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少女

 夕霧は雲居の雁と同じ屋敷で育てられた。二人の親は滅多に来ることがなくお互い父母代わり慰め合うようにして過ごした。


「雲居の雁、どっちが背が高いかな?」


 庭の片隅にある井戸で背比べをしながら夕霧は尋ねた。


「私の方が少し大きいわ」


 雲居の雁は夕霧にぴたっと身をくっつけて微笑んだ。夕霧は内心ドキドキしたが、まだ幼く無邪気だった。


「ねえ、雲居の雁。僕たちいつまでもいつまでも一緒だよね」


「うん。ずっと一緒で私は夕霧のお嫁さんになってあげる」


 そう言ってニコッと笑うのだった。二人はいつまでもこの先もずっと一緒だろう、そう思っていた。




 十歳を過ぎる頃には「どんなに仲が良くても男子とは親密になるものではないよ」という父の言葉もあり部屋は別々になった。それでも幼な心にも親しく感じないわけではなかった。はかない花紅葉を見る時も人形遊びの相手になる時も、いつでも雲居の雁は夕霧に親しくまとわりついて好意を見せるので、お互いに「大好きだよ」とはっきり言っても恥ずかしいとも思わなかった。


 乳母たちも、


「まあまあ。幼い子で今までずっと一緒に育った仲なのに急に引き離してかわいそうなことをさせるなんてできるだろうか」


とほのぼのと見ている。雲居の雁の方はいつも無邪気だが、夕霧は部屋を別にされてからは気が気でなく思うらしかった。まだまだ未熟なそれでも将来性のある文字を記した文が落としてあるのを、乳母たちには薄々分かっていたが知らないふりをしていた。




 やがて月日は過ぎ、夕霧も成長していった。成長は目に見える体だけではなく内面にも夜の間に霜柱が土を押し上げていくように現れていった。同じ大宮の屋敷に住み、日常をともに過ごす雲居の雁が前栽の花を摘むときの小さな手、かき上げられる尼削ぎの髪、そしていつも話しかけてくる時の無邪気な笑顔を見る度に夕霧の心の臓を締め付けるのだった。夕霧は雲居の雁がずっと好きだったが、好きの意味が日ごと日ごとに春の夕日の山際のように彩りが移り変わっていく。


 太政大臣の娘・葵の上が産んだ若君の夕霧も元服する時期になった。祖母の大宮が夕霧の元服をとても見たがっていることもあり、やはり三条の屋敷で元服をおこなうことになった。光源氏をはじめとして元服の準備に当たる人々はみな位が高く、帝からの信頼も厚い面々ばかりだったため、張り切って夕霧の元服がおこなわれた。


 光源氏の息子であるから世間では夕霧は当然に従四位の位階を授けられるだろうと思われていた。ところが、


「夕霧はまだとても幼い。今は私の思い通りになる世の中だからといって高い位を与えるのは、かえってよくない」


という光源氏の秘めた意志によって四位が授けられることはなかった。夕霧が浅緑色の六位の袍で帰るのを見る大宮のがっかりそうな様はとても気の毒であった。夕霧も雲居の雁に、儀式で立派な大人になるんだと事前に言っていたので低い位の衣の色に惨めだった。まるでこの狭い宮中という世界にただ一人取り残されてしまったかのようだった。それでも大人になった夕霧の晴れ姿を見て雲居の雁は「素敵」といつものような笑顔をこぼして喜んでくれて、「位なんて関係ないわ、夕霧は夕霧だもの」と慰めてくれた。それが唯一の救いでもあり、同時に雲居の雁と離れ離れになってしまうことが悲しかった。




 大宮は源氏に会った時に夕霧の位階について申し出ると、源氏は涼やかな顔をして、


「思うところがあって、彼を大学に進んで学ばせたいんだ。ここ2~3年は大学で過ごしてもらって、いずれは朝廷に仕えるんだから、そうすればすぐに一人前の人物になるでしょう。自分は宮廷で育って世情もよく知らなかったので、一日中帝のお側にいたから学問もほんの少し習いました。ただ、帝の手ずから教えを受けましたので漢学にしても管弦にしても十分ではなく理解は浅かったんだ。頼りない親に賢い子が勝るようなことは滅多にないので、まして子孫に伝わってしまうとその先はどうなるのか心配になるでしょう。夕霧は名門の子なのだから官位も爵位も思い通りになるさ。世間での栄達に驕り高ぶってしまうと、学問みたいな面倒くさいことはしなくなる。私が言えた義理ではないが、遊んでばかりで思い通りの官位に上りつめれば人はその時その時の流れに従うものだから、内心で馬鹿にしていてもつき従ってご機嫌をとるから、自分はそれなりの人物と思ってしまうが、時代が変わって権力が衰えれば馬鹿にされて頼りにするものがなくなってしまう。やはり、学問という基盤があってこそ、わが国で政治をおこなう力も備わるのです。今は夕霧が心もとなさそうでも、将来世の中を支える礎を学んでおけば、私が亡くなった後も安心できるというわけです。今のところは、はかばかしくないと思われても、このように育てれば貧しい大学の学生と嘲る者もいなくなるでしょう」


と長々と話した。大宮は溜息をついて、


「なるほど、そこまでお考えでしたか。こちらの光源氏右大将様のやり方は違うとみな疑問に思っていましたし本人も幼心に下臈の皆々が進階・昇進して一人前になっていくのに、夕霧だけが浅葱色なことがとても辛く思っていて本当にかわいそうなのです」


と申し上げた。義理の母にもかかわらず光は笑って、


「ずいぶん大人げない恨み言ですね。幼稚すぎる。まあ、あいつもそんな年頃か」


と成人したばかりの夕霧の幼さが愛おしく思った。


(でもあいつも勉強をして、少し道理が分かってきたらそんな不平不満は無くなるだろう)




