13:可愛い義妹・住田美花
住田美花が目覚めると、そこは見憶えのない部屋だった。
手が動かない。後ろ手に縛られている。
ぼうっとしたまま、足はどうなってるのかなと見下ろしてみれば、立たされたまま足首に手錠……足錠? が掛けられていた。
あ……れ? 私なんでこんなとこに……
縛られてはいるが、柱や壁に縛りつけられて固定されているわけではないようだ…… 足錠の鎖に煩わされながら、小さく一歩踏み出そうとする。
ぎし、とロープが軋む音がして、首と脇に違和感を覚えた。
天井から吊るすように、首と脇に縄が掛かっていた。
よく見れば、立っているのは椅子の上だ。
寝ぼけていた頭に電流。
美花は声も出せず硬直した。
「はーい、マルタイの目が覚めたようでーす!」
背後から声がした。
同時に、ザクっと何かが切れる音。脇の圧迫感が無くなって、肩がガクンと落ちる。
「ぐぇっ!?」
首の縄に体重がかかる。慌てて、覚束ずにいた足元を踏みしめ、体勢を立て直す。
どういう状況か全然分からない。激しく混乱しながら、とにかく声のした方を見ると……
「え……日奈?」
連絡がつかなくなっていた、皆月日奈の横顔があった。
「日奈! 無事だったの! ……無事、だよね? ここ、どこ?」
日奈は、椅子と同じぐらいの高さの踏み台から、ゆっくりと降りてブルーシートの上に立つと、美花の正面に回った。
白いツナギを着た異様な姿が、美花の目に映る。日奈がそんなダサいものを着ているところは初めて見た。何があったのだろう。
「あっ、ロープ! 日奈、このロープほどいて! 良かったぁ、助けに来てくれたんだよね、日……」
「えー、彼女の罪状はですね。大雑把に言うと痴漢冤罪みたいなもんですね。イヤですね痴漢冤罪。こういう人がいるから本当に痴漢された子が肩身の狭い思いをするんですよ。サイテーですね」
日奈は縛られている美花を無視して、明後日の方を向くと何やら喋り出した。
「……え?」
薄暗い部屋を見回すが、他に人がいるわけでもない。日奈の視線の先を追うと……監視カメラ?
はっ、と気がついてもう一度部屋を見回す。複数の監視カメラがある。部屋のあちこちからいろんなアングルで撮られている。
なんだこの部屋!?
「な……何……? 何してんの……日奈……?」
「はい、と言うわけで、さっそくお仕置きの方、始めていきたいと思います!」
くるり、と振り向いた日奈は、手にペティナイフとバーナーライターを持っていた。
カチッと音がして、火が刃を炙り始める。
「ちょ、ちょっとちょっと!? 日奈!? 何してんのよ! どういうことなの?」
「うるさいな」
ライターの炎に照らされた日奈の顔が美花を睨む。
完全に目が据わっていた。
「全部アンタのせいなんだからね。絶対許さないから」
「意味分かんない! 何これ!? 何する気!? ほどいてよ!」
暴れようとした美花の足元で、椅子がカタカタと揺れる。
「ああ、もう自殺するの? 別にいいけど」
ほっとしたような声の日奈。美花は自分の置かれている状況を思い出して、再び硬直した。
「……あんた、だったの? 蓮也たちも、あんたが……?」
冷や水を浴びせられたかのように冷たくなった心と体。美花は震える声で日奈に問いかける。
「え? あーうん。そうだよ」
「な……なんで……?」
「さっき言ったじゃん。冤罪のお仕置き」
「え、冤罪のお仕置きって…… ウソでしょ!? あんたアイツの味方だったの!?」
その瞬間、ナイフが美花の太腿に突き刺さった。
「余計なこと言うな!」
刃の熱さと、焼けるような傷の痛み。今まで味わったこともない苦痛に美花は悶絶した。
「ぎゃああああああ!!」
カタカタと、椅子が音を立てる。ギシギシと、首のロープが軋む。
