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蜘蛛の巣の上での晩餐会

『鉄の狼団』を文字通り「掃除」してから、二日が過ぎた。

南地区のメインストリートは、嘘のように静けさを取り戻している。あれだけ我が物顔で闊歩していた傭兵たちの姿はどこにもなく、代わりに、恐る恐るではあるが、商人たちが少しずつ店を開き始めていた。

私の、少しばかり手荒な治療は、どうやら効果があったらしい。


「それにしても……」

宿屋「風追い人の羽根亭」の食堂で、エリスさんが深い溜め息をついた。

「街を歩けば、誰もがあなたを遠巻きに見るか、英雄を見るような目で見てくるか……。少し、落ち着かないわね」

「有名税、というものですよ。エリスさんも、そのうち慣れます」

「慣れたくないわよ、こんなの!」



「まあ、見てください。今日のスープ、いつもよりお肉が大きくありませんか?」

「……本当だわ。これ、完全に特別扱いされてるわね」

「ええ。こういう実利があるなら、まあ、悪くはないかと」

「あんたって子は、本当に……」



そんな、穏やかな朝の時間が、唐突に破られたのは、その時だった。



宿屋の前に、一台の、豪奢な馬車が音もなく停まったのだ。黒塗りの車体に、金色の装飾。馬車の扉には、見慣れない、しかし一目で高貴なものと分かる、鷲獅子グリフォンを象った紋章が刻まれている。

御者台に座る男も、扉の前に立つ従者も、寸分の隙もない、完璧な仕立ての制服に身を包んでいた。



「……なんだい、ありゃあ。貴族のお偉方が、こんな安宿に何のようだ?」

宿の主人のバルガーさんが、訝しげに呟く。

食堂にいた他の冒険者たちも、何事かと窓の外を眺めていた。



やがて、従者の一人が、背筋を伸ばしたまま、宿屋の扉を開けた。

そして、その場にいる全員に聞こえる、よく通る声で、静かに告げる。

「――ゴールドランクの冒険者、リィア・フェンリエル様はいらっしゃいますか」



その瞬間、食堂の全ての視線が、スープを飲んでいた私の元へと、槍のように突き刺さった。

エリスさんが、警戒を露わにして、そっと剣の柄に手をかける。

私は、ゆっくりとスプーンを置くと、立ち上がった。


「私ですが、何か?」

「我が主より、ご招待に上がりました」

従者は、感情の読めない無表情のまま、私に深々と一礼すると、一通の分厚い羊皮紙でできた封筒を差し出した。

その封蝋には、馬車の扉にあったものと同じ、鷲獅子の紋章が刻まれている。


私がそれを受け取ると従者は再び一礼し、何も言わずに外へ出て馬車と共に去っていった。

後に残されたのは、呆然とする冒険者たちと、私の手の中にある一通の招待状だけ。


「……リィア、あんた、一体何をしたのよ」

エリスさんの声が、少しだけ震えている。

「さあ? 心当たりが多すぎて、どれだか分かりませんね」


部屋に戻り、招待状の封を解く。中から現れたのは、美しい飾り文字で綴られた晩餐会への招待状だった。

差出人の名は、『エルドリッジ子爵』。このガルドランを実質的に支配する有力貴族の一人だという。


「……エルドリッジ。間違いないわ、あの『鉄の狼団』の後ろ盾だと噂されていた男よ」

エリスさんが、苦々しげに吐き捨てる。

「これは、罠よ。のこのこ出向いていけば何をされるか分からないわ」

「ええ、そうでしょうね」


私のあまりにも落ち着いた返事に、エリスさんが信じられないといった顔でこちらを見た。

「分かってて、行くつもり!?」

「ええ、もちろん。だって、招待されてしまったのですから」

私は、招待状の美しい文字を、指でそっとなぞる。



「考えてもみてください、エリスさん。彼らは、私を消したいのであればもっと静かな方法を選べたはずです。腕利きの暗殺者を雇うとか。ですが、彼らはあえて街中の誰もが見ている前で私を招待した」

「それは……」

「これは、罠であると同時に、彼らからの『試験』であり、『交渉』のテーブルへの招待状でもあるのです。もし私が、この招待を恐れて街から逃げ出せば、彼らは私を『その程度の小物』と判断するでしょう。ですが、もし私が出向けば――」