 夕霧の字を作る儀式は二条院の東の対でおこなわれた。上達部や殿上人たち珍しい光景に我も我もと集まってきた。儀式を取り仕切るはずの博士たちはあまりの騒ぎ様に逆に気後れしていた。


「遠慮せず、慣例通り厳格におこなってください」


という源氏の言葉もあって、博士たちは平静をよそおい、滞りなくおこなわれた。見物人の上達部たちは夕霧を大学に行かせようとする源氏のことを誠に賢い選択だとひそひそと話し合っていた。源氏はいたって涼しい顔をしていたが、本来厳粛である儀式の中で聞こえてくる断片的な自身の噂と浅葱の衣に主役であるはずの夕霧は体裁が悪く、早く儀式を終えて雲居の雁のもとに帰りたい一心だった。


 字を作る儀式が終わると、今度はすぐに大学入学のための儀式がおこなわれた。東の院に部屋を用意され、優れた師に夕霧は預けられ、ひたすら学問漬けの日々であった。夕霧は大宮の所には滅多に行けなくなった。それでも夕霧が訪問すると大宮はいつも可愛がって、まだ元服をしていない稚児のようにもてなすのであった。夕霧が大宮から離されてしまったのも、甘やかす大宮のせいで夕霧が勉強に専念できないと思われたからであった。


 「月に三度は行ってもいいよ」という心無い源氏の許可も、部屋にこもりっぱなしで鬱屈している年頃の夕霧にとっては酷なことであった。


 ヒグラシの声が爽やかな夏風に乗って流れ込んでくる部屋の中で夕霧は雲居の雁はいまどうしているのだろうかという慕情とこんなに勉強しなくても出世する人もいるのにどうして僕だけがこんなに苦しまなければならないのだろうという嘆きを繰り返していた。それでも勉強をやめて屋敷を出ていくことも勉強をさぼることもできないのが真面目な夕霧らしかった。かえって夕霧は、


「なんとかして漢籍も早く読んで宮仕えして出世しなければ」と思って、数ヶ月で『史記』のような歴史書も『白氏文集』などの漢詩集も読み終えてしまった。




 ただ勉強するに飽き足らず、夕霧は大学入試のための模試も受けさせられた。よりによって、大将、左大弁、式部大輔、左中弁などの並ぶ前に師匠の大内記が呼ばれて『史記』の難しい箇所を試験させてみると、夕霧はすらすらと諳そらんじて、誰もが「彼には生まれつきの才能がある」と驚き感動した。


 源氏も我慢できなくなって、


「他人のことだと見苦しいと思っていたが、我が子が大人になって親が代わりに愚かになっていくのが世の常だ」


と言って涙を拭った。そんな源氏の姿を見て師はまさしく面目躍如であった。出世に無縁な大学のはぐれもの、一匹狼、変わり者、鼻つまみ者、厄介者、異端児であった大内記は、その能力に見合った待遇をされず貧しかったが、源氏に見込まれてこうして特別に召し出されたのだった。源氏のお陰で身に余る愛顧を賜って、大内記は急に生まれ変わったような境遇になったので、夕霧の将来はこの上ないものになるだろう。


 夕霧が大学に登校する当日は寮門に上達部の車がたくさん集まっていた。元服してまだ1年も経たない夕霧のまだ子供の面影を残す様子は、学生同士の交流には堪えられそうもないほど貴く可愛らしかった。同時に光源氏の息子であるということもあり、粗末な学生たちの末席に座るのが辛いなとも内心で思っていた。大学でも大声で怒鳴る学者たちがいたが、夕霧は少しも臆せずに読み終えた。


 昔は大学が栄えた時代だったので、上中下の人々が我も我もと学問の道を志願して集まって来たので、ますます学才と能力のある人が多くなった。源氏も作文の自主勉強会を開き、博士や才能ある人たちは生活することができた。すべて才能ある人々が現れる時代になった。




 宮中も忙しい用事がなくのんびりとしていた。時雨がきて荻の上を吹く風も並々ならない夕暮れに、大宮のところに頭中将が訪問した。頭中将は雲居の雁を呼んで琴を弾かせた。優れた演奏者でもあった大宮は雲居の雁にどんな楽器も教えていた。


「琵琶は女には似合わないかもしれませんが素晴らしい音色ですよ。今の時代にこんなに上手に弾ける人はいなくなりました」


 頭中将は、「光源氏の愛人がとても琴が上手らしいね。でも音楽は色んな人と弾くことで上達していくので、独りなのにこんなに上手になるのは珍しい」


と大宮に弾くよう誘うと、


「弾くのは久しぶりですね」


と、大宮も琴を面白く弾き始めた。


「女は性格が世の中で一番大事でしょう。弘徽殿の女御も悪くはなかったけど、まさか源氏思いもよらない人に出し抜かれてしまって、世は思い通りにはいかないものです。せめてこの姫君だけは思い通りにしたいものだ。春宮の元服も近いことだし雲居の雁の相手にと考えていたのだが、今度は明石の子から生まれた子が后候補と出てきた。彼女が入内すれば競争相手はいそうにありません」


と頭中将は嘆いた。


「どうして、そんなことが。この家からその筋の人がずっと出るようにと亡き大臣がお思いになって、弘徽殿の女御の際も色々な準備されていました。あの方が存命でいたならばこんなことはなさらなかった」


と、大宮も昔を懐かしむように嘆いた。


 同席していた雲居の雁はまだあどけなく可愛らしく、琴を弾く様子も、髪の下がり具合生え際も、みずみずしく色っぽかった。父である頭中将がじっと見ていると、雲居の雁は恥じらって、少し横を向く。その横顔のふっくらとわずかに桃に染まった頬が可愛らしく、琴を弾く手つきは精巧な人形のようで、限りなく愛おしかった。


 頭中将は琴を引き寄せて、現代風の曲を弾くとそれに合わせて大宮も弾くのでとても趣き深かった。屋敷の庭の梢から落ち葉が散り、年老いた女房があちこちの几帳の後ろに集まって2人の演奏を聞いていた。


