野分
秋のある日のことだった。空が俄にかき曇り風が強くなってきた。南の御殿では前栽を手入れをさせていたが野分の到来で小萩も散り散りになるひどい風の吹きようだった。枝が折れ、露が吹き飛ぶ様子を紫の上は側に寄ってじっと眺めていた。
源氏は明石の君の部屋にいた。夕霧が東の渡殿の小衝立の上の妻戸が開いている隙から、何気なく見ると、沢山の女房が立ち止まって息を殺して外を見ていた。
風が強く吹いているので、屏風も折りたたんで片付けいるので廂の御座にいる紫の上を見ることができた。紛れもなく気高く清らかで、春の曙の霞の間から趣深い樺桜が咲き乱れるのを見るような気持ちがした見ている側を圧倒するような愛嬌が匂い散り、実に珍しい人であった。
人々が暴風に御簾が吹き上げられるのを押さえている様子を笑っている様が実に美しかった。吹き散る花をいたわしく思い、見捨られずに屋敷の奥へ行かないでいるのだった。御前にいる女房たちもそれぞれ美しいが、目移りするようなことはなかった。
(父上が常日頃私を遠ざけて近寄らせないのは、見ると動揺するほど美しいので、間違いがあってはいけないと考えているからだろう)
と思い、そそくさと立ち去ろうとした時、内の障子を引き開けて源氏が来た。
「ひどく強い風だな。早く格子を下ろしなさい。男たちにまる見えだぞ」
源氏の声につられて寄って見れば、紫の上は何か喋って源氏もにこやかに微笑んでいる。まるで自分の父親とは思えないほど若く品があり、とても男らしかった。
紫の上も美しさの盛りで、非の打ちどころのない二人の様子が身に染みた。それでもすぐに、ここへ立っている所が見つかれば、と恐ろしく思い退出した。(今まではこんなことはなかったのに。野分が岩を吹き飛ばしてしまうように二人の気持ちを騒がせて嬉しくなったのかな)と思うのだった。
「ひどく激しく吹きますね、この風は。北東の方から吹いているのでこのお屋敷は大丈夫ですが馬場の御殿や釣殿の方は危ないのではないでしょうか」
と人々はあれこれ野分への対策の準備で騒がしい。
「夕霧様はどちらからお越しになられましたか」
「大宮様の屋敷におりましたが、風が激しく吹いていると言うのを聞いて心配で見舞いに上がりました。大宮様はいっそう心細くしておられ、今は風の音に子どもの頃のように恐れています」
と夕霧が言うと、
「それなら早く行きなさい。年を取ると心は弱くなるものだから」
「激しい風ですが、それでは私は失礼します」
と夕霧は文を託した。
道すがら風は激しく吹いていても、夕霧は真面目な性格なので、大宮と六条院を訪問しない日はなかった。物忌みなどで、やむを得ず籠る日以外は、忙しい仕事や行事の合間を縫って、大宮を第一に訪ね、ここから参内していたのだった。まして今日のような空模様の時にまであちこち顔を出すのは実に感心なことであった。
大宮は夕霧が来ることへの嬉しさと頼もしさで待ちきれなく、
「この年になって、こんな激しい野分にあったことはないわ」
と震えていた。大きな木の枝が折れる恐ろしい音が絶えず聞こえる。屋敷の瓦もひとつ残らず吹き飛ばされているのにわざわざ訪問してくれる夕霧に感謝の気持ちで胸が詰まった。あれほど権勢を誇った勢いは落ち着き、老後の今は夕霧の君を頼もしく思っていた。世間の評判高い息子の頭中将への気持ちは逆に少しずつ離れていた。
夕霧は一晩中荒れ狂う風の音にも心を揺り動かされた。まだ幼かった頃、今日のような野分が襲来して震えて夜具に潜り込む雲居の雁の温かさが思い出された。それと同時に先ほど垣間見た紫の上の面影が忘れられなかった。
(これはどういうことだ。駄目だ、駄目だ、こんなことあってはならない。恐ろしい。私は雲居の雁が好きなんだ)
無理やりに紛らわして他の事を考えようとしたが、いっそう目が覚めてしまう。
(あの方は今までもこれからも二度とない美しさだろう。父上はあんなにあの方と仲が良いのに、どうして花散里などが、肩を並べているのだろう。不思議だ)
源氏の内心は夕霧には到底及びつかなかった。夕霧は真面目な性格なので、自分に合わないことは考えなかったが、「あのような人を、眺め暮らすような人生ならば限りある寿命も少し延びるかもしれないな」と思い続けるのだった。
明け方になると風が少し弱まって、村雨のように降っていた。
