最初の授業
掲示板の前での騒ぎが落ち着いた後、私とミエルは、新入生用の案内地図を片手に自分たちの教室へと向かっていた。
私たちの所属する「二組」の校舎は、学院の中庭から少し離れた、ひときわ静かで緑豊かな区画にあった。
「わぁ……見て、リィア! 壁からお花が咲いてる……!」
ミエルが、嬉しそうな声を上げる。
彼女の言う通り、二組の校舎である大樹の幹には、壁そのものから色とりどりの花々が咲き誇り、甘い香りを漂わせている。建物全体が、まるで一つの巨大な生け花のようだ。
校舎の周りには、見たこともない薬草や植物が植えられた庭が広がり、小さな妖精たちがその世話を焼いているのが見えた。
「すごい……ここだけ、流れている時間が違うみたい」
「ええ。とても、落ち着く場所ですね」
私たちは、開け放たれた教室の扉をくぐった。
扉を開けた瞬間、ふわりと、湿った土と甘い花の匂いがした。
中は、私が想像していたような、無機質に机が並んだ部屋ではなかった。半分は講義用の椅子が並んだ空間で、もう半分は、ガラス器具や薬草が並ぶ、本格的な錬金術工房のようになっている。壁一面が本棚になっており、天井からは乾燥させた薬草の束がいくつも吊るされていた。
そして、一番奥の壁は巨大なガラス窓になっていて、そこから陽光が差し込み、教室専用の薬草園をきらきらと照らし出している。
「すごい……! 私、ここで勉強できるんだ……!」
ミエルは、子供のように目を輝かせ、もうすっかりこの教室の虜になってしまったようだった。
教室には、すでに十数人の生徒が集まっていた。
セラフィーナさんがいた一組のような、ピリピリとした競争心に満ちた空気はない。皆、穏やかで、なんだか研究者みたいな人が多いみたいだ。
私とミエルが部屋に入ると、何人かがこちらを見て、はにかむように小さく会釈をしてくれる。
私たちは、窓際の空いていた席に並んで腰を下ろした。
ミエルは早速、窓の外の薬草園に夢中になっている。
私もまた、この穏やかで、知的な空気に満ちた教室が、すっかり気に入ってしまった。
(ここなら、落ち着いて自分の研究に集中できそうだ)
やがて、始業を告げる鐘の音が、森の奥から響いてくるように、優しく鳴り渡った。
生徒たちの私語がぴたりと止み、全員が教壇へと視線を向ける。
ぎぃ、と。
古い木の扉が、ゆっくりと開いた。
入ってきたのは、一昨日の夜、私たちの寮の部屋を訪ねてきた、あの女性教師――エラーラ先生だった。
彼女は静かに教壇の前に立つと、教室にいる生徒一人一人の顔を、射抜くように、しかしどこか慈しむように、ゆっくりと見渡した。
そして、ミエルの上で一度、私のところでもう一度、その視線がほんの一瞬だけ、長く留まった気がした。
「私が、これより君たちの担任を務めるエラーラだ。専門は、古代魔法と、治癒魔法理論。……よろしく」
凛とした、しかしどこか温かみのある声。
生徒たちの間に、心地よい緊張感が走る。
「さて、最初の授業を始める。……と言いたいところだが」
エラーラ先生は、そこで一度言葉を切り、その鋭い瞳で、まっすぐに私を捉えた。
「その前に、少しだけ、このクラスの皆に紹介しておきたい生徒がいる。――リィア・フェンリエル君、少し前に」
突然、自分の名前を呼ばれ、私は少しだけ驚いた。
教室中の視線が、一斉に私へと突き刺さる。
隣に座るミエルが、心配そうに私の服の袖を握った。
私は静かに立ち上がり、教壇の横へと進み出た。
エラーラ先生は、教室の生徒たちに向き直ると、静かに、しかしはっきりと告げる。
「知っている者も多いだろうが、リィア君の適性検査の結果は、前例のないものだった。純粋な治癒の光と、強力な強化の光。本来なら、彼女は治癒を専門とするこの二組ではなく、別のクラスに配属されるべきだったのかもしれない」
先生のその言葉に、教室が少しざわめく。
やはり、他の生徒たちも同じことを思っていたのだろう。
「だが、私は彼女をこの二組に招き入れた。なぜなら、彼女の持つ『強化』の力は、武器を振るうためだけのものではないと、私は考えているからだ」
先生は、そこで私に視線を送る。
「薬の効果を高め、生命そのものを活性化させ、そしてあるいは、全く新しい何かを生み出すための力となりうる。……この二組は、ただ傷を癒す術を学ぶ場所ではない。生命の理を探求し、守り、育むための知恵を学ぶ場所だ。リィア君の存在は、君たち全員にとって、これまでの常識を覆す良い刺激となるだろう。……互いに、よく学びなさい」
その言葉は、まるで祝福のように、教室の隅々まで染み渡っていった。
「さて、と」
エラーラ先生は、パン、と一つ手を叩く。
「前置きが長くなったが、最初の授業を始めよう」
彼女が教壇の上の木箱を開けると、中から現れたのは、葉が黄色く変色し、萎れてしまった一鉢の薬草だった。
「今日のテーマは、『対話』だ」
先生はそう言って、その哀れな薬草を生徒たちに見せる。
「この枯れかけた薬草と、君たちの魔力で『対話』をしてみてくれたまえ。何が原因で枯れているのか、何をしてほしいのか。その声を聴くことから、私たちの学びは始まる」
その、あまりにも詩的な課題に、生徒たちは戸惑いながらも、目を輝かせた。
何人かの生徒が挑戦するが、なかなかうまくいかない。
「では、ミエル・アルドンネ君。君がやってみなさい」
先生に指名され、ミエルが緊張した面持ちで前に出る。
彼女は、その鉢植えを前にすると、まるで我が子を慈しむように、そっと両手で包み込んだ。
彼女の指先から、あの適性検査の時と同じ、優しく温かい緑色の光が溢れ出す。
すると、萎れていた葉が、ほんの少しだけ、しゃんと上を向いた。
「素晴らしい。君には、植物の声を聞く、純粋な才能がある」
先生の賞賛の言葉に、ミエルははにかみながら嬉しそうに自分の席へと戻った。
「――では最後に、リィア君」
再び、私の名前が呼ばれる。
私は壇上に上がると、その薬草をじっと見つめた。
私には、ミエルのように、植物の声が聞こえるわけではない。
だが、私には、私だけの「対話」の方法があった。
私は薬草にそっと指先で触れる。
そして、その内部構造を「解析」した。
(なるほど。根詰まりによる、魔力循環の阻害。そして、特定の養分の欠乏、ですか。……ミエルが言っていた『寂しい』というのは、きっとこのことですね)
原因が分かれば、対処は簡単だ。
私はまず、欠乏している養分と同じ性質を持つ魔力を練り上げ、根に直接送り込む。
そして次に、強化の魔法を使い、詰まってしまっている魔力の通り道を、内側から優しく押し広げてやった。
次の瞬間――。
萎れていた薬草が、まるで早送りの映像のように、見る見るうちに生気を取り戻していく。
黄色かった葉は鮮やかな緑色に変わり、固く閉じていた蕾の一つが、ふわりと小さな白い花を咲かせた。
講堂中が、水を打ったように静まり返る。
その光景を前にして、エラーラ先生だけが、心底楽しそうに、そして満足げに、静かに微笑んでいた。




