匂いも混じってる……」
ミエルが、不安そうに顔をしかめる。
焦げ付いたような、酸っぱい匂い。
(まずいですね。本当に、何か良からぬことが起きているかもしれない)
私たちは顔を見合わせ、音を立てないように、古い校舎の中へと侵入した。
廊下は埃っぽく、窓ガラスは所々割れている。
ミエルの鼻を頼りに、私たちは二階の一番奥の教室を目指した。
扉の前まで来ると、中から、カタカタと何かが激しく震える音と、誰かの押し殺したような嗚咽が聞こえてきた。
そして、甘い蜜の香りとは似ても似つかない、鼻を突くような刺激臭。
セラフィーナさんが、杖を構える。
私は、彼女に目配せすると、躊躇なく、その古い木の扉を蹴破った。
教室の中は、黒い煙が充満していた。
その中心で、一人の小柄な生徒が、実験台の上に置かれたフラスコの前で、立ち尽くしている。
おそらく、彼が私たちの探していた「犯人」だろう。
「だ、だめだ……! 止まらない……!」
フラスコの中では、黄金色のはずの水晶蜜が、どす黒い紫色に変わり、ぶくぶくと不気味な泡を立てて沸騰していた。今にも爆発しそうだ。
「危ない!」
私は叫ぶと同時、セラフィーナさんへと視線を送る。
「全員、下がりなさい! アイスウォール!」
セラフィーナさんが、即座に私たちの前に分厚い氷の壁を作り出し、爆発に備える。
ミエルが、煙を吸って咳き込んでいる少年の元へ、慌てて駆け寄った。
だが、私は一人、そのフラスコへと近づいていく。
(暴走したマナを、無理やり中和しようとしている……! 逆だ! ここは、さらに強い力で、一気に安定させるしかない!)
「リィア!? あなた、何を……!」
セラフィーナさんの制止の声が、背後から聞こえる。
私は、フラスコに直接両手をかざし、自分の強化魔法を、荒れ狂う液体の中へと流し込んだ。
暴走したマナの奔流が、私の腕を伝って逆流してくる。歯を食いしばり、それに耐える。
ジュウウウウウッ!
フラスコの中から、断末魔のような音が響き、黒い煙が勢いよく立ち上る。
だが、爆発はしない。
どす黒い液体は、見る見るうちにその色を失い、やがて、完全に透明な、ただの水へと姿を変えていた。
「……はぁ……はぁ……っ」
私は、その場にへたり込んだ。
隣では、ミエルが介抱する少年の、か細い懺悔の声が聞こえてくる。
彼の名前は、ライナス君。一年生で、植物の成長を促進させる薬の研究をしていたらしい。
私たちの水晶蜜を使えば、きっと成功すると思って、出来心で盗んでしまったのだという。
セラフィーナさんが、呆れたように、しかしどこか優しい声で、彼に言った。
「……全く、馬鹿なことをしましたわね。一歩間違えれば、あなた、死んでいましたのよ?」
ライナス君は、わんわんと泣きじゃくっている。
私は、彼が残した研究ノートを、そっと拾い上げた。
「……面白い。発想は、間違っていませんでしたよ。ただ、触媒の使い方が、少しだけ、積極的すぎたようです」
私がそう言うと、ライナス君は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
私は、にっこりと微笑む。
「もしよろしければ、私たちも手伝います。あなたのその研究、私たちのカフェで、一緒に発表しませんか?」
私のその、あまりにも予想外の提案。
ライナス君は、ぽかんとした顔で、ただ、私を見つめていた。




