プロローグ
初投稿となります。
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じりじり、と肌を焼くような日差しが、窓から差し込んでいる。
外からは、うんざりするほど元気な蝉の声。教室の中は、生ぬるい空気と、もうすぐ始まる夏休みへの期待感で、奇妙なほどに弛緩していた。
高校2年生の、夏。
「はーい、皆さん、静かにしてくださーい。夏休み前、最後の連絡ですよー」
教壇に立つ桜庭先生の声が、少しだけ疲れているように聞こえるのは、きっとこの暑さのせいだけではないのだろう。
彼女がこの、個性の強すぎる2年A組の担任になってから、早三ヶ月が経っていた。
先生の手から、一枚のプリントが配られていく。
「うわ、もう進路希望調査かよ。めんどくせー」
「お前、どうすんの? 文系? 理系?」
進路、という言葉に、教室のあちこちで、諦めと、ほんの少しの焦りが混じった声が上がる。
やがて、そのプリントは、教室の隅、窓際の一番後ろの席に座る、一人の男子生徒の元にも届けられた。
一ノ瀬悠真。
彼は、そのプリントを静かに受け取ると、ただ無言で、その白い紙を見つめている。
そんな中、教室の後ろの方で、ひときわ大きな声が響いた。
「はっ、進路だあ? んなもん、考えるだけ無駄だろ」
声の主は、葛城隼人。彼は、配られたプリントを指で弾きながら、つまらなそうに言った。
そのカリスマ的な傲慢さで、クラスの派手なグループに君臨する男、葛城隼人。
彼の言葉に、隣にいた牧野がすぐに同調する。
「だよな! 隼人はスポーツ推薦で余裕っしょ!」
「まあな。めんどくせー受験勉強とか、凡人がやることだろ」
隼人は、そう言って悪びれもせずに笑った。その傲慢な態度に、女子生徒の何人かが「もー、隼人くんってばー」と楽しそうに声を上げる。
一方、教室の前方では、全く違う会話が繰り広げられていた。
その誠実な人柄から、隼人とは違う意味で人望が厚い、クラスの良心の中心にいるのが結城大和だ。
「結城はどうすんだよ。やっぱ、国立の法学部とか?」
「いや、まだ全然決まってないよ。でも、人の役に立てるような仕事には就きたいと思ってるんだ」
友人の問いに、彼は、困ったように笑いながらそう答える。その言葉に、周りの生徒たちは「大和らしいな」「頑張れよ」と温かい声をかけていた。
そして、そのどちらの輪にも加わらず、一人、静かに分厚い専門書を読んでいたのが、高坂静流だ。
この高校で一番の美人と言われ、常に学年トップの成績を維持する才女。だが、その完璧さと、他人と馴れ合わないクールな態度から、密かに「氷の女王」と呼ばれている。
そんな彼女に、ムードメーカーの汐見明日香が、屈託のない笑顔で話しかけた。
「ねえねえ、静流ちゃんはー? やっぱ、理系のエリートコース?」
「ええ。そのつもり」
静流は、本から目を離すことなく、短く、しかしはっきりと答えた。その一言だけで、彼女の揺ぎない自信が伝わってくるようだった。
キーンコーンカーンコーン。
その日の授業の終わりを告げるチャイムが、教室に響き渡った。
生徒たちが、一斉に「っしゃー!」と声を上げ、鞄に荷物を詰め始める。
「はーい、そこまで! 少し静かにしてください。最後に、夏休みの諸注意がありまーす!」
桜庭先生が、少し慌てたようにパンパンと手を叩くが、生徒たちの意識は、もう完全に夏休みに向いていた。
「よっしゃー、やっと終わりか!」
「なあ、この後カラオケ行かね?」
「いいね! 明日香も誘おうぜ!」
教室のあちこちで、そんな楽しげな会話が飛び交う。
悠真も、その喧騒の中で、静かに鞄に教科書を詰めていた。
「こらー! まだ話は終わってませんよー! 夏休みの課題のプリントを……」
先生の必死な声が、生徒たちの騒がしさにかき消されかけた、その時だった。
キィン……。
まるで、澄んだガラスを指で弾いたような、奇妙な音がほんの一瞬だけ響き渡った。
その不思議な音に、あれほど騒がしかった教室が水を打ったように静まり返る。
「……ん? なんの音だ?」
誰かが呟いた。
生徒たちが、きょろきょろと辺りを見回すが、音の出どころは分からない。
悠真は、その瞬間、隣の窓ガラスが一瞬だけ、陽炎のようにぐにゃりと歪んだのを、確かに見ていた。
「……気のせいか」
「まあ、いいや」
だが、異常は、ほんの一瞬。
すぐに元の、ありふれた教室の風景に戻ると、生徒たちはすぐに興味を失い、再び夏休みの計画についての雑談を始めてしまった。
「皆さん! プリントです! これを受け取らないと帰れませんよ!」
先生は、その一瞬の静寂を逃さず、今度こそと声を張り上げた。
その必死な様子に、クラスから苦笑が漏れる。
結城や高坂といった委員長たちが、先生を手伝い、プリントを配り始めたことで教室はようやく帰りのホームルームらしい雰囲気に落ち着いていった。
「うげ、課題多すぎだろ。やってらんねー」
隼人が配られたプリントの束を見て悪態をつく。
「まあ、計画的にやれば大丈夫だよ。分からないところがあったら、休み中に連絡してくれてもいいし」
隣の席の友人を、結城大和が励ましている。
教室は、夏休みを目前にした、いつも通りのざわめきを取り戻しつつあった。
悠真も、先ほどの窓の歪みは、やはり気のせいだったのだろうと結論づけ帰り支度を始めていた。
誰もが、このままあと数分後にはこの教室を出てそれぞれの夏休みが始まるのだと思っていた。