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沈む言葉、揺れる視線

挿絵(By みてみん)

「側用人てのは、あんなに力を持つもんなんかねえ…」


湯気の立つ酒盃の向こうで、男たちが囁き合う。

茶屋「風見庵」の一角。宵の口、客は程よく入っていた。


「今じゃ将軍様より口を出しとるって話だぜ。」

「綱吉様は、犬のことしか考えとらんらしいしな…」

「柳沢様がいなけりゃ、江戸は今頃どうなってたか…」


湿った空気が店の奥まで広がる。

雨が止んだばかりの夜、衣服に染みた湿気が抜け切らない。

木の柱に触れた掌に、ほんの僅かな冷たさが残っている。


暖簾の奥、お艶は静かに茶碗を置いた。

簪で品よくまとめられた黒髪は、うなじを優しく露わにし、

帳場の光を受けて微かに艶めいている。

肩口からこぼれた細い髪の一本が、かすかに頬に沿って揺れ、

彼女の息遣いの微細な動きを感じさせる。

頬の線は柔らかく、けれどその目には、

年を重ねた分だけの確かな意思が宿っていた。


その視線の先には、桂木新之介が座っている。


着物はきちんとしているが、

長い流浪を物語るように袖口は僅かに擦れている。

腰の脇に置かれた脇差は、未だ手入れが行き届いている。

誇りを捨てたわけではない。

ただ、それを口にする男ではなかった。

お艶は静かに口を開く。


「関係ないんやったら、なんであんた、ここへ戻ってきたん?」


その言葉は、茶屋のざわめきとは違い、ひどく静かだった。

しかし、新之介はすぐには答えなかった。

ただ、湯呑みを手に取り、ゆっくりと口元へ運ぶ。

湯気が指に絡み、僅かな熱が皮膚に染み入る。

その温度を確かめるように、一瞬だけ指が僅かに動いた。


「たまたまだ。」


お艶はその言葉に、僅かに微笑んだ。

その微笑みは、どこか挑発的でありながら、

静かな余裕を感じさせるものだった。

唇の端がほんの少しだけ持ち上がり、雨に濡れた夜の柔らかさを纏っている。


「嘘つくのは、下手やね。」


茶碗を指先で滑らせながら、微かに息を吐く。

その動きは、あまりにも自然でありながら、どこか目を引く。

彼女の指先はほんの少しだけ湿り気を残していて、

陶器の表面をなめらかにすべる。

新之介は答えず、ただ湯呑みを置いた。

しかし、その手が、ほんの僅かに止まった。

お艶は続ける。


「うちはな、ずっとこの茶屋を続けてきた。」


新之介は、ゆっくりと息を吐く。

茶碗の湯気が薄れていくのを眺めながら、

掌の中で湯呑みの感触を確かめるように指を動かす。

ここがまだ残っていたことが、意外だった。

懐かしさを感じるべきなのか、それとも――。

雨音が遠くで続いている。

その音に紛れるように、新之介は僅かに眉をひそめた。

お艶の視線は変わらず、自分を見つめている。


「なんでやと思う?」


新之介は答えない。

客の会話は続いていた。

「柳沢様が動けば、幕府は変わる…」

「政の流れ、どこまで続くんやろな。」

お艶はその声を聞きながら、ふっと新之介の方へ視線を戻した。


「ほんまに忘れたんか?……それとも、忘れなあかんのか?」


新之介の指がわずかに動く。


「――お前の勝手な思い込みや。」


お艶は静かに息を吐いた。

その唇が、わずかに湿り気を帯びているように見えた。


「思い込みかどうかは、あんたが決めることやないわ。」


新之介が言葉を飲み込んだその瞬間、お艶はふっと目をそらした。

ふと、帳場の向こう側へ視線を滑らせるように客の方へ目をやる。

しかし、その目は **本当に客を見ているわけではない

——まるで、一瞬だけ逃げ場を探すかのように揺れていた。**


「……あんたが戻ってきたとき、ほんまは嬉しかったんよ。

でも、それを言うたら、あたしが弱い女みたいやろ?」


「――それに、こんなこと言うたら、なんか恥ずかしいやん……」


言葉の終わりにかすかに笑い、頬にほんのりと赤みがさしていた。

新之介は、ほんのわずかに息を詰めた。

だが、何も言わなかった。

その代わり、湯呑みの縁に指を沿わせる。

いつもなら無造作に置く湯呑みのはずが、なぜか少し丁寧に滑らせた。


**まるで、それが何かの答えになるとでも言うように。**


お艶は、その動きを見逃さない。

だが、何も言わず、ただ微かに唇を噛んだだけだった。

外では、雨がまた静かに降り始めていた。

あとがき


この二話は、**沈黙の重み** を意識しながら、

言葉にできない感情の揺れを描くことに焦点を置いた。

桂木新之介とお艶――過去のしがらみを抱えながらも、

今この瞬間に向き合う二人の心理的な駆け引き。

強さと脆さが入り混じる会話の端々。

剣を振るうわけでもなく、ただ茶屋の空気と雨音の中で、

互いの本心を探り合う。


この一話の中に、時間の流れを感じさせる描写を重ねることで、

読者にも **「沈黙が何かを語る感覚」** を体験してもらえたらと思う。

柳沢の影、江戸のざわめき、そして風見庵の静けさ。

そこに生きる人々の細やかな感情が、

夜の帳に滲むように描かれていれば幸いだ。


新之介とお艶の間に流れる **「選択の瞬間」**

―― 答えを出すのか、誤魔化すのか。

その葛藤を、読者にも感じてもらえたなら、それ以上の喜びはない。

次の章へと続くこの物語が、さらに深く、

さらに静かな緊張感を紡いでいくことを願って。

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