7:男勝りのスポーツ少女・伊沢凛子
伊沢凛子が目覚めると、そこは見憶えのない部屋だった。
手足が動かない。見ると、鉄板の上でうつ伏せにされ、後ろ手に縛られている。
えっ…… なに? なんなの?
状況が分からない。前後の状況を思い出そうとしても、頭がガンガンして記憶が判然としない。
身動ぎすれば、じゃらり、と重い音。
体に鎖が巻き付いている。硬く冷たい感触がひどく不快だった。
「目が覚めたか、伊沢」
声がした。
「……なんだ、ダサ男じゃん」
起き上がろうとしたが、腰が動かない。鉄板に枷で固定されているようだ。
凛子は舌打ちして、顔だけを声の方に向けた。
低い仕切りか何かの向こうに、公治がホースを手に立っているのが見える。
公治は無言でノズルのバルブを捻った。
当然、水が流れ出す。
水はうつ伏せになった凛子の体の前面を浸していく。服が湿り、肌に貼りついて不快な感触を広げていく。
「は!? ちょっとアンタ、何して……」
その時になってようやく、冷たい水の刺激で意識がクリアになったのか、凛子は自分の置かれている状況を理解した。
底に鉄板を敷いたビニールプールか何かに、後ろ手に縛られてうつ伏せに入れられている。
その鉄板に、枷を嵌められた腰がガッチリと固定されているのだ。
水がみるみる顔を登ってくる。
「えっ…… う、ウソでしょ? いっ、いやっ! いやぁあっ!!」
凛子は必死に頭を持ち上げ、エビ反りになって空気を確保しようとする。
体が水に浮かない。首に、肩に、鉄の鎖が巻き付けられている。
水底に固定された腰はビクともしない。
「ぶはっ! ちょっ…… ぶはっ! がぼっ! や、やめてぇえっ!!」
必死に上体を反らして水から顔を上げる。だが、いつまでもそんな姿勢を維持し続けられるはずもない。
疲れた体が突っ伏すように水へ沈み込む。息ができない。慌ててまた、上体を反らす。
地獄のような背筋運動が続いた。
然して時間を掛けるでもなく、公治はホースのバルブを閉めた。
長さ2メートル、幅1メートルほどの、幼児のための小さな浅いプールだ。溜まった水の深さは、せいぜい40か50センチ。
それでも、うつ伏せに這い蹲らされている凛子には、致命的な深さだ。
必死で背中を反らした凛子は、怒りと憎しみに満ちた目で公治を睨みつけた。
「おいこらぁっ! ふざけんな変態! これが仕返しのつもり!? やることが陰険なのよっ!」
子供のころから、男子にだってケンカで負けたことはない。
つい先日、踏みつけにしてやったばかりのザコ男を怒鳴りつける。
美人が怒ると怖い。整った顔立ちから放たれる眼力は、テニス部の後輩達なら、竦み上がって涙目になる程だ。
……公治は無表情のまま凛子を眺めている。
「そんなだから嫌われ…… がぼっ! ぶはっ…… はっ…… あ、アンタいい加減に…… げほっ!!」
もう何度、背筋運動を繰り返しただろうか。
公治は眉一つ動かさずに凛子を眺めている。
「ぶはっ!! ちょっ…… アンタ! 水! はぁっ、はぁっ…… がぼっ! 水! 早く抜いてよ! ……がふっ! げぼっ! ひ、卑怯なのよ! うぇっ……!」
水に沈む度に重みを増すように感じる、濡れた服と巻き付いた鎖。
テニスで鍛えた自慢のボディだが、こんな過酷で非情な筋トレなんてしたことがある筈もない。
性格がいいだとか優しいだとか言われて、男子テニス部にチヤホヤされてた後輩を、肘が壊れるまでムリヤリ特訓させて退部に追い込んだ時だって、ここまでのことはさせなかった。
「寄って集って暴力を振るったお前が、俺を卑怯者呼ばわりか」
公治がようやく口を開いた。
怒っている様子は無かった。呆れていると言うか、疲れていると言うか…… とにかく声に抑揚がない。
「はぁ、はぁ、ぷはっ! へ、ヘリクツをグチグチと…… むぐっ…… ぷはっ! 女を縛らないと、話もできな……ごぷっ…… ぶはぁっ! お、男なら正々堂々と……げほっ! はぁっ、はぁっ……」
「なんだ? 俺と正々堂々殴り合いたかったのか?」
「えっ!? あ、いや…… ぶくぶく……」
公治は体力測定の時に、最大100キロの握力計と最大300キロの背筋力計を振り切らせたらしい。あの龍一の顔が引き攣っていたのを憶えている。
男子にだってケンカで負けたことはないと言ったが、ムロフシモドキとサシで殴り合うとなると話は別だ。
いや、金玉蹴ればワンチャンあるか?
