転移魔法陣
キィィィーーーンンン…………コォォォーーーンン…………
その、奇妙な音が、再び教室に響き渡った。
今度は、学校の終わりを告げる本当のチャイムの音だった。だが、その音は、いつもの無機質な電子音ではない。まるで巨大な鐘を水中で鳴らしたかのように、歪んで、伸びて、不気味に響き渡る。
「……まただ」
「今度の音、やばくないか?」
「スピーカー、完全にイカれたな……。放送委員に文句言っとかねえと」
生徒たちは、一斉に動きを止め、困惑の表情を浮かべた。
桜庭先生も、青い顔で放送室のある方角を見つめている。
「み、皆さん、落ち着いて……。学校に、何か機材のトラブルがあったのかもしれません」
先生が必死にそう言った、その時だった。
歪んだチャイムの音が完全に消え去り、教室が、不自然なほどの静寂に包まれた。
そして、教室の中央、何もないはずの床の一点に、ぽつりと光が灯った。
それは、ロウソクの炎のような、頼りないほどの小さな光だった。
「……なんだ、あれ?」
誰かが呟いた。
その言葉に導かれるように、全員の視線が床の光に集中する。
その光は、まるで生き物のようにゆっくりと広がり始めた。直線と曲線が複雑に絡み合い、幾何学的な紋様を床に描き出していく。
それは、どんな有名な芸術家の作品よりも精緻で、そして神々しいほどに美しかった。
「うそだろ……これって……」
震える声で言ったのは、自他ともに認めるオタクの桐谷だった。彼は自分の目を何度もこすり、恐怖と、そしてほんの少しの興奮がないまぜになった顔で叫んだ。
「魔法陣だ! アニメとかで見る、召喚魔法陣だよこれ!」
その言葉が、引き金だった。
「ま、魔法陣!?」
「何言ってんのよ、ゲームじゃないんだから!」
「きゃあああああっ!」
「逃げろ!」
一瞬の静寂の後、教室はパニックの坩堝と化した。生徒たちが我先にとドアに殺到するが、ガタン、と鈍い音がしたきり、ドアはまるで壁に変わってしまったかのように、びくともしない。
「おい、開かねえぞ!」
「窓もだ! クソッ!」
絶望的な声が、あちこちから上がる。
「くそっ、なんなんだよこれは! どけ、お前ら!」
葛城隼人が、他の生徒を突き飛ばして、力任せにドアを蹴りつけるが、やはり結果は同じだった。
「みんな、落ち着いて! ドアに殺到したら危ない! いったん中央から離れて!」
結城大和が、必死に叫んで、パニックに陥る生徒たちをなだめようとしている。
高坂静流は、そんな混乱の中でも、ただ一人、冷静に床の魔法陣を観察し、その唇を固く結んでいた。
床に広がる光の紋様は、その勢いを増していく。
まばゆい光が教室を満たし始め、生徒たちの悲鳴を、少しずつかき消していった。
光は、もはや暴力的なまでの輝きとなって、教室のすべてを白く染め上げていく。
生徒たちの悲鳴は、耳鳴りのような甲高い音にかき消され、何も聞こえなくなった。
まるで、世界の音量を、誰かがゼロにしたかのようだ。
肌を撫でる風も、机の硬い感触も、何もかもが意識から遠ざかっていく。
ただ、ひたすらに白い光。
その中で、俺は、クラスメイトたちの、最期のシルエットを見ていた。
「皆さん……!」
桜庭先生が、恐怖に震えながらも、一番近くにいた生徒を庇うように抱きしめている。
「こっちだ! みんな、集まって!」
結城大和が、倒れた生徒に手を差し伸べ、必死に声を張り上げている。
「ふざけやがって……!」
葛城隼人が、諦めるどころか、怒りの形相で、天を睨みつけている。
高坂静流は、その場に立ち尽くし、ただ、目の前で起きている非現実を、その目に焼き付けるように見つめていた。
誰もが、それぞれの形で、この理不尽に立ち向かおうとしていた。
俺を除いて。
俺、一ノ瀬悠真は、教室の隅で、ただ呆然と、その光景を眺めていた。
クラスメイトに突き飛ばされ、床に尻もちをついた、なんとも情けない格好で。
(俺は……外側、か?)