「……まぁ、どうせ編集されるんだろうし、細かいことは気にしなくていっか」
ため息と言うにはあまりにも浅い息を吐き、日奈はナイフを引き抜く。
加熱された刃が傷口を焼いたのか、刺した場所が大きな血管を外れていたのか、大した出血はなかった。
「はーい失礼しましたー! こっからはサクサク進めて行きますね! 結構予定押してるんですよー! 準備も大変でしたし! 片付けもいろいろありますからね!」
「痛い…… 痛いよ日奈…… なんで…… なんでこんなこと……」
「あー、準備や片付けの詳しい説明はね! 勘弁してくださいね! マネする人がいたら困りますからね! 拉致監禁とか、証拠隠滅とかね!」
悶える自分を無視してカメラ目線になる日奈の横顔を、涙の滲んだ目で見る美花。
誰だ、こいつ。こんなやつ、日奈じゃない。
いつでもニコニコしながら、明るい声でクラスのみんなをまとめてくれた日奈じゃない。
美花をインフルエンサーだと見定め、引き立てることで有象無象を操ってくれた日奈じゃない。
バイトだ勉強だと付き合いの悪いアイツをディスり、嫌われ者に仕立て上げることに嬉々として協力してくれた日奈じゃない。
「本日のお仕置きは、麻酔なしのお医者さんごっこですね! 首謀者は絶対に許さないってことなんで! 派手にやります、ええ!」
日奈は再びナイフを火で炙り始める。刃に付いていた血が焦げ、異様な臭いが立ち込めた。
「うげぇっ……!」
「うわ臭っ! あ、ナイフを火で消毒するのは、止めといた方がいいですよ! ナマクラになっちゃうらしいんで! ……わざと切れ味を悪くしたい時は別ですけどね!」
日奈が顔を上げ、炎を見つめていた目を美花に向けた。
薄暗い部屋の中、ナイフの刃先がゆらめく炎に照らされてギラギラと光る。
「ひっ」
美花の喉が引き攣った音を立てた。
麻酔なしのお医者さんごっこ…… 一体何を言っているのか。とても正気とは思えない。
「う、ウソ、よね? からかってるだけ、でしょ?」
はは、と、引き攣った喉から掠れた笑い声が漏れる。
「も、もぉ、冗談キツいよ。分かった、分かったから、もう終わりにしよ、ね? 凛子も、蓮也も、みんな見てるんでしょ? 出ておいでよ、ねぇ、龍一? 貴志?」
「いないよ」
日奈が乾いた声で告げ、ライターの火を消す。
薄暗い部屋に日奈の目が光った。
「い、いな、い?」
「もういないのよ。あんたのせいよ。あんたがくだらないことにうちらを巻き込んだから」
「く、くだらない、こと?」
「お父さんの仇を取りたかったんだって。そのためにずっと頑張って来たんだって。今回の事はちょうどいい練習になったって…… ははっ」
「な、なんの話?」
その時、部屋の壁がコン、コン、と鳴った。
誰か来た? 助けが来たの!? と、美花が期待したのも束の間、
「ごっ、ごめんなさいごめんなさい! 余計なこと言いません! すぐやりますんで! はい!」
軽いノックのようなその音を聞いた日奈は、まるで巨大な獣にでも吼えられたかのように全身を異常に震わせて、悲鳴を上げるように答えた。
そして、
「ぎぃぁああああああああ!?」
美花は絶叫した。腹部に激烈な痛み。生理痛の比ではない。
日奈がナイフを美花の腹に捩じり込んだのだ。
手つきこそ拙いが、動き自体に迷いはなかった。
非力な日奈の振るう焼けたナイフは然して深く刺さったわけではないが、それでも美花は呼吸もままならないほどの苦痛に呻吟した。
足元の椅子が、痙攣するようにカタカタカタカタと音を立てる。
「あはっ、ねぇ、ミカちゃん? 反省してるんなら、椅子を蹴って首を吊りなよ! それで、悔い改めて償ったことにしてくれるってさ!」
血走った目で、日奈が叫ぶ。声が裏返っていた。