でも、ゴリラと急所攻撃解禁のデスマッチをやるのは、もっとイヤだ。目に指でも突っ込まれたらどうしてくれる。
「ぶはっ! だ、だから女の子に暴力とか…… がぼっ! はーっ、はーっ…… やっぱりブラ盗むような男は…… ぶっ、ぶはぁっ! りゅ、龍一たちがいないからって、調子に…… ごぼっ、げほっ!」
え? 何これ? いつまで続ければいいの?
背筋が段々と引き攣ってくるのを感じる。
公治は相変わらず、能面のような顔で凛子を眺めている。
凛子の心臓に、じわじわと危機感が絡みついてくる。
「あっ…… あの…… がぼっ! ちょっと、ちょっと待って…… ぶぇっ! い、一回やめよ! 一旦やめてさ…… がぼっ! ちゃんと話を…… げほっ! ぶはっ!」
鼻が水の中に沈む。
息が続くギリギリまで休み、また必死に背中を反らす。
「ぶはっ…… ね、ねぇ? 住田……? 住田くん……? あの、水、抜いてくれないかな、って……」
余計なことを言っていられるような体力の余裕はなくなっていた。
息を吸い込み、水に顔をつけ、わずかな休憩を取り…… 軋み始めた背中を、歯を食いしばって反らす。
藻掻いても藻掻いても、鉄の戒めはビクともしなかった。
公治は無表情のまま、凛子を眺めている。
「ね、ねぇ…… あの、お願い…… 水、どうにかして…… ごぽっ」
懸命に空気を吸いながら、途切れ途切れになんとか言葉を紡ぐ。
そんな凛子を、死んだような目で見ながら、公治は言った。
「お前らと話すの、もう怠いんだよ。分かり切った事ばかり指摘させやがって」
お前ら。公治のその言葉に、今更のように凛子は思い出す。
「ねっ、ねぇ! 蓮也は!? 龍一は!? あの二人にもこんなことしたワケ!? げっ、ゲボォッ!?」
喋り過ぎて、水を飲みかけた。
慌てて息を止めて、顔を水に沈める。
「ぶはっ! はぁっ、はぁっ…… ねぇ!? 蓮也はどうなったの? 龍一はどこにいるの!? ねぇ!? ……んぶぅっ! 」
うそ、うそ、うそ、まさか、まさか、二人とも、こいつにっ……
最悪の想像と酸素不足で、顔を真っ青にする凛子。
「いい加減に少しは考えて喋れ。俺が何でこんなことしてるか、お前の何が悪かったか、子供でも分かるだろ」
公治がウンザリしたように言う。顔は無表情なままだったが、声の倦怠感が半端ではなかった。
まるで、もう放置して本でも読みたいと言わんばかりに……
「ぶはっ…… す、住田くんっ! ごめっ…… ごめん! ごめんなさいっ!!」
今までじわじわと亀裂が拡がりつつあった、『どうにかなるだろう』『自分は死なないだろう』という根拠の無い安心感が、ここで完全に崩れ去った。
もう意地なんか張ってる場合じゃない!
シャレになんない! なに考えてるか分かんないキモい奴だったけど、ここまで頭がおかしいとは思わなかった!
このままだと、本当に殺されるっ……!
「謝罪か。何度聞いても、ちっとも心に響かないな」
耳を疑うほど冷めきった声。
凛子は、今まで公治に取って来た態度、言って来た罵詈雑言の全てを後悔した。
時間が戻ってくれと本気で思った。
「伊沢。お前、この場を凌ぎたくて適当に言ってるだけだろ? 本気で自分が悪かったなんて思ってないだろ」
当たり前でしょうが!