「琴だけのせいではないけれどとても趣きのある夕方ですね。もっと弾いてほしいわ」


 「秋風楽」の曲に合わせて、大宮の歌う声は素晴らしく頭中将も雲居の雁も美しいと大宮が思っていると、さらに盛り上げようとするかのように夕霧が来た。「こちらへ」と几帳を隔てて部屋の中に招き入れられた夕霧は雲居の雁の存在を感じ取っていた。


「ゆっくりお会いできないですね。君はとても学問に熱心ですが学問のやり過ぎにも気をつけてくださいね。何ごともほどほどが肝心です。父上もこのように指図なさるのは、きっと訳があるのでしょうがこんなに籠って勉強するのはやはり気の毒だよ」


 夕霧に対面して早々に頭中将は気づかいの言葉を述べ、横笛を差し出した。


「たまには違うことやるのもいい。笛の音にも昔の賢者の知恵や教えが伝わっているさ」


 夕霧の演奏は元服したばかりなせいか、とても新鮮で味わい深かった。琴の演奏を一時やめて頭中将は拍子をとって歌を歌った。


「源氏もこういう遊びが好きで忙しい政務を私に譲ったのです。味気ない世の中ですから楽しいことをして夕霧も過ごしなさい」


と、盃を夕霧に盃を進めた。日が沈み、部屋の中が段々と暗くなってきた。灯をともして、お湯漬けや果物をみんなで食べたが、頭中将は雲居の雁だけを別の部屋に退かせた。あえて、夕霧と雲居の雁を離すようにして、雲居の雁の琴の音も聞かせないようにしてしまった。このような状況に女房たちも陰で


「困ったことが起こりそうだわ」


と、囁き合っていた。




 宴もたけなわで頭中将が帰る振りをして内緒である女房に会うために席を立った。女の部屋から出る途中で、頭中将は何やらひそひそと女房が話すのが聞こえた。何だろうとこっそりと聞き耳を立てると自分のことを言っていた。


「偉そうにしているけれど、やはり人の親ね。もうじき愚かなことが起こるわ」


「親こそ子供を知るというけどあれは嘘ね。だって雲居の雁様が夕霧様とできているなんてみんな知っていることなのに」


と互いに言い合っている。


(何ということだ。全く思いもよらなかったことではないが。幼いからと油断していた。くそっ、なんてことだ」


 頭中将は事態を悟ったがこっそりと退出した。しかし、前駆の声が騒がしく聞こえてしまい女房たちはすぐに気づいた。


「殿は今お帰りなのか」


「どこに隠れていたんだろう」


「あの香りは夕霧様かと思っていたが頭中将様だったとは」


「ああ、恐ろしい。面倒な人に聞かれてしまったわ」


と女房たちはひたすら狼狽していた。


頭中将は帰りの道すがら、


(全く最悪だというほどでもないが、珍しくもない親戚同士の結婚と世間の人は思うだろうな。源氏が強引に私の娘と寝てしまったことも癪だが、娘は人よりも優れているかもしれなかったのに残念だ」


と思っていた。屋敷について床に入ってもずっと今日のことが何度も思い出された。源氏との関係性は今も昔も良好だが、恋愛については競争にもなった。そのせいで寝付き悪く、とうとう一晩熟睡することはできなかった。


 「大宮様も二人の様子に気がついているのにね。とても可愛がっていた孫だから好きなようにさせていんでしょうけど」という女房たちの言葉がいつまでも癪に障り動揺し忘れることが出来なかった。頭中将は男らしくはっきりさせなければならなかった。


 数日後、頭中将は大宮邸を再び訪れた。頭中将の来訪に大宮も満足で嬉しく思っていたが頭大臣の方は機嫌が悪かった。


「こちらに参上いたしましたが、体裁が悪く女房たちがどう見ているか気になります。不良娘のことであなたのことを恨めしく思って、それでもこう思ってはいけない、いけないと思っていましたが、どうにも気持ちを抑えられませんのであえて申し上げます」


と言って涙を拭った。大宮は顔の色を変えて驚いたように大きく目を見張った。


「どんなことでしょうか。こんな老いぼれに」


と言うと流石に頭中将も気の毒に思って、


「信頼して幼い娘をお預けして、私はなかなか娘の世話もできなかった。手元にいる娘の宮仕えがうまくいかないのを心配しながら何かと苦労していました。それでもお預けした娘は一人前に育ててくれるだろうとあなたを頼りにしていました。それなのに信じられないことが起こり、まことに残念です。娘の相手は天下に並ぶものない優れた方ですが、血筋の近いもの同士の結婚は外聞もありますし、大して身分の高くない者同士もするような結婚は夕霧にとっても体裁が悪いでしょう。他人であり、かつ華々しく、我々と縁のないような一族に立派に婿扱いをされてこそよいものです。縁者同士の歪んだ結婚は源氏も不快に思われるでしょう。もし仮に娘が夕霧と付き合うのをよしとしても、せめて私の耳に入れてくれれば特別な計らいをしたのに。幼いもの同士に任せて放置していたのが残念なのです」


 頭中将の言葉に大宮は初めて事態を知って、呆然としてしまった。


「それは本当の事なのですか。それはごもっともなことです。私も二人の本当の気持ちはまったく知らなかったのよ。私こそ泣きたいわ。だから私を同罪にされるのは残念だわ。あの子の世話を始めてから特別に大事に思って立派に育てようと内心思っておりました。あの子はまだ幼いのに。親が急いて結婚させるなど思いもよりません。誰がこんなことを言ったのでしょう。くだらない人たちの噂を聞いて厳しくお考えになるあなたもどうかと思いますが。あの子たちの名を汚すだけでしょう」


「どうして、根も葉もないなんて言うんですか。女房たちも皆、私を笑いものにしているのはとても悔しく面白くないのだ」


 苛立った頭中将は席を立った。よもやこのような事態になるとは思わず、あの夜陰口をした女房たちはすっかり驚いて、「どうしてあんな話をしてしまったのだろう」と嘆き合っていた。




