その三 私があなたに望むのは
私の状況は変わっていないが、私の心は数日前と全く違ったものとなっている。
怪我人で逃亡者であるらしいヨアキムは、私が管理する貸し馬屋の家屋内にて匿っている。正しく言えば、厩舎の馬房の一つに、だ。
食事は朝に家から持ち出したものだけで、あの大きな体には足りないだろうが、その量しか私には彼に用意する事ができない。
彼に渡しているのは、私の朝ご飯なのだもの。
父は私よりも早く家を出る。
私はまず家の仕事をしなければいけないからだ。
朝も夜も私が料理を作る。夜は家族でテーブルを囲むが、朝は私と食事をとりたくない上に早起きをしたくない母のお陰で、私が朝食を食べていなくとも気付かれる事は無い。
今日も私はヨアキムに食事の入った籠を手渡した。
大き目の器に盛ったスープとパンだけである。
「毎日悪いね」
「怪我の具合を見せてもらえる?化膿はしていない?」
「こんな狭い所でお医者さんごっこはちょっと大変だな」
「あなたったら揶揄ってばっかり」
私はヨアキムを叩くふりをして、ヨアキムは私の拳を避けるふりをする。
こんなふざけ合いが私にできるなんて!!
私の拳は宙で固まった。
彼の後ろにも一人の人間の姿が見えたのだ。
毛布をすっぽりとかぶって頭しか見えない、そんな人影が。
私の胸はズキンと痛んだが、私はその痛みを知らない振りをした。
私はヨアキムが世慣れしている男だって知っていたでしょ?
この町には春を売る女の人がいるってことも。
「インケリ。どうした?」
「なんでもないわ。私は仕事に戻ります」
「今日は皿を回収しないのか?俺が食べている様をうっとりと見ないのか?」
「たまにはゆっくり食べたいでしょう。量が少なくてごめんなさい。今日はお客様がいたみたいなのに」
ぷくくく。
毛布の中でくぐもった笑い声が起こり、私はびくっと笑い声に脅えた。
だって、男の人の声だった。
ヨアキムは舌打ちをする。
「娼婦を買ったのかと思ったら、男の人を買っていた?」
「君は俺を何だと――」
「アハハ、駄目だ。面白過ぎる!!」
毛布から若い男性が現れた。
若いと言ってもヨアキムより年上か同じぐらいの、二十代後半から三十代前半ぐらいである。また、美貌もヨアキムに負けず劣らず、だった。
黒っぽい髪は短く、寝起きらしくぴょんぴょんと立っている。
しかし、髪は焦げ茶という普通の色でも、彼の瞳の色は猫みたいな金色に輝く褐色で、金髪碧眼のヨアキムの対に見える程に輝いている。
そんな美丈夫が気さくそうに私に右手をさし伸ばした。
「初めまして、かわいこちゃん。俺はサミって、痛って!!うわっと!!」
ヨアキムがサミと名乗った人の手の平を思いっきり叩き、その上、再び藁の寝床へと転がしたのである。
「俺とインケリの邪魔をするからだ」
私はくすくすと笑っていた。
自分もこんな風に笑う事が出来たんだと、笑いながら心が軽くなっていく。
いいえ、重くなっていくの間違いだわ。
そろそろ潮時なのよ。
「どうしたんだ?暗くなって。怖かったか?」
「いいえ。怪我が治ったならお別れね。そう思ったの」
「わかるよ。君は俺と離れがたくなったんだろう?」
その通り。
でも、たった数日で私はこんなにも彼の存在が心の支えになっているのだ。
もっと長く彼といたら、彼が消えた時は私は耐えられなくなるだろう。
今なら夢みたいな数日だったと、逆に長い人生に耐えるための糧にできる。
私はヨアキムに笑顔を向けていた。
「いいえ。はやく消えてくれないかな。そんな感じ。朝ご飯をもう一週間も食べていないの。意味は解るわよね」
「わかるよ。今夜中に消えよう」
私の胸は痛んだ。
死なないために少しでも早く彼を追い出そうとしたのに、私の胸は既に彼の存在でいっぱいだったみたい。
でもいいの、これでいいのよ、インケリ。
あなたは醜いの。
こんなに綺麗な男の人には釣り合わないのよ。
「お金はあるの?」
「君には関係ない」
「そうね。でも、私に感謝の気持ちは示して欲しいわ」
「感謝ね、何でもするよ」
「トーリを盗んで連れて行ってくれる?あの子は荷馬車を引くには力が無さすぎるの。でも、我慢強いから頑張って、でも、出来ないって鞭で叩かれる。あの子を優しい農家の人に渡してくださる?」
「そんなことをしたら君は家族に酷い目に遇わないかな?君の厩舎にいる子はあの子ともう一頭の子だけじゃ無いか。家業は大丈夫なのか?」
「そうね、忘れていた。フィンも連れて行って。サミさんがいるなら二頭を自由にしてあげられるわね」
「どうして君は?」
「あなたは数日ここにいて、戻ってくるあの子達を見ていたでしょう?」
「君のあの子達への献身も見ていたよ」
「ではわかって?私の唯一の、とっても大事なこの子達が、使い潰されるのは我慢が出来ないの。だから、お願いしていいかしら。捕まったら馬泥棒は縛り首よ。私はそんなひどいお願いをあなたにしているの」
「じゃあ、そのお願いに、色を付けてもらおうか」
「トーリ達を売ったお金はあなたのものだわ」
「俺はもっと高いね。物凄い美姫を手に入れられなきゃ割に合わない」
「あなただったら、妹はひと目であなたに付いて行くと誓うでしょう」
「君は俺は嫌か?」
「私は美姫じゃないわ」
「それを決めるのは君じゃない、俺だ。俺は嫌か?」
私は彼に首を振っていた。
私を美人だと彼だけは言ってくれた。
それだけで私はきっと一生幸せでいられるだろう。
「私はあなたに恋をしているわ。自分が美人だったらって、私こそ思うわ」
「ばあか」
ヨアキムは私の頭を撫でた後、私に笑顔を見せた。
それは初めて会った時よりも鬼気迫る、海賊でも騎士でもない笑顔だ。
世界を手にできる魔王様の顔だった。