「そんなことない! ホントに反省してるの! わ、わたし、美花や蓮也に乗せられてっ…… ごぼっ! げぼっ!」
そりゃ、悪いことしたなんて、思ってるわけないけどさぁ!
それでも、謝ってやってるじゃん!
アンタ如きが、この私に頭を下げさせてるんだよ!?
もっと嬉しそうな顔しろよ! 機嫌を直すなり態度を和らげるなりしなさいよ!
「三度目にもなると本当に怠いな…… でもまぁ、鬼塚の時は雑にやりすぎたし、やっぱりちゃんと説明するか……」
三度目。
鬼塚の時。
雑にやりすぎた。
凛子の全身に鳥肌が立つ。
じょっ、と股間からヌルいものが広がったのが分かった。
生理的な嫌悪感。それでも、限界を迎えつつある背筋では、顔を水面から上げ続けることができない。
汚水へと、顔が浸かった。
「俺とお前の信頼関係は完全に崩壊している。お前が何を言ったところで、俺は信用できない。お前は無辜の人間の生活を身勝手な理由で脅かす、悪質な人間だ。正直、この社会に存在して欲しくない」
「ぶはっ…… そ、そこまで言うって…… あ、ちが、ごめんなさい! 私がバカだったの! こ、心を入れ替えるから! んぐっ……」
なにその台詞!? 無辜の人間とか、会話で使う人初めて見たよ!?
本ばっか読んで人と話さないからそんな言葉遣いになるんだよ! ここが教室だったらみんなに笑われてるよ!
……心の中で公治を罵って、なんとか冷静さを保とうとする。
落ち着け、落ち着け、ガマンだ、ガマンだ私。
この陰キャのご機嫌を取ればいいだけ。私なら出来る。
この偏屈ボッチとは違う。媚びることには慣れてる。
部活で権力を握ってた前部長に取り入った時のことを思い出せ。
「お願い、許して! 私、本当にバカだから! 住田くんみたいに頭良くないから! 深く考えずにバカなことしちゃって、ごめんなさいっ! ごぼっ……」
ほら、どうよ? 頭が良いとか、言われてみたかったっしょ?
いっつも小難しそうな本を読むとこアピってたもんね。
そーいうの、アタマ悪いヤツがやりそうなことだけど。
「だから、ね? こ、これからは、住田くんの言うこと聞く。何でも聞くよ? 住田くんの言う通りにして、まともな人間になるから、ね?」
がはっ! げほっ!
ほら、もういいでしょ! 女の子が、この私が、何でも言うこと聞くって言ってんのよ!? 私が警察に駆け込むまでの短い間だけでも、アンタが見るには出来過ぎた夢でしょ!!
だから、早く助けてよ! じゃないと、マジで死んじゃう!
溺死はヤだよぉ! 息がしたくてもできないって、すっごく苦しいんだよぉ!
背中が痛いの! プルプルしてるの! もうやめて! やめてよぉ!
……公治は黙って見ているだけだ。
休日に上司の家でホームビデオを見せられているかのような目だ。
「だからぁ…… だからぁ! お願い、もう許して! 許してください! ホントに何でも言うこと聞くから! マジで何でもしてあげるから!」
こうなったら、もうこれしかない。
最後の力を振り絞って、体を見せつけるように背中を反らす。
テニスウェア越しに男子たちの視線が突き刺さるのをいつも感じている、自慢のボディ。
ほらっ! 喜べ、童貞野郎!
私が死んだら、もう何もできないんだよ!?
ブラが欲しけりゃあげるから! 美花にはちょっと負けるけど、それでもEカップだぞ!
「ほ、ホントはねっ!? すみ……こ、公治くんのこと、ずっと気になってたのっ! 気を引きたくてねっ!? でも素直になれなくてねっ!? だから、あんなこと……ごめん、ごめんねっ……!」
凛子がそう言うと、ずっと無表情だった公治の顔が、初めて変わった。
……心底イヤそうに。
「やっぱり、お前のことは信用できん」
涙と鼻水でグシャグシャになった凛子の顔が沈み、汚水が鼻と口に流れ込んだ。