 一方、雲居の雁は自分についてこのようなことが起こっているとは全く知らなかった。頭中将が部屋を覗くと、とても可愛らしい様子でしみじみと微笑んだ。


(まだ年端もゆかないとは言え……。これほど心も幼かったとは。私は人並みの人生を歩ませたいと思っていたのに、娘より愚かだったとは)


「このような例は帝の娘や昔物語にもあるらしいが、双方の気持ちを知っている人に隙を見て仲立ちしてもらわなければならない」


「二人は朝も夜もいつも一緒にいてずっと育ってきたのだから、どうして幼い年ごろであるのに、大宮様が寛大に扱いになるので、我々がそれに口出しすることはできないからそのままにしておりました。けれども、夕霧様も雲居の雁様も一昨年ごろからははっきりと日常のことが区別できましたし、あの方が若いからといってもませた色めくような素振りは少しもない方でしたから。完全に油断をいたしましたわ」


と頭中将と乳母はお互いに嘆いた。


「よし、このことは人に言ってはいけないよ。隠すことはできないだろうが、気を付けて事実無根であると言ってくれ。そのうち娘は私が引き取ろう。大宮の扱いが恨めしい。あなたたちもこうなって欲しいとは思わなかったんだろう」


「いいえ、とんでもない。按察大納言殿の耳に入った場合を思いますと、どんなに立派な方でもただの臣下ですから」


 雲居の雁はとても子供っぽく、頭中将が色々と注意したが何も分からず泣いてしまった。


(なんで夕霧と一緒になれないの。悪いことなんて何もしていないのに)


(どうやって、娘を傷物にしないか)


 グズグズと泣いている雲居の雁を横目にしながら、頭中将はしかるべき女房たちとの相談を考え、大宮を恨むのだった。




 大宮は二人をかわいそうに思ったが、夕霧の愛情が勝っているからだろうか。二人に恋心が芽生えるのも可愛いのに、頭中将は容赦なくけしからんことと思いうるさく言うのを、


(何がそんなに悪いのか。もともと頭中将は雲居の雁をそれほど可愛がっていたわけでもないのに、私が世話するようになってから春宮への入内も思いついたのでしょう。もしただの宿縁ならば、夕霧あの子に勝る人はいないのに。顔も性格も能力もあの子に並ぶ者はいないのに)


 愛情が夕霧に傾いているせいか、頭中将を恨めしく思ってしかたなかった。もし大宮の本心が頭中将に分かってしまったら、どんなにか恨まれるだろう。




 夕霧の方も裏の騒動などつゆ知らず、夕方に大宮の屋敷にやって来た。あの夜も人目が多くて、雲居の雁に話したいことを言えなかったので、いつもより恋しかった。


 大宮はいつもだと笑顔で待ち受けて喜んでくれるのに、今晩に限って神妙な顔で夕霧を待ち受けていた。


「あなたのことで頭中将が不満を持っているのでとても困っています。面倒なことにこだわって、人に心配かけています。このことをあなたに告げるつもりはなかったのですが、事情を知っている方がよいと思って」


 大宮の言葉に夕霧はすぐに察して顔を赤らめた。


「何のことでしょうか。大学に籠ってからは人と交わることもなく、ご不満なんてないでしょうに」


 夕霧のうぶで恥ずかしげなさまに大宮は憐れに思って、


「夕霧、これからは慎重に行動してください」


とだけ言って話題を変えた。




 ただでさえなかなか会えないのに雲居の雁と文を交わすのも難しくなるかと思うと夕霧は悲しくなり、夕食を出されても喉を通らず、寝ていても上の空だった。世界が寝静まった頃、夕霧は中仕切りを引いた。いつもは錠を下ろされていなかったのに、今夜は固く鎖され人の気配もしない。心細くなって仕切りに寄りかかっていると、雲居の雁も目を覚ました。風の音が竹林の中を通り、雁の哀しく鳴く声がまるで幼い心を掻き乱すかのようにほのかに聞こえてくる。


「雲居の雁も僕のように悲しいのかなぁ」


 夕霧のぽつんと独り言をいう様子はいじらしかった。じっとしていられず、


「この障子を開けてください。侍従はいないのですか」


と言うが、物音がしない。いたのは乳母の親子だけでであった。独り言を聞かれたのが恥ずかしく、夕霧は夜具をかぶった。乳母たちもきまり悪く互いに音も立てなかった。


さ夜中に友呼びわたる雁が音にうたて吹き添ふ荻の上風(真夜中に友呼び歩く雁の音にともに吹き合う萩の夜風よ)


 夕霧は泣きそうになる気持ちを抑えながら大宮のいるところに戻った。溜息が出るが、「雲居の雁の目が覚めて独り言を聞かれていたら」とわけもなく恥ずかしくなり、急いで部屋に戻って文を書いたが、小侍従もいないので出すことができない。かといって雲居の雁のところへも行けないので、胸がつぶれそうだった。


 雲居の雁の方は騒がれたことだけが恥ずかしかった。自分がどうなろうと、人が何を思うと夕霧への想いは変わらなかった。雲居の雁は美しく可愛らしくて、女房たちの噂を聞いてもなんとも思わなかった。


 それでもこんなに騒がれると思わなかったし、乳母たちも厳しく注意するので、一言も文を交わすこともできなかった。もっと大人だったら隙を作って会えたのに、夕霧も雲居の雁も世界をはねのけるにはまだあまりにも幼く、ただひたすらに悔しかった。




 頭中将は一件があってからしばらく大宮の屋敷には来なかった。北の方にはそんな素振りも見せなかったが、ずっと機嫌が悪かった。


「中宮が威儀をただして参内する一方で、弘徽殿の女御が将来を悲観しているのはとても辛く、里帰りさせて休ませましょう。さすがに、主上ずっと付きっ切りで昼夜いらっしゃるので、女房たちも気楽になれず、とてもきついとつらがっているようですし」