「六条院の離れの家屋が倒壊したらしいぞ!」
と人々が騒ぐのが聞こえた。
(風が吹いている間、人々は源氏のいる屋敷の辺りには多くいるが、東の町は少ないだろう)
と夕霧は思いまだ暗いうちに六条院を訪れた。
途中、雨は横に冷ややかに吹いていた。空の様子はまだ荒涼としていたが、不思議と気持ちが高揚していていた。
(どうしたことだろう。私の心にまた憂いができたのだろうか。自分には全く似合わないのに。)
夕霧はあれこれ考えながら、まず東の御方へ行くと、花散里は恐怖に疲れきっていたので、まずは慰めて、人を呼んで修理する所を言ってから南の御殿へ行くと、まだ格子も上げていなかった。
部屋の高欄に寄りかかって庭を見渡すと、築地の脇の木々をは暴風で枝も多数折れて倒れていた。草叢は言うまでもなかった。屋根の檜皮や瓦、立蔀、透垣なども散乱していた。
日が少し差してきたので、ひどい様相の庭に落ちた露がきらめいた。空はまだ濃い霧に覆われている。何ともなく目頭が熱くなるのを押さえてから、夕霧がえへんと咳払いをすると、
「夕霧様の声だ。まだ夜中なのに」
と人々が起き出してきた。紫の上の声はしなかったが、
「今まで経験したことのない暁の別れだ。こんな経験をするなんてお気の毒です」
と、源氏が笑いながら語らい合っている雅やかな気配がした。紫の上の返答は聞こえなかったが、戯れの言葉の端々から二人の揺るぎない仲を感じ取った。
源氏が格子を自分で上げるのを近くで見るのはきまり悪く、夕霧は一歩下がった。
「どうだった。昨夜、大宮様は喜んでいたであろう」
「はい、ちょっとしたことで涙脆くなっていましてかわいそうでした」
と言うと源氏は笑って、
「あの方も先は長くない。丁重にお仕えしてくれ。頭中将が細かな配慮をしてくれないと大宮様は嘆いている。性格がとても派手で、男性的で、親の法事でさえも大袈裟におこなって人を驚かそうとしたりして、本当に落ち着きのなく底の浅い人だ。そうは言っても、彼は思慮深く、かつ賢く学問もできるから、この末世にはもったいくらいの人だ。気難しいところはあるが、これだけ欠点がない人は滅多にいない」
と言った。
朝ぼらけに浮かぶ夕霧の容姿は、実に美しく優雅であった。東の対の南側に立って、御前の方を見れば、格子は二間ばかり上げられて、ほのかな朝ぼらけのなかに女房たちがいた。高欄に寄りかかる沢山の若い女房のくつろいだ様子は、明けきらない曙の中でどれもがとても彩り鮮やかだった。
童女が庭へ下りて虫籠に露を当てていた。紫苑、撫子などの濃淡のある衵あくめに、女郎花の汗衫かざみなど季節に合った衣装を着た四~五人が連れ立ってあちこちの草叢を彷徨いながら色とりどりの籠を風で傷んだ撫子などの枝を持って霧の中を歩いている様子は趣深かった。
澄み渡る風も、紫苑の花が一斉に香りを放っているような空も、紫の上がいるせいだろうかと思うと自然とにやついて緊張してしまい、立ち去りがたかった。静かに咳払いをして庭に入ると、女房たちはすましたまま皆すばやく中に入った。
紫の上が入内した頃は、夕霧は幼かったので御簾の中に入っていたので馴染みの女房たちもよそよそしくなかった。御殿で女房たちが気品高く暮らしている有様を見ると色々なことが思い出された。
南の御殿へ戻ると格子が上げられていて、昨夜の花々が見るかげもなく折れているのを源氏と紫の上は眺めていた。夕霧は御階に座って返事を申し上げた。
「荒々しい風も防いでくださいましょうかと、子どものように心配しておりましたが、お使いを頂いてようやく安心いたしました」
「彼女はとても怖がりなので、女だけではさぞ恐ろしい夜だったろう。私にしては不甲斐なかった」
と、源氏はすぐ参上した。直衣を着るために、御簾を引き上げて入ったが、「引き寄せられた短い几帳の端からわずかに見える袖口はきっと紫の上様のだ」と思うと、夕霧は胸がどきどき鳴るのも嫌なので、目を反らしていた。
源氏は鏡を見ながら小声で、
「夕霧の朝の姿は美しいな。まだ幼い年頃だが見苦しくないのは親馬鹿だからかな?」
と言いながらも自分の顔は老けていないことにも自信満々だ。そして気を遣って、
「紫の上に会うのは本当に気を遣うよ。特に目立って趣あるようには見えないが、奥深くて気づかいをさせられる。実におっとりとして女らしいけれど、どこか普通の人とは違ったところがある」
