『』
なんか思いついて1時間くらいで書いたやつです。
今日死のう。
そんなことを考えた。これまでの人生に悔いというものは無かった。
小さなころは色々と夢を持っていたが、そんなものは大人になるにつれて薄れていった。
そう。僕は特別な存在ではなかったのだ。
確かにほかの人と比べたら様々なことができた。人よりも仕事ができ、勉強はでき、運動もそこそこ。
歌も、絵も、ゲームだって。
だけど一番にはなれなかった。それが現実だ。
いつだったか。友達はおらず、親とも仲良くない。でも孤独を『寂しい』と感じたことはなかった。
頼れる相手はいない。そんな状況で仕事で酷使され、身体もココロもボロボロ。気付いたら限界に達しており、そのまま離脱。
次を考えた。でも、色々と諦めて、気付かされて、絶望していた僕にはそんな気力など存在しない。
だから今日勇気を出して死のうと思った。
怖い。でも、そんな感情もまだ知っていたのか、持っていたのかと。
物語であれば転生などあるのだろうが、そんなものは創作物の中でしか行われない。
輪廻転生だったか。もし同じ魂であったとしても今の僕の記憶を持って生まれてくるわけではないだろう。
それがあるのだとすれば世の中、過去の偉人やらでいっぱいになっているはずだ。
今日、これで僕という一人の人間がこの世から消えるだけ。
悲しむ人も周りにいない。ただ孤独に消えるだけ。
それもいいだろう。遺書なども存在せず、ただ思い切りの死。突然の前触れのない死。
自分の中で完結するだけの物語。いや、それこそが人生という物語なんじゃないか?結末ぐらい自分で決めてもいいだろう。気付いたら終わるよりも自分で終わらせるほうが僕は好きだ。
急に自信が、勇気が湧いてきた。さっきは感じていた、怖いという感情もなく、ただそこにあるのはワクワクとした期待だけだ。死んでもどうせ僕には関係なく、その後の物語は自分のではなく他者の物語。
人の物語の登場人物でなく、自分が主人公の物語が良い。それが今日終わるのだ。
そう思って思い切り椅子から飛び降りた。
『 』
なにか声が聞こえた気がした。何を言っているかは聞き取ることができなかったが、機械のような棒読みで、女性とも男性とも似つかない。
と、いうよりもなぜ僕は思考ができているのだろうか?あの場所で死んだはずでは?
物思いに耽っていたが、意識が覚醒したのか、周りの音が聞こえるようになってきた。
赤ん坊の泣き声や、お世話をしているような女性の声、はたまたあやす様に、困ったような話し方をしている人の声。
目を開けると天井とその間に透明なケースのようなもの。
見覚えがある。そしてこの天井も見たことがある。
これは僕が生まれた時の病院ではないか?元の時代では潰れて、別の病院になっていたはずだが。そもそもなぜ僕はこの中に?
目線を横にしてみるとぷっくらと膨れた赤ん坊の手。
そうか。僕は輪廻転生をしたのか。記憶を引き継いで、別の人物への。
いや、逆行ものと呼ばれるものかもしれない。現に、この病院は元の僕が生まれた病院である可能性のほうが高い。
だが、疑問だ。逆行もの。つまりやり直しを行う系の作品は「未練」というものが付き物だ。僕にはそんなものはない。自分の人生を自分で終わらせる。物語を自分で終わらせることができて、幸せな気持ちで逝くことができた。なのにもかかわらずなぜこのような現象が起こっているのか?
だとすれば最初に考えた転生というほうがしっくりくるのかもしれない。
そう考えていると、「○○く~ん」と看護師と思われる女性に呼ばれた。前世?元の僕と同じ名前だ。声のほうに目を向けると、看護服の女性の横に見覚えのある女性が目に入る。
母親だ。
記憶の中にある母親とは違い、若々しい女性ではあるが間違いなく母親である。
そうか、逆行ものか。で、あれば僕の中にある「未練」とやらに挑戦してみようではないか。
一つ、感じたことがある。
実際、僕が覚えている限りのことではあるが、前の人生とこの人生は同じ道をたどっているということだ。そして、それを追体験しているといったほうが正しいのだろう。
そう、僕は思ってしまった。これは逆行などではなく、死ぬ間際に見るといわれる走馬灯なのではないかと。
現実の僕?というよりか前の僕。それはまだ死んでおらず、死ぬ瀬戸際の引き延ばされた時間の中で見ている夢の世界なのではないかと。
だとしても正確にここまで会話が成立、僕の言葉に反応しているというのもとても不可解な点ではあるが、現実に逆行のようなものが起きているとは思えないからだ。
これが走馬灯でなく、逆行であると証明するのであれば記憶と違った行動を行ってみなければならない。
それがバタフライエフェクトとなり、たどる結末というのを変えることができるのではないか。
何か行動を起こしたとして、結果最後に自身で命を絶つ。これが変わらない結末なのだとしたらこれは走馬灯、そして結果が変わるのだとすれば逆行ものであると結論付けることができる。
そうなれば行動を起こしてみよう。
前の僕の家庭は母子家庭だった。小学生の頃に父・母が離婚をしている。
とはいえ、定期的に父親とは会っていた。時間を作ってくれていたため、普通の家庭とは少し違うだろう。世間一般の離婚と違い、父と母は「家族」から「友人」という枠組みに変わっただけだ。
僕の人生において大きな出来事だろう。なればこそこの事実を変えることは今後の人生における大きな転換期ともいえる。実行を移すには大きなイベントだ。
母と父が離婚し、父親が家に帰らなくなったある日だ。
僕は父を探しに行くと言った。母親は「何を言ってるんだこいつ?」みたいな顔をしていたが、僕が本気だとわかると止めるようにと説得・怒りをみせた。