と言って雲居の雁を突然連れ戻してしまった。暇をもらうのも難しかったし、帝も気が進まなかったが、無理やりに退去させたのだった。


「実家に帰っても手持ち無沙汰だろうから、娘を連れてきて二人で遊んだらいい。大宮に預けていると気が楽だが、悪戯猫がいてじゃれ合って、年々と困る年頃になってきたので」


大宮はたいそうがっかりして、


「一人娘が亡くなってからは、寂しく心細かったので、嬉しいことにこの姫君を得て、生きている限りは大事に育てようと思いました。明けても暮れても、心許ない老いの行く先を慰めようと思っていました。それなのに思いのほか他人行儀なのは、つらいわ」


 頭中将は慇懃無礼に恐縮してそれでもなお、


「不満に思ったことをただ述べただけでございます。どうして冷たい仕打ちということができるのでしょう。弘徽殿の女御の寵愛がいなくなって里帰りして、ずっとふさぎこんでいますので、お気の毒に思いまして、二人で遊びなどさせて慰めようと思いましたのです。ただ一時的に引き取るだけですよ。娘を育てて、一人前にしていただいた御恩は、疎かには思っておりません」


 頭中将は一度思ったことは絶対に曲げない人ではないので、大宮はとても残念で悲しく人知れず涙を流した。


「人の心ほど悲しく辛いものはない。幼い子も私に隠れてするなどきつい。頭中将も道理をご存知なのに私ばかりを非難してあの子を連れて行ってしまった。あちらだからといってここより安心であるはずもなかろうに」




 そんな時に夕霧がやってきた。少しでもいいから雲居の雁に逢いたいという切実な思いを持ち頻繁に足を運んでいた。しかしこの日は屋敷の前に頭中将の車があり、夕霧は心苦しさから静かに忍んで自分の部屋に入るしかなかった。


 屋敷には頭中将だけではなく左少将、少納言、兵衛佐、侍従、大夫なども全員来ていたが、大宮が御簾の内に入ることは許されなかった。


 左兵衛督、権中納言は子ども達を連れてきていたが、夕霧に勝るほどの子はいないようであった。


 大宮にとってもも雲居の雁は可愛らしい存在で、大事に愛していた。片時も側を離れさせず、慈しんでいたので、こうして彼女が行ってしまうのが、本当に寂しくてたまらなかった。


頭中将は、


「これから少し内裏へ参上して、夕方に迎えに来ます」


 頭中将はそう言うとさっと出て行った。


(今さら言ってもしょうがないのだから、もう穏やかに矛を収めて二人を一緒にさせてやろうか)と頭中将は内心では思っていたが、やはり不快であることには変わらなかった。「夕霧の位が少し高くなって娘にふさわしくなったら、その時に娘への気持ちを改めて確認して許してやろう。今口を挟んだところで、まだ娘も幼いことだし大宮も強く意見はしまい」


と、そのまま弘徽殿の女御をだしにして、雲居の雁を連れていってしまった。




大宮は文で、


「頭中将様は私をお恨みでしょう。けれど、あなただけは私の気持ちをご存知のはずです。是非こちらへいらっしゃってください」


と伝えると、雲居の雁は美しく着飾ってやって来た。彼女ももう十四歳、成人である。まだ十分に成熟しておらず健気な子どもっぽさを残しているが、しとやかで落ち着いており、可愛らしかった。


「ずっと私の元を離れず、一日中私の相手をして慰めてくれると思っていましたが、実に寂しくなりました。私に残された時間も少なくなり、あなたの行く末を見届けられないと思っていたのですが、今はあなたのいなくなってしまった後の時間を思えば、とても悲しいのです」


と泣いてしまった。雲居の雁も気恥ずかしさと嬉しさで、顔を伏せて一緒に涙を流した。夕霧の乳母が顔を出して、


「あなたのことを夕霧にと頼りにしていましたが、行ってしまわれるのは残念です。お父上が他の縁組をお考えになっても、決して断ってくださいね」


とひそひそと話すと、雲居の雁はますます恥ずかしくなり黙りこくってしまった。大宮は見かねて、


「この子に難しいことを言わないで。人はそれぞれ縁がありますから」


「いいえ、お父上様は彼がまだ一人前ではないと軽く見ています。しかし、夕霧が誰かに劣るとお思いですか」


 夕霧は物陰に隠れて二人のやり取りを息を殺して見ていた。普段は人に見つかるのも気にしているが、今日だけは心細くて内心で涙を拭っているいる夕霧を乳母はたいへん気の毒に思い、大宮に根回しをして黄昏時の喧噪に紛れて彼を会わせたのだった。夕霧も雲居の雁も互いに恥ずかしさと恋しさに一言も言葉を交わさずに泣くだけだった。


「頭中将様の決定がつらいので、諦めようと思いましが、君への恋しさで心が破れてしまいそうなんだ。時間はいっぱいあったのにどうしてもっと逢っておかなかったのでしょう」


「私もそう思うの」


「ねえ、雲居の雁。雲居の雁は僕のことを好きですか?僕はあなたが大好きです」


 夕霧はそう言って雲居の雁をそっと抱きしめた。拙く愛おしい告白に雲居の雁はゆっくりとうなずいた。二人の将来には茫漠とした時間が厚く透明な間仕切りのように残酷に立ちはだかっていた。雲居の雁の柔らかなぬくもりと心の重なりが嬉しく、そして状況を変えるために自分が幼すぎることがどうしようもなく悲しかった。このまま世界が冬の朝に道に張る氷のように凍り付いてしまえばいいと思った。




 座敷の灯りがともされ、頭中将が帰ってきた気配がした。空をつんざく先追いの声に、女房たちは騒ぎだした。雲居の雁もブルブルと震える始めた。夕霧は腹を据えて一途に雲居の雁を放さなかった。探しに来た乳母はその様子を見て驚いた。