私は、エリスさんの目を真っ直ぐに見つめ返す。

「――彼らは、私を対等な交渉相手として、認めざるを得なくなる」

「……」

「それに、蛇の巣がどこにあるか分かったのなら、その中心をこの目で見ておきたいと思いませんか?」



私のその、あまりにも大胆不敵な言葉に、エリスさんはしばらく呆然としていたが、やがて、その口元に、好戦的な笑みが浮かんだ。

「……はぁ。本当に、あなたの頭の中はどうなってるのかしらね。分かったわよ。行けばいいんでしょ、その晩餐会とやらに!」



---



その日の夜。

私とエリスさんは、エルドリッジ子爵から送られてきた馬車に乗り、彼の屋敷へと向かっていた。

貴族の晩餐会ということで、深い青のドレスに身を包んでいる。

「……なんだか、落ち着かないわね、こういう格好は。鎧の方が、よっぽどましだわ」

「よくお似合いですよ、エリスさん」



やがて馬車は、貴族街でひときわ大きく、そして悪趣味なまでに豪奢な屋敷の前で停まった。

執事に案内され、通されたのは、眩いほどのシャンデリアが輝く、広大なホール。

そこにはすでに、着飾った大勢の貴族や商人たちが集まり、偽りの笑みを浮かべて談笑していた。



その輪の中心に、一人の男がいた。

肥満した身体に、宝石を散りばめた、これまた悪趣味な衣装。その顔には全てを値踏みするような、いやらしい笑みが浮かんでいる。

彼が、エルドリッジ子爵。



彼はこちらの姿を認めると、その小さな目を細めグラスを片手にぬっと近寄ってきた。

「ようこそ、リィア殿。そして、そちらは《銀閃》のエリス殿ですな。この度の、南地区でのご活躍、お見事でしたぞ」

その声は、蛇が獲物に絡みつくようにねっとりと甘い。



「おかげで、わしの管理する地区から厄介な害虫が駆除できましたわい。いやはや、感謝してもしきれませぬな」

「それはようございました。では、私たちの仕事はもう終わったということですね」

私がそう言ってにっこりと微笑むと、子爵の顔がほんの少しだけひきつった。



「まあ、そう急かれなさるな。今宵は、あなたを歓迎するための宴。さあ、まずは一杯」

差し出される、高価そうなワインのグラス。

私はそれを受け取らず、ただ静かに彼を見つめ返した。



「あいにく、まだお酒の味はよく分からなくて。……それよりも子爵」

私は、声のトーンを一つだけ低くする。

「あなたのその、飼い犬の躾がなっていないせいで、私の友人が、少しだけ迷惑を被ったようです。その件について、何かおっしゃることは?」



その一言で、ホールの空気が、凍りついた。

エルドリッジ子爵の顔から、笑みが完全に消え失せていた。



私のその、あまりにも静かで、しかし刃のように鋭い一言。

ホールを支配していた偽りの喧騒が、ぴたりと止んだ。音楽さえも、まるで空気を読んだかのように、その音量を下げる。

着飾った貴族や商人たちが、何事かと、好奇と驚愕の視線をこちらへと向けていた。


エルドリッジ子爵の顔から、ねっとりとした笑みが、完全に消え失せていた。

その小さな瞳の奥で、冷たい計算と、格下の者に足元をすくわれたことへの屈辱の炎が揺らめいている。


「……はて。飼い犬、とは何のことかな、リィア殿。わしは犬など飼っておらんが」

数秒の沈黙の後、彼はそう言って白々しく小首を傾げた。

「南地区で騒いでいたという、狼の群れのことならわしも聞いている。君たちがそれを始末してくれたおかげで街は平和になった。その功績を称えるための、今宵の宴だと思っていたのだが……違うのかね?」



その、あまりにも見事なとぼけっぷり。

隣で、エリスさんが「このタヌキ親父……」と、歯噛みするのが分かった。

だが、私は表情を変えない。むしろ、その口元に穏やかな笑みすら浮かべてみせた。


「まあ、そうでしたか。それは、私の早とちりだったようですね。大変、失礼いたしました」

私が、あっさりと、しかしどこか感情の読めない声色でそう言うと、子爵は一瞬拍子抜けしたような顔をした。

「……いや、分かっていただければ、よろしい」


「ええ、よく分かりました。あなたほどの権力者が、街の平和を乱すような、躾のなっていない野良犬の群れと、繋がりがあるはずもありませんものね」

私は、そこで一度、言葉を切る。

そして、その場にいる全員に聞こえるようにはっきりと続けた。



「つまり、彼らは、誰の後ろ盾もないただの野良犬だった。……であれば、私が街の掃除の一環として、残った犬を全て『処分』したとしても、誰からも文句を言われる筋合いはない。……そういうことで、よろしいですね?」


その瞬間、エルドリッジ子爵の顔が、みるみるうちに青ざめていった。

私の言葉は、彼が弄してきた権力という名の盤上で、彼に、完璧な「詰み」を宣告していたのだ。

ここで「そうだ」と認めれば、彼は『鉄の狼団』との繋がりを完全に失う。かといって「違う」と否定すれば、彼自身が、あのチンピラ共の飼い主だと、この場で公言することになる。