と言って外に出たが、上の空の夕霧はすぐには気がつかなかった。目聡い源氏の目にはどう見えたのだろうか、すぐに引っ込んで紫の上に、
「昨日、風の音にまぎれて、妻戸の隙間から夕霧に見られたのではないか?」
と言うと紫の上は顔を赤らめる。
「さあ、どうかしら。渡殿の方は物音もしなかったわ」
「いや、どうだろうか」
紫の上の曖昧な反応に源氏はそう独り言を言って出て行った。
夕霧は渡殿の戸口で昔馴染みの女房たちとしばらく雑談をしていたが、この上なく美しい紫の上と源氏の仲の良さを見せつけられたせいでいつもより沈んでいた。
夕霧は何となく気が晴れず、雲居の雁に文を書きたいなと思いつつ、明石の君の所を訪れたが明石の君は不在だった。乳母は、
「まだあちらにおります。風にひどく怯えて今朝は起き上がることができませんでした」
「ひどい風でしたからね。見回りに来ようかと思いましたが、大宮が大層怖がっておりましたので。人形の家は無事でしたか」
と質問した。夕霧の冗談に女房たちも笑った。
「扇の風が当たっても大変のに、昨日は壊れるかと思うくらい荒れましたよ。この屋敷の世話は本当に苦労します」
「話は変わりますが、紙がありますか、そんなに高級なものでなくてもいいですが。硯も貸してください」
女房は厨子に行って一巻きの紙を取って硯の蓋に載せて運んできた。
「ありがとうございます。これは恐縮です」
明石の上の出自の低さ考えると、夕霧は気を遣うこともなかったがそこは誠実で真面目な性格だった。
紫の薄い紙に丁寧に擦った墨を筆の先につけて慎重に書かれた夕霧の筆跡は素晴らしかった。けれど、変に型にはまったありきたりで面白くない歌だった。
「風騒ぎむら雲まがふ夕べにも忘るる間なく忘られぬ君(風騒ぎ群雲混じる夕べにも君の姿をずっと忘れぬ)」
咲き乱れた刈萱で文を結ぶと
「交野の少将は、紙の色に合わせたものを選んだそうですよ」
と女房の一人が言った。
「全く思いもしなかった。野生の花なら何をつけたらいいかな?」
夕霧の言葉遣いは親しい女房たちにも言葉少なく、気を許さず、生真面目さと気位の高さを感じられた。
夕霧はもう一通文を書いて、囁くように使いに渡すのを、若い女房たちは、相手は誰かしらと気になっていた。
明石の君が間もなく戻ってくるので、女房たちは動き回り几帳を整え始めた。紫の上を見てしまったせいで夕霧は比べてみたくなって、普段は覗き見する性格ではないのに無理して妻戸の御簾に体を差し挟んで几帳の隙間から見ると、明石の君が調度の端にほんのわずか通るのが見えた。
女房たちが大勢動き回っているので、細かいところが見えずかえってドキドキする。薄紫の衣で、髪はまだ丈まで伸びていないが裕に広がって、細く小さい体つきは痛々しいくらいに可愛らしい。
(一昨年まではちらりと見かけることもあったが、ずいぶん美しくなられた。このまま成長すればどんなに美しくなるだろう。先に見た紫の上と玉鬘が桜や山吹なら、彼女は藤の花だ。小高い木に咲いて、風になびく美しさは、こんな風だろうな。こういう人たちをいつでもずっと見ていたい。自分はそうできる立場にいるけれど、厳しい距離があるのが残念だなあ」
と生真面目な心もそわそわとススキのように揺れ動く。
夕霧が祖母の大宮のところふさ再び行くと、大宮はのどかにお勤めをしていた。若い女房たちがここにもいたが、物腰や様子、装束も六条院とは比べようもない。それでも美人の尼君たちが墨で染めたように黒い袈裟に身を包んでいるのはそれなりにしみじみとする。
頭中将も顔を出し、灯りを持ってこさせてのんびり大宮と話をしている。
「雲居の雁姫君に久しく会っていないのは本当に悲しいです」
とただ泣いている。
「いずれそのうち来させましょう。あまり塞ぎ込んでしまって、すっかりやつれて体を壊してしまいますよ。正直に言って娘を持つと何事にも気を遣うものです」
頭中将は今でも夕霧との件を根に持っているので、大宮は情けなくて、強くも言うことができなかった。
「大変にできの悪い娘を引き取って、手を焼いているよ」
「あら、そんな。あなたの娘が出来が悪いはずないでしょう」
「それが実に見苦しく。この前なんて下着姿で昼寝したんですよ。ぜひ今度見てくださいな」
と頭中将は言うのだった。