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淀川の泥

挿絵(By みてみん)

風見庵——


重く淀んだ湿気が漂っていた


雨はほぼ止んでいるが、

蒸し暑さが空間を満たし、土の匂いが強く立ち込めている。

その蒸気は、風の流れに乗って逆流し、鼻腔へ入り込む。

細かな土の粒子が張り付き、

雨と泥が混ざった風味が新之介の記憶を刺激した。


脳裏に現れたのは、幼き日の情景——


父に連れられた、淀川の土手。

川面にきらめく陽の光。水辺へ降りるカワウとマガモ。

見上げる背中は、遥かに大きく、揺るぎなかった。


**カッ!カツ!**


一定のリズムで、短く、響いた。

乾いた咳払いが新之介の鼓膜へと響き、現実に呼び戻される。

榊原敬道は、背中を僅かに震わせた後、

湯呑を大きな手で掴み、静かに掲げた。

風見庵の空気が僅かに引き締まる。

何事も無かったように重く佇む男の背。

それは、まるで武士の矜持を語らずにして誇示している様だった。


新之介は、その様子を目で追った。

いや、新之介だけではない。

客たちも、遠巻きにしてひそひそと呟いていた。


「あれは、お艶の夫を斬った男…」


「いうな…老中堀田様のご家来衆だぞ…」


榊原は湯呑を置き、僅かに息を吸い込んだ。


「お艶、久葛餅はあるか?」


喉の奥から響く、短い声の音、聞いた声だった。

その瞬間——


新之介の頭の中で、カン!カン!カン!と杭を打つ音が遠くで鳴った


——あの時も、同じだった。


湿った風が肌を包む。

杭を打つ労働者たちの影が、泥の中へと沈み込んでいく。

地面には蒸した湿気がこもり、空気が重くまとわりつく。


**五年前——治水工事の現場**


御料地(幕府領)、淀藩領。

淀川の水害は古くより災厄の種であり、これを治めるべく、

淀川全域に渡る水害調査と築堤工事が進められていた。

これは天下の政を握る五代将軍・徳川綱吉公のもと、

幕府の台所事情も絡み、財政再建の一策ともなった大事業でもあった。


桂木新之助の生まれは京・賀茂の地、泉川町(後の下鴨)。

地の理に通じ、稲葉正休の家臣として堤の築造に関わり、

職人衆をまとめ、工事の采配を振るっていた——


工事現場には、地元の農民に加え、

商人の出資で雇われた作事人、

川除人、そして牢人くずれの土工たちが混在していた。

杭を打つ者、堤の土を均す者、木挽こびきとして資材を加工する者——

それぞれの役割が交錯しながら、泥と汗にまみれて工事は進められていた。

だが、その作業は、決して順調ではなかった。

淀川は、ただ流れるだけの穏やかな水ではない。

一度氾濫すれば、荒れ狂う濁流が川の土砂を押し流し、

工事現場へと容赦なく襲いかかる

堤を築いても、増水の度に押し寄せる泥が積み重なり、

河床はじわじわと上昇する。

浚渫の作業に駆り出された者たちは、

ひたすら川底の泥を掘り、かき出し続ける

泥は、ただ地面を覆うだけではない。


皮膚に張り付き、汗と混ざり、労働者たちの身体を重くする。


男たちの衣服は、どれも染みだらけで、薄汚れた襦袢が背に貼りつく。

手のひらはひび割れ、

爪の間に入り込んだ泥は、もはや落とすことなど考えられない。

杭を打つ音が響く。

蒸し暑い空気の中、新之介の目は一人の男へと向かう。


河村瑞賢——幕府の財政を握る巨商。


だが、その姿は工事現場にはあまりに異質だった。

豪奢な紫のあわせに、金襴の帯を締め、艶やかな鼻緒の草履が、

泥に沈む職人たちとはあまりにかけ離れている。

肩から掛けた黒漆の印籠が、陽光を受けて鈍く輝いた。

彼は工事現場を見回しながら、微笑を浮かべる。


「人の欲はな、淀川の水よりも制御できんぞ!ギョハッギョハッ!ギョハ!」


その笑い声は、湿気を帯びた空気にくぐもって響いた。

職人たちの視線が、一瞬、瑞賢のきらびやかな衣に向けられる。

だが、すぐに杭を打つ作業へと戻っていく。

新之介は、その様子をじっと見つめていた。

この男の笑いが、何を意味しているのか——

この工事の裏には、

幕府の思惑、商人たちの利害、武家の秩序が複雑に絡んでいた。


そして、その中心で泥に足を沈めているのは、職人衆と新之介だった——


あとがき


この第四話では、労働者たちが淀川の泥の中で生き抜いていく姿を、

より生々しく、濃密に描くことを意識しました。

治水工事という一見地味なテーマも、

当時の幕府財政や商人の思惑が絡むことで、

ただの土木作業ではなく、壮大な政治の渦の中の一断面となります。


桂木新之介が目の当たりにする世界は、汗と泥にまみれた者たちの現実

河床の上昇と氾濫した土砂、杭打ちの音、粘りつく湿気——

すべてが彼らの戦場であり、生活の場でした。


それを打ち砕くように登場する河村瑞賢。

彼のきらびやかな衣装と「ギョハッギョハッ!ギョハ!」という異質な笑いが、

物語に強烈なコントラストを生んでいます。


読者がこの話を通じて、単なる時代劇ではなく、

人間と自然、

欲と秩序の交錯する歴史の一場面を体感できるように——

そんな願いを込めて、執筆しました。

次の話では、新之介がさらに泥の深みに足を踏み入れることになります。

彼の運命がどう動くのか、

そして幕府の大事業の裏に潜む真実とは何なのか。

この物語がどこへ向かうのか、ぜひ続きも楽しんでもらえたら嬉しいです!

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