【6】闇バイト(?)はじめました
日が沈みかけた高層マンションの一室にて。
天城さんのお願いに対して、俺の出した答えは――。
「わかったよ」
「本当ですか!?」
「そこまで真摯にお願いされたら断れないだろ。断ったら死、あるのみなんだから」
「くすっ。ご自分の立場がおわかりのようで」
俺の冗談めいた物言いに、隣で成り行きを見守っていた千駄木さんがほくそ笑む。
ここで俺が頷くところまでが、千鶴さんの課した試練だったのかもしれない。
「では、こちらの書類にサインを。連絡先の記入もお忘れなく」
俺は千駄木さんが差し出された書類に名前を書いた。雇用契約書だろう。
「……確かに。これで契約は成立です」
千駄木さんは俺のサインを確認すると、そそくさとクリアファイルにしまいこんだ。
「さっそくお掃除を……と言いたいところですがもう遅い時間です。今日のところはお引き取りください。明日からの流れはメールにてお伝えします」
「わかりました」
「何かとご入り用でしょう。こちらは前金としてお受け取りください。月末にもう半額お支払いいたします」
そう言って千駄木さんは分厚い封筒――100万円をポンと渡してきた。
◇◇◇
――帰宅後。
「マジで100万貰っちまった!?」
駅前のマンションから20分ほど歩き、町外れにある住み慣れたボロアパートに戻った。
10畳ワンルームの壁の薄い和室にて、俺は100万円が詰まった封筒を前に手を震わせる。
帰り道は生きた心地がしなかった。
道行く人がみんな強盗に見えて、いつか襲われるんじゃないかと気が気じゃなかった。
(とりあえず、母さんに見つからないような場所に隠すか……)
俺は封筒を手にしたまま部屋を右往左往して、現金の隠し場所を模索する。
リスク回避のため、バイトの件は親兄弟にも秘密にするように言われた。
書類上は、千駄木さんが用意したダミーの清掃会社で働くことになっている。
(秘密にしたいなら100万なんて大金を渡さないでほしい)
きっと俺の理性を試しているのだろう。
誰にも言えない秘密を抱えていると黙っていることが辛くなる。
うっかり口を滑らせたらそこでバイト終了だ。
100万をいきなり使うのも御法度だ。
昨日まで爪に火をともすような生活をしていた学生が、急に羽振りがよくなったら周囲に怪しまれる。
大金を手にしても秘密を守れるか。普段通りの立ち振る舞いができるか。
そういった胆力を試されているのだ。
とはいえ、途中でリタイアしてもペナルティーがあるわけでもない。
半金を失うことになるが前金で100万も貰えれば十分だ。
なんだったら明日にでも辞表を出してバイトを辞めることもできるが……。
(あんな目でお願いされたら裏切れないよな)
天城さんは俺を信じてくれたんだ。あの期待のまなざしを裏切りたくない。
「隠すなら机の引き出しだな……」
考えをまとめたら頭も回ってきた。
俺は部屋の隅にある勉強机の引き出しを開いた。
念のため5万円ほど財布に入れたあと、残りの金を引き出しの奥にしまう。
念には念を重ねてグラビア雑誌(エロ本ではない)の間に封筒を挟んで、引き出しに鍵をかけた。
母さんは雑誌(エロ本ではない)の存在を知っているが、性に関してはおおらかなので見て見ぬ振りをする。その母心を逆手に取るのだ。
「これでよし……」
「終わった?」
「どわぁぁっ!?」
いきなり背後から声をかけられて、俺は大声をあげてのけぞった。
背後から声をかけてきたのは……。
「驚かすなよ、母さんっ!」
「めんごめんご。コソコソしてるのが見えたから、終わるまでそっとしておこうと思って」
声をかけてきたのは風馬 茉莉、俺の実母だった。
母さんは男受けのいいグラマラスなボディラインと、脱色した長髪を揺らしながらウインクを浮かべる。
これから仕事なんだろう。胸元が大きく開いたワンピースを着ており、豊満な胸がたゆんたゆんと揺れていた。
「今日のおかずは何? また巨乳もの?」
「なんの話だっ」
「隠さなくてもいいわよ。お母さんわかってるから。おっぱいもロボットも、男の子は大きいモノが好きだもんね」
母さんは自分の胸を両手で押して上げて、ニヤニヤと笑う。
けれど相手は母さんだ。どうとも思わない。俺はため息をついて勉強机から離れる。
「わかってるならそっとしておいてくれ。絶対に引き出しを開けるなよ。絶対だぞ」
「それはフリ?」
「フリじゃない。開けたら本気で怒るからな」
「そうカリカリしないの。愛する息子とのスキンシップじゃない」
俺がいくら注意しても母さんはどこ吹く風だ。
苦笑を浮かべるだけで、まったく気に留めていなかった。
「っていうか母さん。今日は早番のはずでは?」
母さんは歓楽街の一角にあるスナック『ジャスミン(茉莉花)』で雇われママさんをしている。
俺が下校するのと同時に出勤して、俺が朝出かける前に入れ違いで家に帰ってくる。
今日は早めに出ると言っていたから油断していた。まさかいきなり戻ってくるなんて。
「ちょっと忘れものしちゃってね。……と、あったあった」
俺の問いかけに母さんは冷蔵庫を開けて、タッパーに入ったマッシュポテトを取り出した。
マッシュポテトは母さんの得意料理で、朝晩問わず食卓に並ぶ風馬家の定番メニューだった。
「食べないならこれ貰っていくね」
「また店に持って行くのか?」
「ううん。常連さんのところに持って行くの。お店で出してたアタシの味が恋しいんですって」
母さんはタッパー片手に悲しげに目尻を下げる。
「その常連のお爺ちゃん。セルフネグレクトになっちゃってね。これは大変だーって、仲間内でお世話を焼くことにしたのよ」
「セルフネグレクト?」
聞いたことのない単語に俺は首を傾げた。