賢者の溶液と、三人の答え
次の日の放課後、私たちは三人で、その分厚い壁――ゴーダ先生の研究室の前に立っていた。
扉は重々しい鉄製で、「許可なく入る者、カエルの姿にて中庭の池に放流す」という、洒落にならない注意書きがぶら下がっている。
「やっぱり、やめようよ……。私、カエルはちょっと……」
ミエルが、半泣きになっている。
「ふん、四大氏族である、このヴァルノスト家の名を懸けて、必ず許可を取ってみせますわ」
セラフィーナさんは、そう言って強気に胸を張るが、その声は少しだけ上ずっていた。
(なるほど、この先生は家柄や権威が通用しないタイプ、か。……父と少し似ているかもしれない。だとしたら、小手先の交渉は逆効果だな)
私は覚悟を決めると、代表して、その鉄の扉をコンコン、とノックした。
しばらくの沈黙の後、内側から「……開いておる」という、不機嫌そうな声が聞こえてくる。
研究室の中は、様々な薬品の匂いが混じり合った、独特の空気に満ちていた。
壁一面の本棚、天井まで積み上げられた実験器具の山。
その中心で、白衣を纏った小柄な老人が、フラスコの中の液体を、じっと睨みつけている。
ゴーダ先生だ。
「……なんだね、君たちは。見ての通り、取り込み中だ。くだらん用事なら、出直したまえ」
彼は、こちらを見ようともしない。
セラフィーナさんが、一歩前に進み出る。
「失礼いたします、ゴーダ先生。わたくし、一組のセラフィーナ――」
「ああ、ヴァルノスト家の令嬢か」
ゴーダ先生は、彼女の言葉を遮った。
「君のような派手な魔法使いが、私の研究室に何の用かね? 錬金術は、君の出る幕ではないと思うがね」
その、あまりにも素っ気ない態度。セラフィーナさんが、屈辱に唇を震わせる。
私は、すかさず前に出た。
「先生、私たちの学院祭の企画書を、ご覧いただけないでしょうか」
私は、自分たちのポーションカフェの企画書と、完成したメニューのレシピを、彼に差し出した。
ゴーダ先生は、面倒そうにそれを受け取ると、パラパラとページをめくり始めた。
だが、数ページも読まないうちに、その動きがぴたりと止まる。
彼の目が、初めて、興味の光を宿した。
「……ほう。面白いことを考える。発想は、悪くない」
彼はそう言うと、初めてこちらに向き直った。
「だが、君たちにこれを実現するだけの腕があるのかね?……いいだろう。私が出す『課題』を一つクリアできたら、水晶蜜の採取を許可しよう」
彼は、実験台の上にあった、一つのフラスコを指差した。
中には、どろりとした、真っ黒な液体が、不気味に渦を巻いている。
「これは、私が調合に失敗した『賢者の溶液』の失敗作だ。……この溶液を、爆発させずに、無力化してみせたまえ。」
その言葉と同時、フラスコの中の液体が、カタカタと小刻みに震え始めた。
まるで、時限爆弾のタイマーが作動したかのように。
私たちの顔から、さっと血の気が引いていく。
どうやらこの先生、「鬼」という評判は、本物らしい。
「――制限時間は、十分だ」
ゴーダ先生のその、あまりにも無慈悲な宣告。
フラスコの中の黒い液体は、カタカタと小刻みに震え、今にも暴発しそうな不穏な魔力を放ち始めている。
「ば、爆発するって……! そ、そんなの、どうすれば……!」
ミエルが、完全にパニックに陥っている。
「……む、無茶苦茶ですわ! こんなもの、どうやって無力化しろと!?」
セラフィーナさんも、さすがに顔面蒼白だ。彼女の強力な炎魔法を使えば、誘爆してこの研究室ごと吹き飛ばしかねない。
二人とも、完全に思考が停止してしまっている。
無理もない。これは、ただの試験ではない。失敗すれば、私たち三人の命がないのだから。
(……落ち着いて。まずは、観察を)
私は、他の二人とは対照的に、冷静にその黒い液体を観察した。