「まあ、いやだわ。本当に大宮様がご存じなかったのね」、


「本当に情けないことです。頭中将様の立腹は今さら言うまでもないけど、大納言様はどう思うでしょう。どんなに相手との相性がよくても初めてのお相手が六位風情ではねえ」


 女房の呟き声のがかすかにそれでもしっかりと聞こえた。夕霧は自分の身分の低さで蔑まれることに恨みがましく辛くなり、雲居の雁への愛情も覚めそうになった。それでも夕霧は雲居の雁を抱きしめたまま短い秋に逢瀬を求める虫のように囁く声でこう歌を詠んだ。


「ひどいことを言うなあ、ねえ雲居の雁。くれなゐの涙に深き袖の色を浅緑にや言ひしをるべき(紅の涙に濡れる我が袖の色を浅葱とそしらざるべし)、だって。恥ずかしい」


「そんなことないわ。私は夕霧のことを知っているから。そんな衣みたいな外側だけなんて関係ないわ。きっとこの先もあなたのことを忘れないわ。夕霧はどこにいっても大丈夫、絶対に」


 雲居の雁も夕霧に歌を返す。


「いろいろに身の憂きほどの知らるるはいかに染めける中の衣ぞ(色々なつらきことをば知らされて君との定めの色は何色?)」


 雲居の雁が返歌を詠み終わらないうちに頭中将が帰ってきて、しかたなく部屋へと戻っていった。夕霧は薄暗い部屋に一人残され、体裁の悪さと悲しさ、そしてただ一人の女の子を救うにはあまりにも自分が無力なことに胸が塞がって、それでもその気持ちのやり場もなかった。夜具に突っ伏して静かに枕を濡らした。車がひっそりと屋敷を出ていく気配があり、大宮からの「こちらへいらっしゃい」という声を聞いても寝たまま動くことができなかった。その夜は涙が止まらず、一晩中泣き明かした。霜が白くおりた朝方、夕霧は腫れた目元を女房にも大宮にも見られないように急いで屋敷を出た。道すがらずっと夕霧は心細く物思いに耽っていた。空はひどく曇っていてまだ暗かった。


「霜氷うたてむすべる明けぐれの空かきくらし降る涙かな(霜も氷もとても張った明け方に僕の涙が空を曇らす)」




 光源氏は今年五節の舞姫を差し上げた。大した用意でもないが、日が近いので童女の装束などを急がせた。東の院では、夜に舞姫が参入する侍女たちの装束を用意した。源氏は全般的に準備をおこない中宮から童女、下仕えの衣装まで見事なものを差し上げた。


 昨年は五節などが中止になったことによるつまらなさもあり、殿上人もいつも以上に華やかに思っうだろうと舞姫を出す家々が競って様々な用意をしていると噂であった。


 按察使の大納言や左衛門督、殿上人の五節の用意は、今は近江守で左中弁になっている良清がおこなった。みな宮中に娘を残していて、帝から宮仕えするよう言われた年なので、娘をそれぞれ奉仕させているのであった。


 源氏の舞姫は今は津守で左京太夫になっている惟光朝臣の娘で、顔は実に可愛らしいと評判の童女であった。惟光は辛いこととだ思っているが、


「按察大納言でさえ腹違いの娘を差し上げるのに、私の大事な娘を出したって恥ずかしくはないではないか」


と責められてそのまま宮仕えをさせてしまった。


 舞いの稽古は実家で十分に練習させて、選りすぐられた彼女の付き人たちはその日の夕方にやってきた。源氏もそれぞれの優れた童女や下仕えを見比べて、そこから選び出された者たちの気持ちはみな誇らしげであった。


 惟光は御前に召されてご覧になられる事前稽古に源氏の前を通らせようとした。誰一人落とせないので、それぞれに美しい童女の姿形なので困って、「もう一組、童女たちを差し上げたいなあ」と笑うのだった。




 大学にいる夕霧は胸が詰まり、食欲もなく、ひどく塞ぎ込んでいた。漢籍も読まず、ただぼんやりと天井や庭の前栽を横になって眺めいた。気が付くと向かいの前栽の陰や窓の隙間や、そして夢の中でも雲居の雁の姿を探していた。こんなところに彼女がいるはずがないことは分かっていた。願いが叶うなら今すぐにでも雲居の雁の元へ行き強く抱きしめたかった。寂しさを紛らわすだけなら女房でも誰でもいいはずなのに真面目な夕霧には無節操で不義理なことはできなかった。


 煮詰まった夕霧は気晴らしのために部屋を出た。彼の姿や容貌は立派で美しく、落ち着いていて魅力的なので、若い女房からは人気の的であった。


 紫の上の屋敷に行っても夕霧は御簾の前にも近づけないようにされていた。源氏が自分の経験からそういう風に思ったのであろうか。夕霧は日頃から行かないので女房たちとも親しくなかったが今日の騒ぎに紛れてふっと屋敷へ立ち寄った。


 車から降りた舞姫が妻戸の間に屏風を立てた仮設部屋で休んでいた。夕霧がそっと覗いてみると、一人の舞姫が気分悪そうに寄りかかって横になっていた。


(雲居の雁と同じくらいの年だけど少し背が高くて、風情がある。美しさだけでいえばこちらの方が美しい……)


 中が暗いので、細かいところまで見えないが、全体の感じが思い出すくらいよく似ている。心移りするのとは違うが、思わず衣の裾を引き鳴らすと、舞姫の方は何か変だなと思ったがそれが何の音なのかまではわからなかった。


「天にます豊岡姫の宮人もわが心ざすしめを忘るな乙女子が袖振る山の瑞垣の(天にいる豊岡姫の宮人も僕の思いを忘れないでね昔からあの娘このことを思ってきたので)」




 夕霧の歌はあまりに突然であったが、彼の若くて良い声に舞姫は誰なのか分からないので薄気味悪く思っているうちに、化粧直しのために女房たちが来て騒がしくなってしまった。夕霧は後ろ髪が引かれたがすごすごと立ち去った。