魔法陣の光の円は、俺の足の、ほんの数センチ手前で止まっている。
俺は、この非日常から、取り残されるのだ。
そう思った瞬間、安堵にも似た感情が胸をよぎった。
だが、現実は、そんなに甘くなかった。
パキン、と。
空間そのものが砕けるような、鋭い音が響いた。
それまで安定していたはずの魔法陣の輪郭が、激しく乱れる。
光の津波が、その境界線を越えて、俺の足元へと、あふれ出してきた。
足元から、自分の身体が、まるでデータのように、光の粒子となって、さらさらと崩れていくのが見えた。
「――ッ!?」
声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。
熱い、とか、痛い、とか、そういうものではなかった。
ただ、自分が自分でなくなっていく。存在が、「消える」という、純粋な事実だけがあった。
足が、腰が、腕が、光の粒子となって、さらさらと崩れていく。
思考が、途切れる。
自分が何者で、どこにいて、何をしていたのか、すべてが曖昧になっていく。
(なんだよ、それ……。最期まで、傍観者か、俺は……)
薄れゆく意識の中、最後に見たのは、光の奔流に完全に飲み込まれ、その姿をかき消していくクラスメイトたちの姿だった。
彼らはどこかへ「行く」のだ。
だが、俺は違う。
俺はただ、ここで「消える」だけだ。
それが、一ノ瀬悠真という、ただの高校生の、最期の認識だった。
やがて、光が消え、音が消え、思考すらも消え去った。
何も無い。
完全な無。
俺は、ただの意識の点となって、永遠とも思える静寂の中に、ぷかぷかと浮かんでいた。
そして、その終わりも始まりもない無の中に、声ではない声が、直接響いた。
《――落ち着きなさい、迷い子よ》
その声は、厳かで、しかし不思議なほど心安らぐ響きを持っていた。
無の中に、もう一つの意識体が現れる。性別も年齢も判然としない、ただ純粋な光と影でできた、神々しい人型。
(……誰だ?)
思考だけで問う。
《私は、世界の事象を観測し編纂する者。お前は、召喚術式の暴走により因果の輪から外れ、消滅するはずだった魂だ》
その言葉は、まるで世界の真理のように、俺の意識にすっと染み込んできた。
《お前のクラスメイト20名は、この世界を脅かす『魔王』に対抗する『勇者』として正しく召喚された。だが、お前は違う。お前は、その過程で生まれた、想定外の綻びだ》
(じゃあ、アイツらは……もう、この世界のどこかに?)
《いや》
と、神は静かに首を振った。
《彼らが召喚されるのは、まだ少し先の話だ。だが、正規の対象ではなかったお前の魂は、術式の綻びによって、正規の時間の奔流から弾き出されてしまった。いわば、召喚の余波に流され、時の流れがおかしくなってしまっている。》
その言葉に、俺は自分の運命を、おぼろげながら理解した。
《君の魂は、本来なら消えるはずだった。だが、それを見過ごすのは、私の本意ではない。だから、君に新しい生を与えよう。この世界に転生する機会を》
《ただし、君は勇者ではない。特別な力は与えられない。どんな種族、どんな境遇に生まれるかも、巡り合わせ次第だ。それが、君が歩む、君だけの物語になる》
神は、慈しむように、そう告げた。
《行きなさい、新たな世界の子よ。君の第二の人生が、実り多きものであるように》
その温かい言葉を最後に、俺の意識は、再び、完全な無へと落ちていった。
転生前エピソードのラストですね。
次回からは異世界編になります!