静寂の森の番人
私の指示の元、私たちの奇妙な四人組は、静寂の森の奥へと歩を進めていた。
(それにしても……静かすぎる)
ミエルの言う通り、この森は不気味なほど静かだった。鳥の声も、獣の気配もほとんどしない。ただ、私たちの足音が、湿った苔の上に吸い込まれていくだけ。
時折、リリアーナさんが「きゃっ、虫が!」と小さな悲鳴を上げるのが、やけに大きく響く。
「リリアーナさん、静かに。あなたの声で、森の眠りを妨げてしまいますよ」
「で、ですが……!」
「大丈夫です。その程度の虫に、セラフィーナ様の大事な護衛役がやられるはずもありませんよね?」
私がそう言ってにっこり笑うと、彼女は「むっ……そ、そうですわね!」と、なぜか胸を張った。
しばらく進んだ、その時だった。
先頭を歩いていたミエルが、ぴたりと足を止めた。
「……リィア、この先、何かいる」
彼女の声が、緊張に震えている。
その視線の先、少し開けた場所の中央に、一体の魔物が眠っていた。
鹿に似ているが、その角は鋭い刃のように研ぎ澄まされ、全身の毛皮は、まるで森の木々と同化するように、複雑な緑色の紋様を描いていた。
その身体の周りだけ、空気が澄んでいる。まるで、その存在自体が聖域であるかのように。
「……森の番人、ね」
セラフィーナさんが、忌々しげに呟く。
「厄介ですわね。あれを起こさずに通り抜けるのは、至難の業よ」
「ご安心ください、セラフィーナ様! わたくしが、あの鹿もどきを、跡形もなく焼き払って差し上げますわ!」
リリアーナさんが、杖を構えようとする。
「待ちなさい」
それを制したのは、セラフィーナさん本人だった。
彼女は、私の顔をじっと見て、尋ねる。
「……あなたなら、どうしますの?」
その問いは、私を試しているようでもあり、あるいは、純粋に答えを求めているようでもあった。
私は、眠る番人の姿を、じっと観察していた。
その呼吸は、驚くほど穏やかで、周りの木々が風にそよぐリズムと、完全に同調している。
あれは、ただ眠っているのではない。森そのものと、一体化しているのだ。
(力押しは、最悪の選択。かといって、隠密行動も、あの聖域のような空間では通用しないでしょうね)
私は、にっこりと微笑んだ。
「ええ、良い手がありますよ」
私は、まだ半信半疑といった顔のセラフィーナさんたちに向き直ると、静かに言った。
「戦いません。眠らせたまま、通らせていただきましょう」
「眠らせる、ですって? どうやって……」
私は、ミエルに向き直った。
「ミエル、お願いします。あなたの籠の中にある『夢見草』と『安らぎ苔』を、少しだけ分けてください」
「え、うん! いいけど……」
ミエルから受け取った二種類の薬草を、私は手早く乳鉢ですり潰していく。
そこに、自分の水筒から少しだけ水を垂らし、練り上げていくと、甘くて、少しだけ眠気を誘うような香りが、ふわりと立ち上った。
「これは……?」
「即席の、睡眠薬です。ただし、これを飲ませるわけではありません」
私は、出来上がった緑色のペーストを、近くに落ちていた枯れ葉に薄く塗り広げた。
そして、その葉に、強化魔法をかける。
「――風よ」
私の囁きに応えるように、穏やかな風が巻き起こり、緑色のペーストが塗られた枯れ葉を、ふわりと宙へと舞い上げた。
葉は、眠る番人の頭上を、ゆっくりと旋回し始める。
そして、その葉から、睡眠薬の成分を含んだ魔力の粒子が、まるで霧のように、静かに番人の上へと降り注いでいった。
番人の鼻先が、ぴくりと動く。その耳が、私たちの立てる僅かな足音を捉えようと、こちらを向いた。
セラフィーナさんとリリアーナさんが、息を呑むのが分かった。
だが、番人は、それ以上動かなかった。
むしろ、その穏やかだった呼吸が、さらに深く、静かになっていく。