 浅葱の衣を見られるのが嫌で、夕霧は内裏への参上を嫌がっていたが、五節では違った色の直衣が許されているので夕霧は元気に参内した。まだ小さな夕霧は年の割に大人びていて立派に歩いていた。帝をはじめとして、彼を皆が大変に大切に扱って、帝からの寵愛もこの上なく格別であった。五節の儀式では、どの家もそれぞれに立派だったが、「容姿は大殿と大納言の舞姫が優れている」と評判であった。二人とも本当に優れていたが、おっとりとした美しさにおいては大殿の舞姫には及ばなかった。


 どことなく清楚で現代的な飾り立てた姿が、誰の娘かも分からないくらい素晴らしく美しいのでこのように誉められるのであろう。例年の舞姫たちよりも少し大人びていて本当に特別な年であった。源氏も舞姫をご覧になり、その昔目に止まった少女のことを思い出した。辰の日の夕方に源氏は文を書いた。内容は読者のご想像に任せます。


「乙女子も神さびぬらし天つ袖古き世の友よはひ経ぬれば(乙女子も年を重ねし羽衣を着た我が旧友ともも年を経たので)」


 長い年月の中で思い出すままの気持ちを抑えることができずに書いた文に、胸ときめかしてしまうのもはかないことである。


「かけて言へば今日のこととぞ思ほゆる日蔭の霜の袖にとけしも(ちなんで言うと日蔭カズラをかけて舞う思い出今日のように思われ)」


 青摺りの紙を用意して筆跡が分からないように濃い墨と淡い墨、くずし字を混ぜた歌は身分のわりにはよくできていた。


 夕霧も惟光の娘が注目される中でひそかに思って歩き回っていたが近くにまで行けなかった。不愛想で恥ずかしがり屋の夕霧はため息ばかり出た。舞姫の器量が心に焼きついてバクバクと鳴り、どうすることもできない。雲居の雁の代わりに付き合いたかった。




 そのまま宮中に残って宮仕えするようにと帝の言葉が伝えられたが、近江守の娘は辛崎で、摂津守の娘は難波で祓いをするために競うように一度退出した。按察使大納言も改めて宮仕えする旨を伝えた。左衛門督は実子でない者を奏上して咎められはしたが、彼女も残らされた。


 摂津守の惟光が「典侍が空いています」と申し出たので、源氏もその通りにしようか思った。それを聞いた夕霧はまた心が深い暗闇に沈んでいくのを感じた。


(僕の年齢や位がこんなんじゃなければ願い出たいのに……。自分の思いもあの子に知られずに終わっちゃうんだ)


と、格別の娘に執心してはいないが涙ぐんでいた。彼女の弟で童殿上している者がいつも側に来て仕えてくれるので、夕霧はいつもよりも親しく言葉をかけて、彼女はいつ来るのかを思い切って聞いてみると今年のうちに参上するだろうと返ってきた。


「あの子は可愛くて、見ていて……何だか恋しくなるんだ。君がいつも見れるのがうらやましいよ。また会わせてくれないか」


「そんなことができるわけないでしょう。僕だってそんな会えないよ。兄弟でも近くに寄れないのに、どうして、どうして会わせるなんて」


「じゃあ、せめて文はどうか」


と預けた。


 以前から親から禁じられていたことであったが、夕霧強いての頼みということもあり、童殿上は躊躇しながら文を持っていった。娘は年齢の割にははませていて、夕霧の文を好奇心旺盛に読んだ。緑色の薄紙は色が透かされており、筆跡はまだ幼いけれど将来は立派に上手くなるであろう筋で鮮やかに書いてある。


「日影にもしるかりけめや少女子おとめごが天の羽袖にかけし心はを(日のもとに照らし出される我が気持ち羽衣を舞う君の姿へ)」


 二人で文を眺めていると、父が突然やって来て、びっくりして文を隠す暇もなかった。


「何の文だ」


と言って惟光が文を手に取ると、二人は顔を赤らめてチラチラと見合わせている。


「悪いことだな、誰の文だっ!」


と怒鳴った。


「頭中将様の若君に渡されました」


とこれこれしかじか経緯を言うと、惟光は打って変わって笑顔になった。


「なんと可愛らしい夕霧様の悪戯だろう。お前たちは同い年だが全く違うな」


と褒めて母にも見せた。


「夕霧様が娘を多少は人並みに扱って頂けるなら、宮仕えよりも娘を嫁がせたい。あの方の性格からすると一度好きになった人は忘れることがないので婿として頼もしい。光源氏様と明石の君のようになるかもしれないし」


と言うが準備に忙しく誰も聞く耳を持たなかった。




 夕霧はその後は舞姫に文もやらず、もっと大事な雲居の雁のことばかり考えていた。時間が経つにつれて恋しい雲居の雁に会えないことへの悲しみは募っていった。大宮の所へも気が進まずに行っていなかった。雲居の雁のいた部屋、一緒に遊んで走り回った庭……。目を閉じるだけで雲居の雁との思い出が次々に浮かんでくる。自分の屋敷さえ嫌になり、また自分の世界に籠ってしまう。


 源氏は西の対の花散里に夕霧の後見を託していた。


「大宮は老い先も長くないだろうから、亡くなった後も夕霧の面倒をみてください」


とただ言われた通りに優しく彼の面倒を見るのであった。


 夕霧がちらりと彼女を見ると、


(容貌は美しいとは言えないが、このような人でも父は捨てたりしないのか。僕は雲居の雁の器量をばかり気になって恋するなんて本当に駄目な男だ。彼女のように心が優しい人こそ慕うべきじゃないか)