(……なるほど。複数の強力な溶解性を持つ素材を、無理やり一つの液体に閉じ込めている、か。それぞれの力が反発しあって、均衡が崩れた瞬間に爆発する……。だとしたら)
「ミエル!」
私は、半泣きになっている親友の肩を、強く掴んだ。
「しっかりしてください。あなたの力が必要です!」
「で、でも……!」
「あなたの鞄の中に、昨日森で採取した『眠り苔』が入っているはずです。それと、『石化トカゲの鱗粉』も!」
「え、うん! あるけど……!」
「それを、今すぐ乳鉢で粉末に! できるだけ細かく、均一になるように混ぜてください! お願いします!」
私のその、あまりにも的確で、迷いのない指示。
ミエルは、一瞬だけ驚いたように私を見つめたが、すぐに「わ、わかった!」と力強く頷くと、震える手で薬草を取り出し、調合を始めた。
次に、私はセラフィーナさんに向き直る。
「セラフィーナさん!」
「な、なんですの!?」
「あなたの氷魔法が必要です。ですが、このフラスコを直接冷やすのではありません。私が合図をしたら、フラスコの中の液体が、ほんの一瞬だけ、結晶化するギリギリの温度になるように、研究室全体の室温を下げてください。……できますね?」
「……正気ですの!? そんな精密な温度調整、わたくしでも……!」
「できます。あなたなら」
私のその、揺るぎない信頼を込めた言葉。
セラフィーナさんは、ぐっと唇を噛み締めたが、やがて覚悟を決めた顔で、こくりと頷いた。
「……やってやりますわ!」
「……粉、できたよ、リィア!」
ミエルが、震える声で差し出した乳鉢の中には、綺麗な灰色の粉末が出来上がっていた。
フラスコの振動が、どんどん激しくなっていく。
もう、時間がない。
「セラフィーナさん、今です!」
「――凍てつく息吹よ!」
セラフィーナさんの杖先から、ダイヤモンドダストのような冷気が放たれ、研究室の温度が急速に下がっていく。フラスコの中の黒い液体が、ほんの一瞬だけ、その動きを鈍らせた。
その刹那、私はミエルから受け取った粉末を、フラスコの中へと一気に投入した。
そして、フラスコに直接両手をかざし、自分の強化魔法を流し込む。
(――混ざれ、安定しろ、形を変えろ!)
眠り苔が持つ鎮静作用と、石化トカゲの鱗粉が持つ凝固作用。その二つの力を、私の強化魔法が増幅させ、暴走寸前のエネルギーを無理やり押さえつけ、別の物質へと再構築していく。
ジュウウウウウッ!
フラスコの中から、断末魔のような音が響き、黒い液体が激しく泡立った。
だが、爆発はしない。
黒い色は見る見るうちに薄まり、やがて、どろりとした液体は、完全にその動きを止め、一つの黒曜石のような、美しい輝きを放つ固体へと姿を変えていた。
「……はぁ……はぁ……っ」
私は、その場にへたり込んだ。
全身の魔力を、ほとんど使い果たしてしまったらしい。
隣では、ミエルもセラフィーナさんも、腰を抜かしたように座り込んでいる。
しん、と静まり返った研究室。
その沈黙を破ったのは、一つの、乾いた拍手だった。
パチ、パチ、パチ……。
顔を上げると、そこに立っていたのは、ゴーダ先生だった。
その、万年不機嫌そうな顔に、初めて、隠しようのない驚愕と、そして心からの感嘆の笑みが浮かんでいた。
「……見事だ。まさか、私の失敗作を、これほどの『芸術品』に変えてしまうとはな」
彼は、黒曜石と化したフラスコを手に取ると、光にかざして、うっとりと眺めている。
「合格だ。……いや、合格などという言葉では、生ぬるいか」
彼は、私たち三人を順番に見ると、満足げに頷いた。
「よかろう。水晶蜜の採取、好きなだけ許可しよう。……そして、リィア・フェンリエル君。君は、面白い。実に面白い。私の研究室に、いつでも自由に出入りする権利をやろう」
それは、この偏屈な教授が、生徒に与えうる、最高の賛辞だった。
私たちは、顔を見合わせ、疲れも忘れて、安堵の笑みを浮かべたのだった。




