変わる朝、変わった日常
目覚ましの音が鳴る前に、目が覚めた。
なんとなく体が重くて、寝汗もひどい。喉も乾いてるし、いつもと違う妙な感覚が全身に残っていた。昨晩の夢のせいかもしれない。暗い部屋で、誰かの声が聞こえたのだ。
「本当にそれが望みなら……叶えてあげるよ」
ふざけた夢だと思っていた。けど、目を覚ました瞬間、その夢がただの夢ではないことを、嫌でも知ることになる。
鏡の中にいたのは、女だった。長い黒髪、柔らかな輪郭、小さな顎、ふっくらとした唇。胸元には明らかな膨らみがあり、腰のラインも細い。触れてみれば、どこもかしこも柔らかく、繊細で、確かに「女性」の体だった。
「な、なんで……?」
声も高く、息をのむたびに自分のものとは思えない反響が耳に残る。どんなにまばたきをしても、寝直しても、この現実は変わらなかった。
携帯も顔認証が通らず、指紋も反応しない。仕方なくパスコードを入れてみれば、中のデータはすべて自分のままだ。SNSの投稿も、友達リストも。だが、写真に写る「元の自分」と、今この体に宿っている「自分」が一致していない。
現実と記録のねじれ。どちらが真実なのか、頭がぐらぐらと揺れる。
その日から、見知らぬ日常が始まった。
制服は女子用のものが用意されていて、下着までサイズはぴったりだった。家族には変化がバレるかと思ったが、両親も姉も、当然のように接してくる。「女の子の自分」を、最初からそういう存在として認識しているようだった。
学校でも同じだった。
クラスの友達、教師、誰一人として異変に気づく様子はない。自分だけが、世界から浮いている感覚だった。
さらに奇妙なことが続いた。
日記帳には、女としての日常がびっしりと綴られていた。自分の筆跡で。どうやら、記憶だけが変わっていないらしい。
そして、日記の最後のページにはこう書かれていた。
「もし、今日も夢の続きを見たら――次は元に戻れる気がする」
元に戻れる?
混乱しながらも、その夜は怖くなって布団に潜った。
翌朝――体は、まだ女のままだった。
戻っていなかった。
だけど、少しずつこの体での生活にも慣れてきていた。スカートをはくことにも、化粧にも、友達と恋バナすることにも。何より――彼の存在が、心を占めるようになっていた。
「最近さ、なんか優しくなったよね。前より素直で、好きだよ」
そう言って微笑んでくる彼の目が、真っ直ぐすぎて、思わず心が揺れた。
本当の自分は男だった。だが、今は――心が、この体と少しずつ重なってきている。
戸惑いながらも、ふと思う。
「……戻る必要、あるのかな」
数週間が経った。
ある晩、再びあの夢を見た。
闇の中、あの声がまた囁いてきた。
「どう? もう十分楽しんだ?」
「……いや、ちょっと待って。これって、全部あんたのせいなのか?」
「君が望んだんだよ。"もしも女の子だったら"って」
「……確かに、思ったことはある。けど……」
「じゃあ、選んでごらん。元に戻るか、それとも――」
声が途切れる。
気づけば、目の前に2枚の写真が浮かんでいた。
ひとつは、元の自分。無表情で画面を見つめる男子高校生。
もうひとつは、今の自分。笑っている。横には、彼がいた。
「どちらが“本当の自分”かなんて、もう関係ない。ただ――」
「……ただ?」
「どちらで"生きたいか"、それだけさ」
次の朝。
目覚ましが鳴る。手を伸ばして止めたその手は――細くて、白かった。
鏡を見る。笑っているのは、昨日と同じ「彼女」だった。
「……選んだんだな、私」
制服を着て、いつも通り登校する。クラスメイトが手を振って、彼が廊下で待っている。
世界は何も変わっていない。
けれど、ひとつだけ違うのは――
今の私は、もう「戻りたい」と思っていないことだった。
教室の窓辺、ぼんやりと空を見上げながら、ふと考える。
あの日、夢の中で声がこう言っていた。
「これは“試用期間”みたいなものだから、最終決定は君がするんだよ」
そして、選んだのだ。
もう一度、元に戻ることを――
選ばなかった。