「じゃなきゃ、このまま開腹手術ごっこだよ? うちはそれでもいいけどね! 撮れ高は大事だもんね!」
日奈がナイフを握る手に力を込める。雑に焼き鈍されて切れ味に斑ができた刃で、無理矢理に腹を下へ切り開こうとした。
「あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"あ"っ!!」
開腹は遅々として進まず、ナイフの柄が不格好に沼田打ち回るばかりだったが、美花は腹膜炎の如き凄絶な苦痛に苛まれてえげつない悲鳴を上げた。
頑丈そうな椅子は、ガタガタと音を立てるも、なかなか倒れない。
日奈の白いツナギと、床のブルーシートに、血が飛び散っていく。
……ああ、血の跡とか掃除しやすいように、あんな恰好をしてるのか。
そんなことを考えている場合じゃないはずなのに、美花はそれに気が付いてしまう。
自分が、機械的に屠殺される家畜になったような、途方もない絶望感に襲われた。
気が遠くなる。なのに、激痛で気絶もできない。
「な…… なん…… でぇ……」
ひゅー、ひゅーと口から泡を吹きながら、美花は呟く。
「なんで……なんでこんなこと…… やめてぇ…… たすけてぇ、ひなぁ……」
「なんでって、分かってんでしょ?」
日奈は吐き捨てるように言った。
「まさか、悪いことしたって自覚、皆無だったわけ? だったら、死んで当然だよねー」
あの男を下着泥棒扱いしたこと?
みんなでボコボコにしたこと? 小賢しくも録音なんかしてたスマホをぶっ壊してやったこと? ご自慢の分厚い本をグチャグチャにしたこと? 必死になって稼いでるバイト代を取り上げて、みんなで乾杯したこと?
「悪いことしたって思ってるなら、罪悪感で生きてらんないでしょ? どっちにしても死ぬしかないのよ、アンタは」
そりゃ、良いことじゃないに決まってる。
でも、問題ないことだったはずでしょ?
あのボッチが苦しんだところで、他の誰も困らないはずでしょ?
誰も損しない、誰も責めない、誰も問題にしないことだったはずじゃないの?
「なん……で…… あんた、に…… そんな、ことをっ……!」
日奈も一緒になってやったじゃん。ノリノリでやってたじゃん。
何であんたが私を責める? 私だけが悪いみたいな顔してっ!
「うら……ぎりもの……!」
「うるさい! 全部アンタのせいでしょうがっ! 巻き込みやがってっ! よくもあんなおっそろしい人にケンカ売らせてくれたなっ!」
金切り声を上げて、日奈がナイフを引っこ抜く。
「おかげでうちはご主人様の犬だ! これからずっとバイトして! 給料の半分はご主人様のもんだ! 弁償に慰謝料! 経費に違約金まで! お前らの分まで立て替えさせられて! 貯金が趣味のしみったれた奴か、うちはっ!」
何度も何度も、狂ったように美花の肌に斬りつける。
それでも、焼き鈍された刃のせいか、加熱された刃が傷口を焼灼したのか、日奈がナイフの扱いに慣れていないだけか……美花が致命傷を負うことはなく。
それ故に、美花は腹から体温が零れ落ちていく過程を、じっくりと味わうことになった。
「……ま、それでもアンタらよりは、ずっとマシな扱いだけどねっ!」
ナイフを持った手の甲で額の汗を拭い、一息つくと、血塗れになった顔で日奈は笑った。
これほど幸せそうな笑顔を、美花は見たことがなかった。
「うあ…… あ…… あ……!」
美花は涙をぼろぼろと零しながら、さっき音を立てた壁の方へ向かって叫ぶ。
「こ…… こうじ…… 公治さん…… いるんでしょ?」
ほんの数日前まで、楽しく生きていた。
ムカつくことなんて全部蹴っ飛ばして、気分上々に青春を謳歌していた。
お勉強だのお手伝いだのと、目障りなことしかしないウザくてダサい男も、軽くシメちゃう無敵の女子高生を満喫していた。
