水晶洞窟と、女王の蜜
研究室を出ると、ミエルがその場にへたり込む。
「……疲れた……」
「もう……心臓がいくつあっても足りないよ……」
「ええ、全くですわ。あの先生、本当に人の命を何だと思っているのかしら」
三人で壁にもたれかかり、ぐったりと息をつく。
さっきまでの極度の緊張が解けて、どっと疲れが押し寄せてきた。
(まあ、無事に切り抜けられたんだから、結果オーライ、かな?)
私は一人、壁に手をつきながら、荒い息を整えていた。
すると、研究室の扉が再び開き、ゴーダ先生が顔を出す。
その手には、一枚の古びた羊皮紙の地図が握られていた。
「おい、小娘ども。いつまでそこで伸びておる。さっさと行かんか」
「……はい、今すぐ」
私たちは、這うようにして立ち上がると、先生から地図を受け取った。
そこには、学院の地下深くに広がる『水晶洞窟』への、秘密の近道が記されている。
「その地図があれば、面倒な魔物に出くわすことなく、蜜のある場所までたどり着けるはずだ。……それと、これを持っていけ」
先生はそう言うと、懐から三つの小さなガラスの小瓶を取り出し、私たちに放り投げた。
「先生、これは……?」
「最高品質の魔力回復薬だ。私の特製品だぞ。……勘違いするなよ。お前たちの『カフェ』とやらが、どんな味になるのか、少しだけ興味が湧いただけだ。さっさと行け!」
先生は、顔を真っ赤にしながらそう言うと、乱暴に扉を閉めてしまった。
その、あまりにも素直じゃない優しさに、私たちは顔を見合わせる。
そして、どちらからともなく、笑みがこぼれた。
「……ふふっ」
「ぷっ……あはは!」
どうやらあの偏屈教授も、根っからの悪人というわけではないらしい。
私たちは、先生特製のポーションで魔力を回復させると、地図を頼りに、水晶洞窟へと向かった。
地図に記された近道は、大書庫の裏にある、隠された階段から続いていた。
ひんやりとした空気が漂う、長い螺旋階段。それを降りていくと、やがて、空気が変わった。
花の蜜のような、甘くて、清浄な香りが鼻腔をくすぐる。
「……すごい……」
ミエルが、感嘆の声を漏らす。
階段の先は、広大な地下洞窟になっていた。
壁も天井も、全てが水晶の結晶で覆われ、それ自体が淡い光を放っている。
その光が、洞窟のあちこちにある小さな泉に反射して、空間全体が、まるで宝石箱の中にいるかのように、きらきらと輝いていた。
「ここが、水晶洞窟……」
「なんて、美しい場所ですの……」
セラフィーナさんも、うっとりとその光景に見惚れている。
私たちはしばらく、その幻想的な景色に、言葉を失っていた。
「……さて、と。蜜はどこかしら」
我に返ったセラフィーナさんが言う。
「地図によると、この洞窟の一番奥……『女王の間』と呼ばれる場所にあるみたい」
ミエルが、地図を覗き込みながら答えた。
私たちは、光り輝く水晶の森を、慎重に、しかし期待に胸を躍らせながら、奥へと進んでいった。
しばらく進むと、ひときわ大きく、そして美しい水晶でできた、巨大な蜂の巣のようなものが見えてきた。
その表面には、無数の小さな蜂――『水晶蜂』たちが、忙しそうに飛び交っている。
彼女たちの羽音は、まるで心地よい音楽のように、洞窟の中に静かに響き渡っていた。
「わぁ……綺麗……」
「ここが『女王の間』ね。……ですが、どうやって蜜を分けてもらうのかしら。下手に手を出せば、一斉に襲ってきますわよ」
セラフィーナさんの言う通りだ。水晶蜂は、普段はおとなしいが、巣を荒らす者には容赦しない。その針には、身体を麻痺させる強力な毒があるという。
ミエルが、おずおずと一歩前に出た。
「私、話してみる。この子たち、怒ってないもの。きっと、私たちの気持ち、分かってくれるはず……」
彼女は、そっと蜂の巣に手をかざし、自分の持つ生命の魔力を、優しく、語りかけるように流し始めた。
水晶蜂たちは、最初、警戒するようにミエルの周りを飛び回っていたが、やがてその魔力が、自分たちに害をなすものではないと理解したのだろう。
一匹、また一匹と、彼女の指先に止まり始める。
「……すごい」
だが、それだけでは足りなかった。
蜂たちは、ミエルを受け入れてはくれたが、巣の中心部へと続く道を開けてはくれない。
女王蜂がいるのであろう、巣の心臓部。そこだけは、固く守られている。
(なるほど。ミエルの力は『敵意がない』ことを伝えることはできても、『蜜を譲ってほしい』という、こちらの意図までは伝えきれない、か。……だとしたら)
私は、セラフィーナさんに向き直った。
「セラフィーナさん、お願いします。あなたの魔法で、この空間に、ほんの少しだけ『彩り』を加えてください」
「彩り……?」
「はい。あなたの炎で、小さな花火のような光を、いくつか打ち上げてほしいんです。……きっと、あの子たちへの、最高の『贈り物』になりますから」
私のその、あまりにも突飛な提案。
セラフィーナさんは、一瞬だけ戸惑ったようだったが、すぐに私の意図を察したのだろう。
「……ふん。仕方ありませんわね。わたくしの芸術的な魔法を、虫けらに見せてあげるのも、一興ですわ」
彼女が、優雅に杖を振るう。
すると、小さな炎の玉が、いくつも宙へと舞い上がり、ぱん、ぱんと、音もなく弾けた。
後に残されたのは、赤や青、黄色といった、色とりどりの光の粒子。
それが、洞窟の光を反射して、まるで本物の花火のように、きらきらと舞い落ちていく。
その、あまりにも美しい光景。
水晶蜂たちは、うっとりとしたように、その光の粒子を追いかけ始めた。
警戒心が、完全に解けていく。
そして、ついに。
固く閉ざされていた巣の中心部への道が、ゆっくりと、私たちを招き入れるように、開かれていった。
巣の奥には、ひときわ大きな女王蜂がいた。
彼女は、私たちをじっと見つめると、やがて、その巣の一部から、黄金色に輝く、極上の水晶蜜を、一滴、また一滴と、私たちが差し出した小瓶の中へと、静かに満たしてくれたのだった。




