先輩、戻ってきてくださいね。
「もしもし、香澄。今、良いか?」
『は、はい。どうしたんですか?』
夜、俺は自分の部屋で香澄に電話していた。まだ香澄が起きているであろう時間帯。美玖は今、リビングで学校の勉強の方をしている。
動画活動は大事だが、思っていたよりも早く待っていた動きがあった。元々、美玖の成績は悪くないが、隙は少ない方が良い。
「明日、朝から出かけるから。大事な用事でな。」
『わかりました。何時ごろ出発ですか?』
「いや、明日は朝、来なくて良い。早い時間だからな。それと、その……なんだ」
『はい』
「……いや。それだけだ。じゃあ、また、用が済んだら連絡する」
『ま、待ってください』
「どうした?」
『本当に、大丈夫ですか?』
「大丈夫って、何が?」
『……先輩、その……うまく、言えませんが』
「ん?」
『先輩は、ちゃんと物事を考えられる人です。先のことをちゃんと考えられますし、終わった後も振り返って考えられる人です』
「あぁ」
『だから、その……先輩』
微かに聞こえる呼吸は、どこか焦りがあるように感じて。
『先輩……戻ってきてくださいね』
「? おう」
通話を終了させる。
「……美玖」
「何ですか? お兄様」
部屋を出て美玖に声をかけると、シャーペンを走らせていた手を止めて顔を上げる。
「明日、出かけるから。何か困ったら香澄に連絡してくれ」
「わかりました」
「誰か来ても、香澄か恵理以外なら全部無視しろ」
「はい」
これで良い。これで誰も、下手に動かない。何もなければ動く駒は俺だけだ。
それに、いま香澄に会うと、俺の中で決めた覚悟のような何かが、揺らいでしまう。そんな気がしたんだ。
面倒ごとは俺の仕事だ。美玖が好きに活動できるように地盤を整えるのが、俺の役割だ。
「マネージャーを通すとは、わかっているじゃないですか。一時間後にはバイトなので、それまでに済ませてほしいところですが」
本当は休みたかったが、流石に減らしすぎたしこの間は休んでしまったし。仕方ない。
母親はスマホの画面を差し出してくる。
「今すぐ削除しなさい、この動画。本家様の前でどれだけ恥ずかしかったか」
「気にするのは自分の恥か。だから父親は帰ってこないし、美玖にも逃げられたんだよ、あんたは」
連絡をよこしてきたのは母親。俺は家に呼び出された。
母親の横に佇む茉莉は静かに肩を竦める。分家の中でも最も力を持つ有村家の方では特に関与するつもりはない、と。
というか本家様の前で、ね。一応うちは本家筋だってのに。
疎外感と劣等感。この母親の人間性、その根の部分はこの二つで大体説明がつく。
「美玖をうちに戻しなさいとはもう強くは求めないわ。これ以上好き勝手しないのなら」
「わかってないな。まだ自分が条件を出せる立場だと思っているのか?」
そもそも、強引に美玖を連れ戻そうとせず、呼び出さず。俺に連絡を取って呼び出した時点で違和感はあった。
そして、この家に戻せと強く要求しない、ってことは。
「評判、良かったんだろ? 動画。本家様には」
「なっ……そんなこと、ないわよ」
「あんたはいつもそうだ。全方向に良い顔するために中途半端な行動をとる。動画活動自体は眉をひそめる人はいたが、おおむね評価は上々、美玖のピアノをほめる人もいた。大方、動画活動は学生だから、長期休みのみの、一時の挑戦だったけど、音楽は続けています。というのが、あんたの描いているストーリーだろ」
わかりやすく顔をしかめる母親。あんたの行動も心理も、読みやすいんだよ。
それに、有坂家のパーティーでもどのようなやり取りがあったのかも容易に想像できる。そのために活動開始を急いだんだ。本家でパーティーがある時には目に入るように。体調不良を押してでも。
さて、有坂家本家の長男、その息子と娘が始めた世間で少しずつ評価が上がり話題になっている活動。それが本家のパーティーで話題になった時、堂々とけなして批判できる奴はいるだろうか。いるだろうな、そいつが権威主義が服着て歩いているような場で生き残れるかは別として。
つまりは純粋に美玖の動画が評価されたわけではない。俺が求めていたのは、良い印象で世間に受け入れられつつある状態で本家の連中の目に留まれば良かったのだ。そこまで達成できれば、有坂家とは一端の決着はつけられる。
「せっかく評判が良かったピアノ、やめさせたなんて本家様の前で言えないもんなぁ。恥、かきたくないんだろ?」
というか、どうせ既に突かれてるだろ、美玖をピアノから離れさせたこと。
そうでなければこんなこと言い出さない。
「っ、あんたねぇ」
「なんなら俺の方から報告しても良い。本家様に、美玖の最近の様子。どっちの言葉を尊重してくれるか、有村家の性質をよく知っているあんたなら、すぐにわかるだろ」
ここに父親が来て何もしない時点で、お察しというものだ。
有坂家は、俺たちの活動を黙認する方針。騒いでいるのはこの母親だけ。そうなり得る状況を作り出し、そうなっていることを見抜いた時点で俺の勝ちだ。
「お願いよ、晃成」
「過去の自分の間違いを認めたくないってか?」
泣き落しなんかに乗ってやるか。
「じゃあどうすれば良かったのよ」
「今更遅い。美玖の才能は開花しつつある。俺はその才能を伸ばす。あんたは黙ってろ」
そのために蓄えた力だ。
これで第一段階は終わる。
有坂家から美玖を一時的に引き離して俺の傍に。
あとは許嫁の件をどうにかするだけ。そこまでの時間は十分にある。
踵を返す。茉莉が会釈しているのが見えた。
すすり泣く声が聞こえる。もう遅いんだよ。自分を中心に据えてしか物を見れなかった。その結果がこれなんだ。悔いて嚙み締めろ。
家を出て駅まで暑さも日差しも構わず早足で歩いて。あぁ、香澄に連絡しなきゃなと思い出して、それからもう一つ思い出す。
俺は、香澄の要求を、守れなかった。笑って送り出してもらえるようにする、できなかった。
香澄と関わるようになってから得たものを壊してしまう。そんな勝ち方をしてしまったと気づいた。
電車に揺られながら、バイトまでの時間を頭の中で計算しながら。戻ったって、こういうことだったんだなって。
「くくっ」
自分を嘲る。一人で動くと、結局こうなんだ。俺は。




