泥と蜜、みたらしの帰れぬ味
淀川枚方・幕府の築堤工事現場——
杭を打つ音が、灼けるような空気に溶け込んでいく。
カンッ!カンッ!カンッ!
一定のリズムを刻みながら、乾いた衝撃が大地を揺らす。
しかし、その音の合間に混じるのは、
男たちの重い息遣いと、泥に足を取られながら呻く声だった。
蒸し暑さが肌にまとわりつき、汗はすでに衣服の奥深くまで染み込んでいる。
杭打ちの槌を握る手は、
泥と血で薄くひび割れ、爪の間には土がこびりついている。
「…足が抜けねぇぞ!」
杭を運んでいた男が、ずぶずぶと深みに嵌まり、膝まで泥水に沈んでしまう。
仲間が手を伸ばし、ようやく引き上げるが、
疲れにまみれたその顔には苛立ちよりも、
ただ黙々と働くしかない諦めが滲んでいた。
そんな地獄のような作業の中、
吟味役を務める桂木新之介は、
杭打ちの音を聞きながら現場を見渡していた。
彼の着流しもすでに湿り、額から滴る汗を拭うこともせず、
男たちと同じ土煙の中に立っている。
「一息入れろ。」
静かに、だがはっきりとした声で言った。
男たちは驚いたように新之介を見た。
幕府の工事では、指揮を執る者が「休め」と言うことなどほとんどない。
だが、新之介はただ現場を冷静に見つめたまま、職長に向かって頷いた。
「この杭を打ち終えたら、しばし休め。水を飲め。」
男たちはほんの一瞬、顔を見合わせた。
しかし誰も逆らう者はいない。
次の杭を打ち終えると、
一人、また一人と腰を下ろし、泥だらけの襦袢を緩めた。
そこへ、静かに歩を進める男がいた。
平蔵——
彼は、他の労働者たちと変わらぬ粗末な身なりだった。
襦袢の袖は泥の痕で黒ずみ、帯の端は擦り切れている。
だが、その背にはどこかしらのしなやかさがあった。
強く張った肩、労働に鍛えられた腕。
決して武士のそれではないが、土と汗に染まりながらも、
踏みしめる地に不思議な揺るぎなさを宿していた。
目元には薄く皺が寄り、
太陽に焼けた肌は深く刻まれた労働の日々を物語る。
だが、その目は、ただ苦労にくすんだものではなかった。
どこか遠くを見ている目だった
それは、堤の向こう側——
いや、それよりも遠い場所を見つめているように思えた。
「吟味役殿の御采配、ありがてえな。」
低く、静かな声で言った。
その声には、労働者の疲れと共に、ほんの僅かに温かさがあった。
新之介はその言葉に、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「働く者が持たんことには、堤も持たん。」
(吟味役とは、工事の進行や技術的な検証を担う幕府の役職である。
現場の者たちにとっては、工事の責任者として捉えられることも多かった。)
平蔵は苦笑しながら、懐から包みを取り出す。
粗末な干し飯と、塩をまぶした乾燥魚。
酒粕を湯で溶いたものが、かすかに湯気を立てていた。
「贅沢なもんじゃねぇがな。」
新之介はその食事をじっと見た。そして、平蔵を見た。
「平蔵、八重洲で茶屋をやってると聞いた。美味い団子でもあるのか?」
「そりゃあな。」平蔵は目を細める。
「嫁が女将をしてるんでさ。あいつのみたらし団子、これが他所とは違う。
甘露な蜜がたまらねえんで、一日働いた疲れも消えちまうよ。
吟味役殿にも食わせてやりてえや。」
その言葉には、何かしらの遠さがあった。
この男が、この茶屋へ戻ることは、あるのだろうか——
新之介の胸の奥に、そんな疑念がかすかに灯った。
そして次の瞬間——
「おめーら、そりゃあのんびりしすぎだ!
休まず働けば、儲かろお!?働け!働け!ギョハッ!ギョハハッ!!」
休息の静けさを切り裂くような声が響いた。
男たちは一斉に振り向き、誰もが息を詰まらせる。
そこに立っていたのは、
豪奢な袷を纏い、涼しげな顔で工事現場を見下ろす河村瑞賢だった。
作業場の沈黙を引き裂くほどの声だった。
彼の笑い声が、汗まみれの男たちの背筋を凍らせた——
あとがき
読者の皆様、第五話をお読みいただき、ありがとうございます。
この五話では、過酷な工事現場に生きる庶民の姿を描きながら、
権力の無情さと、
その影に飲み込まれていく男たちの生き様を刻みました。
平蔵——
彼が握る泥にまみれた干し飯、語る茶屋の味、懐かしむ妻の煎れる茶。
それらは彼の「生」を象徴するものでもあり、
読者の皆様にとっても、
あるいは自らの人生に重なるものがあったのではないでしょうか。
そして河村瑞賢——利を追い、秩序の名のもとに庶民を支配する存在。
彼の言葉は荒々しく、
滑稽なほど強引ですが、それこそが「幕府の意志」ともいえるもの。
そこに抗えぬ者たちの現実を、
少しでも伝えることができていれば、幸いです。
この五話は、一つの転機です。
新之介が、剣を握ることに迷い、平蔵の運命を見つめる——
この場面が、後の展開へどう繋がるのか、
それは次の章で語られることになります。
物語はまだ続きます。
この先、『みたらし浪人』の世界はさらに深く、
さらに激しく揺れ動いていくでしょう。
皆様が、この物語の行く末を見届けてくださることを願っています。
それでは、また次話でお会いしましょう。
敬具