完全に、眠りの底へと落ちたのだ。
「……行きましょう。息を殺して、静かに」
私は、呆然とする三人よりも先に、眠る番人の横を、ゆっくりと通り抜けていく。
やがて、私たちは番人の縄張りを、完全に通り抜けることができた。
私が魔法を解くと、リリアーナさんが、信じられないものを見るような目で呟いた。
「……すごい……。戦わずに、魔物を……」
だが、セラフィーナさんは、違うものを見ていた。
彼女は、私の顔をじっと見つめ、ぽつりと、呟く。
「……あなた、本当に何者ですの?」
その声には、もう侮蔑の色は欠片もなかった。
「あなたの魔法は……わたくしの知る、どの魔法とも、違う……」
それは、四大氏族の天才が、初めて、自分以外の才能を、心の底から認めた瞬間だった。
私たちの間にあった見えない壁が、少しだけ、溶けた気がした。
森の番人の縄張りを抜けた後、私たちの間には、以前とは違う種類の静寂が流れていた。
それは、気まずさから来るものではなく、互いの力を認め合ったことから生まれる、心地よい静けさだった。
「……リィア、あなた、本当にすごいのね」
リリアーナさんが、先ほどまでの高慢な態度が嘘のように、素直な感嘆の声を漏らす。
「いいえ、皆さんの協力があったからです」
私がそう言って微笑むと、彼女は少しだけ顔を赤くして、そっぽを向いてしまった。
(ふふ、案外、素直な人なのかもしれない)
先頭を行くミエルの足取りも、心なしか軽やかだ。
自分の力が、この困難な実習で確かに役立っている。その事実が、彼女に大きな自信を与えているのだろう。
そして、私の後ろを歩くセラフィーナさんも、もう不機嫌そうに腕を組んではいなかった。
時折、私の背中や、ミエルが指差す珍しい植物に、探るような、純粋な好奇心の視線を向けているのが分かる。
私たちは、ただの寄せ集めではない。ちゃんと、「チーム」になり始めている。
森は、さらに深く、神秘的な様相を呈してきた。
木々の間を流れる空気は、ひんやりと澄み渡り、マナの密度がどんどん濃くなっていくのが肌で感じられる。
「……リィア、近いよ」
不意に、ミエルが足を止め、囁くような声で言った。
彼女は、地面に生えている、月の光を浴びて銀色に輝く苔を指差す。
「この『月光苔』……『月光花』の近くにしか、生えないはずだから」
その言葉に、セラフィーナさんとリリアーナさんも息を呑んだ。
私たちは顔を見合わせ、緊張と期待に胸を高鳴らせながら、さらに慎重に歩を進めていく。
やがて、ミエルが足を止めた。
木々が円を描くようにして拓けた、小さな広場。
そこだけ、まるで天蓋が切り取られたかのように、空が見える。
そして、二つの月が放つ柔らかな光が、スポットライトのように、広場の中央の一点を照らし出していた。
そこに、その花は咲いていた。
私たちが探していた、月光花。
銀色に淡く輝く花びらが、静かに、そして誇らしげに咲き誇っている。
「……あった……!」
ミエルの嬉しそうな声が、静かな広場に響いた。
私たちは、そのあまりの美しさに、しばらく言葉を失って立ち尽くす。
やがて、セラフィーナがぽつりと呟いた。
「……大したものですわね、ミエル・アルドンネ。あなたのその力……わたくしの炎では、決してこの場所へはたどり着けなかった」
それは、ミエルの才能に向けられた、彼女からの初めての、心からの賞賛の言葉だった。
ミエルは、はにかみながら嬉しそうに微笑んだ。
私たちは、任務に必要な分だけ、丁寧に月光花を摘み取る。
エラーラ先生が私たちに課した、本当の課題。
私たちは、それを確かに達成したのだ。
四人の間には、もう何のわだかまりもなかった。
私たちは顔を見合わせ、満足げに頷き合うと、今度こそ本当に一つのチームとして、学院への帰路についたのだった。




