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静寂の影

挿絵(By みてみん)

夜は深まっていた。

風見庵の軒下から、雨の残響が落ち続ける。

滴が木の柱を伝い、しみ込むように地へ還る。


茶屋の内には静寂があった。

それは、ただの静けさではない。

空気は湿り気を帯び、呼吸がわずかに重くなる。

その場にいる者だけが感じる、沈黙の重み。

新之介は、湯呑の表面を親指でゆっくりと撫でていた。

指先に伝わる熱と滑らかさを感じながら、

その手の動きだけが時間を刻んでいる。

視線を上げることもなく、ただ沈黙の中に身を置いていた。


「風見庵に来れるような気持ちになったんか」


お艶の声は静かだった。

その音は、茶屋の空気に溶け込むように響く。

お艶は、静かに手元の茶器を取り上げた。

指先が淡く光を受け、わずかに湿った空気がその動きを柔らかく包み込む。

湯呑の縁を親指でなぞるようにしながら、ふと視線を落とした。

新之介を真っ直ぐ見ることはない。

ただ、わずかに息を吸い込み、そのまま時間を留めるように吐く。

その間には、言葉ではなく、沈黙の余韻が流れていた。

そして、お艶は口を開く。


「……夫が斬られて……あんたは、ここへこうへんようになった。せやろ?」


新之介は、湯呑をゆっくりと指先で回す。

その動作は何かを測るように、慎重だった。

お艶は静かに息を吐いた。


「しゃあないことやったんかもしれへんね」


その言葉に感情はなかった。

ただ、それが流れた時間の結果だった。


「稲葉様が改易されて、あんたも浪人になった。

武士の立場を失うっちゅうんは……あんたが思う以上に、きついもんやろ」


お艶の手が、そっと新之介の甲に触れる。

そのぬくもりに、新之介はわずかに視線を上げた。


「……もともと我は根っからの瘋癲やで」


その言葉は、風のように軽く、しかし深く響いた。


「昔な……恨んどったよ、あんたを」


お艶は、湯呑に茶を注ぎ終えると、静かに言葉を落とした。

新之介の指先が、僅かに止まる。


「うちの夫を守れんかった侍。死に追いやった男。

あん時、あんたがもっと違う生き方を選んでたら、

違う未来もあったんちゃうかって思っとった」


新之介は、ただ黙っていた。


「けど……今はもう、しゃあないことやって思っとる」


お艶の言葉には、怒りも憎しみもない。

それが、かえって重かった。


「お前は、それを……ほんまにしゃあないことやって思えるんか」


新之介は、低く呟いた。

お艶は、小さく息を吐いた。


「そう思わんと、生きていかれへんからね」


新之介は湯呑を手に取り、その言葉の重みを噛み締める。


「……この茶、ちょっとだけ渋ぅなっとるな」


お艶は、何をおちゃけとるのかと言わんばかりに、手の平を仰ぎ、

嫌味のない程度に、小さく笑った。


「気のせいや」


その言葉の裏には、確かに柔らかいものがあった。


しかし――

茶屋の静けさを、突然切り裂く足音が響いた。


戸口の影が、わずかに歪んだ。

行灯の灯りが揺れ、淡い影が格子に滲む。

茶屋の静寂が、僅かにざわめいたが、誰も声を発さない。

しかし、その空気は確かに変わる。

一人の男が、ゆっくりと足を踏み入れる。

その歩みには迷いがない。

無駄のない動き。迷いのない軸、彼の足音は、床に沈むように響く。


新之介は、ゆるやかに湯呑を置いた。

音が微かに響く――

しかし、その静けさは、先ほどまでとは違った。

男は何も言わず、席につく。

その背筋は揺るぎなく、まるで空間の一部になるようだった。

そして、お艶が動いた。静かに、新之介のそばを離れる。

ためらいはない。 迷いのない足取り。

まるで最初からそうすると決めていたように、

茶器を手に取り、男の前へと進む。

新之介は、気づいた。

その動きが、あまりにも自然すぎた。

まるで、新之介の存在など最初からなかったかのように。

そして、灯りの下で、男の横顔が浮かび上がる。


榊原敬道だった。


あとがき


沈黙の中にこそ、最も雄弁な言葉がある——そう思う。

本作『みたらし浪人ー孤剣の茶柱ー』の第三話「静寂の影」では、

「語らぬ選択」「変わるものと変わらないもの」 に焦点を当てた。

風見庵の静けさは、江戸のざわめきから隔絶されながらも、

時代の変化を無言のまま映し続けている。

そこで交わされた言葉は少なく、

しかし視線と沈黙の間に、多くの意味が込められていた。

新之介は、自分の過去と向き合いながらも、

決定的な答えを出すことなく、ただその場にいる。

お艶は、過去へのわだかまりを滲ませながらも、その沈黙を受け入れる。

そして、最後に茶屋の静寂が破られた。

沈黙の対話が終わり、新たな局面へと物語は移り変わる。

一歩踏み込んだ影が、

空気を変えた瞬間——その続きを、次話へと進めていく。

この物語の選択は、剣を抜くことだけではない。

沈黙の中にある「見えない戦い」を、どこまで描けるか——

その問いを抱えながら、物語は進んでいく。

次話へ、続く——。

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