だがそこは子供の意地。駄々をこね、無理やり家をでる。母親は、近くに祖父母の家があるため、そちらに移動しているのだろうと思っているはずだ。だが、そんな甘いことはしない。本気で事を変えるのであれば、相手にその手は通用しないと思わせるしかないのだ。
だから遠くまで移動した。とっさに飛び出した為に服や鍵、お金といったものは何も持っていない。もちろんガキに携帯なんて持たせられるような財力もなかった。
裸一貫といったところか。でもって、近くであればすぐに見つかってしまう。
できるだけ遠くに移動するのがいいだろう。
歩いて移動できる距離ではあるが、河川敷近くに大きな公園がある。遊具などもあり、昔というか前の人生で、ホームレスがいたのもみたことがある。まあ、すぐに警察に追い出されてはいたが。
そこであれば寝泊まりできるだろう。食事はとれないが数日ぐらいなら平気だ。公園の水道でも飲んでれば生きられるだろう。人間は水さえあれば1週間程度なら耐えられるはずだ。
これが成功すれば、実際大きな反響があるはず。もともと親は子供に気を掛けるような性格でもなかったし、離婚が解消されなくとも子供に目を向けるようになるはずだ。だからこそ、これが逆行ものであれば成功をしてほしいものだと。
それから二日~三日ほどたった。死ぬほど腹が減ってはいるが、公園でたらふく水を飲んだ。
それでも厳しいときは河川敷ということもあって近くに雑草が生えている。どれが食えるもの、毒物かどうかなんてものは分かったものではないが、とにかく食った。腹を下したら備え付けの便所で致し、腹が減ったらそれの繰り返し。親もそろそろ意を決して捜索を行っているだろう。記憶にあるが、よく家を追い出された。その時は祖父母の家や、1・2時間程度外にいて怒った母親に家に連れ戻されたこともある。
が、今回は別だ。近くにもおらず、祖父母の家にもいっていない。この状況であれば、親もあせるだろう。原因が原因だし、下手すれば父親も動員されている可能性がある。記憶の中の父親は優しかった。怒ってる姿も見たことがない。であれば、初めて怒られるかもしれない。巻き込んでしまって申し訳ない気持ちもあるが、これでなにかが変わるのであれば、やる価値もある。
そろそろ帰ろうか。さすがに食事を行っていないからか、身体にエネルギーがない。子供の身体は無限の体力があると思っていたが、それは効率的にエネルギー消費を行えてる証拠なのかもしれない。もしくは大人になるにつれて思考力にエネルギーを使用している。そう考えるのであれば、僕の今の状況は通常時の子供に大人の思考力を追加しているようなものだ。エネルギーが多めに消費されていてもおかしくはない。しかも補給源はそこらへんに生えていた草。水道の、きれいかもわからない水。身体も精神も疲弊しきっているが、家に向かって動き出そう。
そう思い、歩き出した。
横断歩道もない、信号もない1本道。周囲の警戒を行って、歩き出す。身体はフラフラしていて、視界もぼやけ始めている。眠気もある。
こんな状態で着けるのか?いや、ある意味検証。目標の、自分の中にある「未練」だと思われるものを打ち消すために。
が、身体でなく思考に意識を、エネルギーを振ってしまったからだろうか?気づいたら身体に大きな衝撃と、痛み。
少しスローモーションになった時間の中で周りを見ていると、乗用車が僕の身体を跳ねていた。
疲労があったのもそうだが、何よりも音が聞こえなかった。前の時代でも問題視されていた所謂ミサイル。そして老人。
不慮の事故だといえばそうなのだろうが、僕はこれを必然なのではないかと意識が遠のく中考えていた。
『あなたの 』
また声が聞こえた気がする。
気付けばまた籠の中。死をトリガーにしてまたここに戻ってきた。アニメやら小説やらで見た死に戻りということだろうか?前の自分?といえばいいのだろうか、違う動きをした場合死ぬということなのだろうか?検証したのが一回きりということもあり、わからないこともあるが。
で、前回は事故死となったわけだが、あの時周りの確認を行っていたのにもかかわらず、思考にリソースを割いた瞬間に急に車が現れたような感覚があった。これは意図的に僕が違う動きを行ったことを咎めに来たとしか考えられない。ではなぜ、その前で殺さなかったのか?
空腹時、そこらに生えている草を食べていたが、そこに毒草でも混ぜておけば苦しみを与えながら殺せたはず。てことは、これを引き起こしているものは苦しませて殺すわけでなく、逆行もののように過去を変えることを望んでいるわけでもなく。もしくは変えるべき過去は存在してはいるが正解の過去ではない可能性もある。それを引けなかった場合死亡する。と考えるべきなのかもしれない。
であれば、僕自身が記憶にある限りのイベントを何度も繰り返しながらスルー・変更を加えてどのようにして自分が死ぬか生きるかを検証していかなければこの輪廻から逃れることができないのではないか?
それまでに精神が持つのだろうか。僕は一度会社勤めの間で肉体と精神を壊している。そんな状況の男がそれよりもきついであろう「死」という精神負荷に何度も耐えることができるのだろうか?
もしくはそれが狙いなのかもしれない。肉体の死ではなく精神の死。それこそがこの輪廻を、逆行もしくは走馬灯を終わらせることができる条件なのかもしれない。
今回の人生では走馬灯のようにすべてを追体験しながら、起こったイベントを自身にもう一度記憶を行っていこう。
そう思いながら、赤ん坊の体力では思考するエネルギーの消耗が激しく。深い眠りに。
3割くらいノンフィクション