【7】母が出した交換条件
涼やかな隙間風が吹き込んでくる10畳ワンルームの我が家にて。
母さんはマッシュポテトの入ったタッパー片手に悲しげに目尻を下げる。
「常連のお爺ちゃんがセルフネグレクトになっちゃってね。これは大変だーって、仲間内でお世話を焼くことにしたのよ」
「セルフネグレクト?」
「日常生活がままならなくなる心の病気よ。TVでたまに特集してるでしょ? ゴミ屋敷とか汚部屋とか。あの状態がそれ。ストレスとか独居生活とか理由はいろいろあるみたい」
「汚部屋……」
「そのお爺ちゃん、5年前に奥さんに先立たれてね。ウチに通ってたのも寂しさを埋めようとしていたみたい。でも、いい歳だからお店に通う元気もなくなって。人と会う機会も少なくなって、そのまま……ってわけ。だからこれ持って様子見てくるわ」
母さんは適当な紙袋にタッパーを詰め込みはじめた。
出勤前に爺さんちへ寄ろうとしたが、肝心のタッパーを忘れて慌てて戻ってきたのだろう。
「……例えばだけど、俺くらいの若い子でセルフネグレクトになったりするのか」
「う~ん、どうかしら。人付き合いによるんじゃない? 普通は親が面倒見るでしょ。友達がいれば心配して声をかけるでしょうし」
「だよな……」
天城さんの顔が浮かんだが、彼女の傍には千駄木さんがいる。
汚部屋になった理由は他にあるのだろう。
「ウチの息子は元気に育ってよかったわ。親が面倒見てもらってるほどのしっかり者だかんね」
紙袋にタッパーを詰め終わった母さんは、バラの香水の薫りを漂わせながら俺に近づいてきた。
悪戯少女みたいな人懐っこい笑顔を浮かべて、俺に唇を差し出してくる。
「いつもお掃除サンキュね。ちょー助かってる。ちょー好き。キスする?」
「しねーよバーカ」
「こら! 親に向かってバカとはなんですか」
俺がストレートに悪口を言うと、母さんは目をつり上げて怒った。
ここに天城さんがいたら外との態度の違いに驚くだろう。
身内相手なのもあるが、素の俺は口が悪かった。
その自覚があるから口数も少なくなり、それが返って相手に威圧感を与えてしまうわけだが。
「お説教です。そこに直れ。手討ちにしてくれる」
「はいはい。めんごめんご。反省してま~す」
「はぁ~、まったくこの子は。そんな態度ばかり取ってると、ろくな大人にならないよ」
「オヤジみたいにか?」
「その通り! 小さい子供を置いて蒸発するなんてありえない。あの詐欺師め! アイツのせいでどれだけ苦労したか。あ~、ほんと腹立つ。今度見かけたら首締めてやる!」
「店でそういうこと口にするなよ。お客さんが離れていくぞ」
「心配ご無用。お店では料理上手な癒やし系のアイドルママさんとして売ってるから。きゃは☆」
「げろげろ……」
母さんは一昔前のアイドルのように、ウインクを浮かべて横向きのピースサインを決める。
俺とは性格が真逆だ。母さんのテンションについていけない。
だが、この底抜けの明るさとサバサバした性格に救われたことも多かった。
母子家庭というだけで偏見の目で見られて、顔が怖いと逃げられて……。
それでも腐らず今日までやってこられたのは、母さんが笑顔でいてくれたおかげだ。
そんな母さんに恩返しをするつもりで、俺はアルバイトを探していたのだ。
「そうだ。ようやくバイト先が決まったぞ」
明日にしようかと思ったけどちょうどいい。
俺は千駄木さんから渡された(ダミーの)同意書を取り出した。
「あれだけ面接落ちまくったのにまだ諦めてなかったの?」
「うるさいな……。とにかく決まったんだよ。働くには親の同意が必要なんだ。ここにサインしてくれ」
「『ぼちぼちクリーニング』ねぇ」
母さんは同意書にざっと目を通したあと、ジロリと俺を睨んでくる。
「聞いたことない名前の会社だけど大丈夫? はやりの闇バイトじゃないでしょうね」
「企業相手に清掃員を派遣する会社だって。勤め先は市内の駅ビルだから安心してくれ」
「……ま、アンタを雇ってくれるところだ。悪い会社じゃないでしょ」
母さんはボールペンを手にすると名前をサインしてくれた。
俺に書類を返そうとしたところで。
「母さんとの約束忘れてないでしょうね」
そう言って頭の上に書類を上げた。ペラペラと書類を煽りながら俺にお説教をしてくる。
「バイトもいいけど勉強もしっかりやること。いい大学に行かせるために今の高校に行かせてんだから」
「わかってるって。俺なりに頑張ってる」
「口ではなんとでも言えるわよね」
「むっ……」
母さんの小馬鹿にした物言いにカチンとくる。
そこでふと天城さんの言葉を思い出した。
人の心は行動に現れる……か。
「そこまで言うなら次のテストで1位取ってやる。それならどうだ」
「学年で?」
「……クラスで。それと10位以内にしてくれると嬉しい」
「身の程を弁えててよろしい。いいよん。10位以内に入ったら、バイトしようが夜遊びしようが文句は言わない」
「約束だかんな」
俺は手を伸ばして母さんから同意書を奪い取った。
母さんは俺がバイトをする理由を知らない。小遣いほしさだと思っているんだろう。
直接伝えるのは恥ずかしいので働く理由を秘密にしていた。
(秘密が増えていくな……)
良心が痛むが、すべて上手くいけば母さんを楽にできる。それまでの我慢だ。
勉強に関しても俺なりに勝算があった。
バイト先が決まったので、面接に費やしていた時間を勉強に回せる。
掃除も勉強も同じだ。黙々と作業をこなして着実に成果を上げるのが好きだった。
「うっし。ヤル気出てきた。いっちょやったるか!」
「お! いいね。それでこそ男の子だ。その調子で彼女の一人くらい作りなさいよね」
「余計なお世話だっての……」
息子がため息をつく隣で、母さんは「ガハハ!」と腰に手を当てて豪快に笑う。
天城さんが母さんを見たら卒倒しそうだな。絶対会わせないようにしよう……。