と思うのだった。それでも、彼女をちゃんと真正面から見ようと思えないようなのも困るけど、長年父上がそんな容貌や心を承知の上で浜木綿の歌のように他の人と分け隔てなく世話をして気をつかうのも当然だと内心で思ってしまうことに自己嫌悪に陥ってしまうのだった。


 大宮は尼の姿であるがとても清楚である。けれども、あちこちで美人の女房を見慣れているせいか、花散里は比べると元々あまり美人ではない上、盛りを少し過ぎて、痩せぎすで髪も薄くなっているなど、まだ若い夕霧はどうしても悪口のひとつも言いたくなってしまうのだった。




 暮れになると、大宮は夕霧だけのために正月の装束などを準備するのであった。大宮が沢山の衣装を清らかに仕立てているのを見るのも夕霧には辛かった。


「元日に内裏へ参るとは限らないのに何故そんなに準備をするのですか」


「どうしてそんな考えをするの。まるで衰弱した老人みたいだわ」


「年を取ってはいないけれど、どうしても、憂鬱になってしまって……辛いのです」


 涙ぐむ夕霧の言葉の後半はかすれて聞き取ることができなかった。大宮も夕霧が雲居の雁を忘れられないことを気の毒に思って泣き顔になってしまう。


「男はたとえ出世できなくても身分が低くても、気位だけは高くするものですよ。縁起でもないですし、あまり沈んでばかりいると悪いことばかり寄ってきますよ」


「そうではないのです。六位と馬鹿にされるのは短い間のことでしょうけれども、やはり内裏へ参るのも辛くなってしまいます。祖父の大臣がいましたらからかわれることはないでしょう。私の親は気を遣うような間柄ではないけれど、それでも私を遠ざけていて会うこともなかなかできません。会えるのは東の院だけです。西の対のお方だけは優してくれます。でも、母上が生きていましたらこんなに辛い思いなんてしなかったのに」


 夕霧は強気だったが涙をこらえているのは一目瞭然だった。その様があまりにも気の毒で大宮もほろほろと泣いてしまった。


「母親に先立たれた人は身分に関係なくかわいそうです。しかしそれは運命であって成長すれば、馬鹿にされることもありませんよ。あまり思いつめないでください。亡くなった大臣が今もまだいてくれたらよかったのに。源氏の君は庇護者としては頼りにしていますが、思い通りにはいかないものです。頭中将様のお気持ちも普通の方とは違うと言われていますが、人は時間が経つにつれて変わっていきます。長生きすることも辛いことですが、まだ若いあなたでさえこんなにも身の上を悲観するのは本当に悲しく恨めしいこと」




 一日であっても源氏は参内せずのんびりと正月を過ごした。良房の大臣が慣例通り白馬を引き、節会の日には宮中の儀式を模して盛大な行事をおこなった。


 二月二十日過ぎ、帝の朱雀院が行幸した。桜の花はまだ満開ではなかったが、三月は藤壺の月命日だった。早めに咲いた桜も趣き深かったので、院に対して格別に気を配り、行幸に同行する上達部、親王など皆に気をつかった。


 付き人は皆、青色の袍に桜襲を着ている。帝は赤色の衣をお召しなっていた。源氏もお呼ばれして参上した。二人とも同じ美しく赤い衣を着ているので見まちがうほどであった。人々の装束や振る舞いは素晴らしかった。院も年々と美しくなり振る舞いも以前よりも美しくなっていた。今日は専門の文人を呼ばす、才能が評判の学生十人が呼ばれた。源氏の息子の夕霧が試験を受けるためか、式部省の試験に関連したお題が出た。緊張しがちな学生はすっかりとあがってしまって、庭の池の舟の上で頭が真っ白になっていた。


 日が段々と傾いて世界が闇に包まれかけた頃、音楽の舟が池を滑り、山から吹く風の響きと共演をし始めた。夕霧は賑やかさの中にほのかな寂しさを感じ取り、また黒々と冷たい思いが風穴のように溢れていくのこ感じた。、


「こんなに苦しい道を歩まないでも楽しく遊べるのになあ」


 春鴬囀の舞いが舞われると、昔の花の宴が思い出されて院の帝も、


「またあれを見たいものだ」


とおっしゃり、かつてことが懐かしく思い出されのだった。舞が終わると、源氏は院に盃を差し上げて歌い出した。


「鴬のさへづる声は昔にて睦れし花の蔭ぞ変はれる(鶯のさえずる声は変わらずも花影に戯れた日々は過去の思い出)」


 院も歌を返す。


「九重を霞隔つるすみかにも春と告げくる鴬の声(宮中を遠く隔てる住まいにも春を告げ来る鶯の声)」


 兵部卿は今上帝に盃を差し上げた。


「いにしへを吹き伝へたる笛竹にさへづる鳥の音さへ変はらぬ(古いにしえを吹き伝えたる笛の音にさえずる鳥の音は変わらぬ)」


 帝は盃を受けて、


「鴬の昔を恋ひてさへづるは木伝ふ花の色やあせたる(鶯が懐かしみつつさえずるは木の花の色の褪せるからなの)」


 帝は楽所が遠くてよく聞こえないので御前に琴を持ってくるよう頼んだ。兵部卿の宮は琵琶、頭中将は和琴を弾いた。箏の琴は院の御前が、琴は例によって源氏が賜った。お勧めするのだった。このような素晴らしい演奏者たちが一生懸命におこなった演奏はたとえようがなく美しかった。月は朧で趣き深く、中島のあちこちに篝火が灯り、やがて優雅で贅沢な遊びは終わりを告げた。




 夕霧は詩文の成績が良かった日に進士になった。長年勉強し成績の良い者だけがこの日の試験を受けたのだが、そのうち及第したのはわずかに三人だけであった。


 秋の司召には五位に叙せられ、侍従になった。雲居の雁のことは片時も忘れたことはなかったが、大臣に厳しく監視されていて無理して会うことはできなかった。ただし文だけはたびたび送り合っていた。周囲の者は二人の可哀そうな関係に同情していた。

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