「ごめん…… ごめんなさい…… なんでもするから…… 許して…… たすけ、て……」
気が狂うかと思った激痛が、今は鈍痛に変わっている。心臓の鼓動に合わせて、ズクン、ズクンと弱々しく疼く。
アドレナリンとかが出て痛みが止まったのだろうか。それとも、もう痛みや苦しみを感じられない体になりつつあるのだろうか。
焦燥、恐怖、後悔。
「ね、ねぇ…… 聞こえてる、よね? 公治さ…… お、お兄ちゃん……っ!」
自分でも無理筋だと思いながら…… それでも、初めて公治を兄と呼んだ。家族の情に訴えようとした。
何を今さらと、自分でも思う。情なんてあるもんか。今まで何をしてきたと思ってる。
それでも……
「あの…… し、下着、盗んだなんて、ウソついて…… ごめんなさい……」
やっぱウソか、と日奈が吐き捨てるように呟くが、気にしている余裕なんてない。
一秒でも早く救急車を呼んでもらわないと、このままじゃ本当に……
「あの……ね? ちょっと、新しい家族に馴染めなくて、ムシャクシャしてて…… 全部、私が悪いの。子供みたいな悪戯して、ごめんなさい…… お父さんと、お義母さんにも、ちゃんと謝るから……」
我ながらバカみたいな言い訳だ。
それでも……
「クラスの…… みんなにも…… ちゃんと言うから…… 全部ウソだって…… お兄ちゃんは…… 何も悪くない…… 私の逆恨みだって…… せつめい、する、から…… もう、イジメみたいな悪ふざけなんて…… しない…… から……」
クラスのみんなは許してくれるだろう。彼らには何もしてない。
別に彼らの友達に手を出したわけじゃない。ボッチ野郎にイヤがらせしただけなんだから。
私が謝れば、みんな慰めて、庇ってくれるだろう。
だって、みんな私に夢中だし。私のこと、みんな大好きだし。
「ね……? だから…… これからは…… 家族として…… 一緒に暮らそ?」
そうだ、私は愛されてるんだ。可愛いんだ。
素材の良さに甘えずに、髪もお肌も大事にしてるし。
ダサ男がつまんない勉強なんかして、キモい筋肉を鍛えてる間にも、私はお洒落を頑張ってるんだ!
だから、殺さないで!
生かしておけば、こんな可愛い女の子と一つ屋根の下で暮らせるんだよ!?
思いっきり媚を売って、チヤホヤしてあげるから!
アンタなんかに媚を売るストレスは、また適当なボッチを見つけて……今度こそ、復讐なんかできないちゃんとしたヘタレ陰キャを見つけて……そいつで解消するから! もうアンタには迷惑かけないから!
「お願い…… 許して…… ね? 私、ちゃんと…… 可愛い妹に…… なるから…… ねぇ、お兄ちゃん……!!」
ね? 可愛いって正義じゃん?
ほら、可愛いから許すって言って……?
言ってよ! 言いなさいよぉっ!!
「ぶっ……あははははっ! お兄ちゃん!? お兄ちゃんって! お兄ちゃんって!」
何がおかしいのか、腹を抱えて笑う日奈。
「ねぇ、どうするご主人さ……」
壁が、コンッ、と一度だけ鳴る。
それが返答の全てだった。
「はいっ! ごめんなさいっ! すぐに済ませますんで! 失礼しました!」
忠実な犬がナイフを手に、濁り切った目で美花を振り返った。
「ざぁんねんっ! ねぇ、ミカちゃん? アンタ、うちより可愛くないってさ! うちのことは助けてくれたけど、アンタは要らないってさ!」
友人…… 手下だったはずの女に、プライドまでグチャグチャに磨り潰される。
兄と呼んであげたはずの男は、顔すら見せようとしない。
「お……お兄ちゃん? お兄ちゃん!? お兄ちゃん! お兄ちゃんっ!! お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん……」
屈辱と絶望の果て、やっと美花は正気を失うことができた。