「……っ」

冷や汗が、彼の額を伝う。

周囲の貴族たちも、固唾を呑んで、この静かな戦いの行方を見守っていた。


「……は、はは。リィア殿は、随分と物騒な冗談をおっしゃる」

乾いた笑い声で、なんとかその場を取り繕おうとする子爵。

だが、私はその逃げ道を容赦なく塞ぐ。



「冗談などではありませんよ、子爵。私は、私の仲間を脅かすものは、それが犬であれ、狼であれ、あるいはそれ以上の獣であれ、容赦はしません」


私がそう言って、にっこりと微笑むと子爵はついに言葉を失った。

その時だった。


「――これはこれは、エルドリッジ子爵。今宵も賑やかな宴ですな」


不意に、凛とした、それでいてどこか傲慢な響きを持つ声がホールに響き渡った。

声のした方を見ると、そこには、ひときわ豪華な衣装に身を包んだ、一人の青年が立っていた。年の頃は、二十代半ばだろうか。その美しい顔立ちには、貴族特有の気品と選民意識に満ちた、冷たい光が宿っている。


「おお、クラウス様! これはこれは、ようこそお越しくださいました!」

エルドリッジ子爵の顔が、安堵・媚びへつらいの色に変わる。彼はまるで救いの神でも現れたかのように、その青年へと駆け寄った。


「クラウス……? 嘘でしょ、なんで王都の人間が、こんなところに……」

隣で、エリスさんが、忌々しげに呟く。


青年――クラウスは、私を一瞥すると、その唇に、薄い笑みを浮かべた。

「あなたが、噂の“深淵の魔女”ですかな? ふむ……噂に違わぬ、美しいエルフだ。我が父もぜひ一度、君と話がしたいと仰せでしたぞ」


その、あまりにも尊大な物言い。

私は、ただ静かに彼を見つめ返した。

この男、エルドリッジ子爵とはまた違う種類の危険な匂いがする。


「あいにく、今宵の私はあなた方とお喋りをするために来たのではありませんで」

クラウスは、そう言うと、ホールの隅で青ざめた顔で立ち尽くしていた一人の男を手招きした。



「子爵。あなたの、その『飼い犬』の管理不行き届きのせいで、我々が王都から極秘に進めている『計画』に、遅れが生じている。……これは、どういうことですかな?」

その声は、静かだが、鋼のように冷たい。

エルドリッジ子爵の顔から、再び血の気が引いていく。



「も、申し訳ございません! こ、この通り、すぐに代わりの手を……!」

「いえ、その必要はありません」



クラウスは、子爵の言葉を遮ると、ゆっくりと、私へと向き直った。

その瞳には、獲物を見つけた蛇のような昏い光が宿っている。



「リィア殿。あなたほどの腕があれば、我々の『計画』の、素晴らしい助けとなるでしょう。……どうですかな? この、つまらない田舎の貴族の下で燻るより、王都に仕え、より大きな仕事を成し遂げるというのは」



それは、あまりにも傲慢で、そして、有無を言わさぬ、勧誘の言葉だった。

私を、自分の駒として使おうという、その魂胆が透けて見える。

私は、ゆっくりと息を吸った。



「お誘い、痛み入ります、クラウス様。ですが、あいにく、私は誰かの駒として動く趣味は持ち合わせておりませんで」



私のその、あまりにもきっぱりとした拒絶の言葉。

クラウスの、美しい顔から、笑みが、すうっと消える。



「……ほう。面白いことを言う。この私、クラウス・ヴァインベルクの誘いを断ると?」

「ええ。それに、あなた方の言うその『計画』とやらにもあまり良い匂いがしませんので」

「……いいだろう」



クラウスは、それ以上、何も言わなかった。

ただ、その瞳の奥で、冷たい炎が、静かに燃え上がったのを、私は確かに見た。

彼は、私と、役立たずの駒となったエルドリッジ子爵を侮蔑するように一瞥すると静かに踵を返した。


「――この埋め合わせは、いずれ必ず」


その一言だけを残して、彼はホールから去っていった。

後に残されたのは、気まずい沈黙と、完全に面目を失ったエルドリッジ子爵だけ。

私は、そんな彼にとどめの一言をそっと贈ることにした。


「……さて、と。どうやら、随分と、お話が長くなってしまったようですね。せっかくの晩餐会ですが、私は、そろそろ失礼させていただきます」


「ああ、それと子爵。あなたのその『野良犬』たちの治療費ですが……今度、請求書をギルドの方へお送りしますので。忘れずお支払いくださいね」


その言葉を最後に、私はエリスさんと共にホールを去っていった。

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ヴァインベルク? なにそれ、みたいな。 この人間の国の名前も分からないレベルなので「ふーん、家名を笠に着るなんか偉そうな奴がでてきたね」くらい。 家名から王族では無いのは分かるけど伯爵〜公爵のどこあた…
リィアの方は何を着ていったんだ エリスと色違いのドレス?
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