先輩、大丈夫です。
「ただいま戻りました」
呼び鈴を鳴らしてそう声をかけるけど……んー?
「香澄さん? 入りましょう?」
「ん? あー」
そうだよね、妹さんなら鍵持っててもおかしくないよね。
……なんか、もやっとした。なんでだ。
「って、なんですかこれ」
「あー、おかえり、二人とも」
先輩がソファーで冷えピタ張って横になっていた。その向こう。朝はなかった謎の巨大な箱が置いてある。
「これは?」
「防音室。さっき完成した」
「完成、って、作ったんですか?」
「組み立てただけだ。手間じゃない」
「センパイ、キーボードのセッティングオッケーです」
「サンキュ。さて、次は」
「その前に先輩、体温測っていいですか?」
「後でな。美玖、撮影はいつごろからいけそうだ?」
「いつでもいけますよ」
「なら、明日にでも……駅前だな、まずは。とりったーアカウントも開設して、ヨーチューブのアカウントも開設。それから事前告知。やることは多い」
「先輩!」
「悪い。心配をかけているのはわかっている。それでも今が一番大切なんだ。この時間を、一秒でも無駄にしたくないんだ」
「でも……恵理さん、恵理さんからも」
「無理だよ、カスミちゃん」
恵理さんの薄い微笑み。そこにあるのは諦めじゃない。呆れでもない。見守ろう、そう心に決めた覚悟。どうしてか、最後に会ったのは半年前な母のことを思い出した。
「今後の方針は追々決める。美玖、やりたいことがあったら教えてくれ」
「……考えておきます」
いつも通りの答えだけど、どうしてかいつもと違う気がした。なんかこう、腹を決めた人。やると決めた時の先輩と同じ顔をしている。兄妹だなと実感させられる。
「やりたい、こと……」
ほら、考え込むときの先輩の仕草、親指を顎に当てて、思考の海に沈んでいく。もう少しすればやっぱり、眉間に人差し指を当てて、目を閉じて。
そして先輩も。
「……うん。明日の……夕方。……17時半だな」
ニヒルに左唇を釣り上げて得意げに笑う。
「……はぁ」
「先輩! あ、熱い。もうっ。とりあえず水分とって、それから氷枕。冷えピタも変えないと」
「さ、作業が、まだ」
「私がやりますから! 何のために一緒にいると? 一緒に頑張ると言いました」
「それでも、俺が始めたことで、俺が言い出したことで」
「乗ると決めたのは、私ですから……今の先輩、全然凄味がないですよ」
「あ?」
「そんな弱弱しい雰囲気で意地を張られても、全然迫力がないです。ほら、休んでください、そんな情けない先輩はさっさと直してください」
「だが」
「大丈夫。大丈夫ですから」
先輩が信用できると言った数少ない大人を思い出す。その人のようになるにはどうしたら良いのだろう。
ちゃんと話したことない。見たことがあるだけ。でも、私はずっと、先輩のことは見てきた。先輩が嫌う大人を知っている。
落ち着きのある立ち姿、背筋をまっすぐに。そして表情を作る。目を見開き、口元を引き締める。あとは、言葉を多用しない。目をまっすぐに見る。手を握る。
そっか、言葉だけじゃないんだ。気持ちを伝える手段は。
「先輩」
ただ一言そう呼ぶ。伝わってほしい。私の本気。信じてほしい。
「香澄……」
先輩の手から力が抜けていくのがわかる。目がとろんと蕩けてそして。
信じてほしいと言って信じてもらえるほど甘いとは思っていない。そうだ、その通りだ。結果を示さなければいけない。だから。
「今は、任せてほしいです」
できることを、証明しなければいけない。
安らかな寝息を立てる先輩をそっと横たえる。
今は任せてくれたんだから。任せて目を閉じてくれたんだから。裏切らないように。
「美玖さん、早速ですが、撮影です!」
「えっ、あ、はい!」
目が覚めたら暗かった。傍らから聞こえる寝息のような音に目を向けるけど見えなくて。微かに聞こえる音楽は夕方に作り上げた防音室から。
体調はかなり良くなった。熱は下がっただろう。頭痛は完全に収まっている。
時間は……日付が変わって一時半か。作業を始めなければ。
意識を失う前の記憶はおぼろげだ。あんまり覚えていない。ただ、香澄と話をしていたことは覚えている。
「ん?」
テーブルに置いていたノートパソコンを開く。
「ん?」
とりったーアカウントの方に一本の見覚えのない動画が投稿されている。これは……美玖の手元。そこだけが映されている。聞こえる旋律は今まさに防音室の方から聞こえてくる音で。添えられている文は【予告動画】から始まり。『明日、あなたの時間と心を頂戴します』で締められていた。
同じ動画がヨーチューブにも投稿されていて。
「……ははっ」
すげーよ、やらなきゃなと考えていたことが終わっているじゃねぇか。いや、むしろ俺が想定していたよりも、ずっと良い。
当然だが、全然反応なんてない。後ろ盾も下地もないんだ。最初に広めてくれる超大型の母体があるような俺たちじゃない。手漕ぎボートで俺たちは荒波に挑むんだ。
「お兄様」
「あぁ、美玖」
「どうです?」
「すげぇよ。最高だよ……明日、頼むぞ」
「はい!」
もう今日だけど。
錨を上げろ、帆を張れ。
出航だ!
夕方の駅前は慌ただしい、お盆明けの仕事を終えたスーツ姿の人たちが行き交っている。
西口は一回駅ビルに入ってそこに入っているお店を眺めたり喫茶店で休んでから駅に向かう人が多い。
そしてその一階の一角にそのピアノがある。忘れ去られ風景の一部となり、ただのインテリアと化してもそれは静かに奏者を待っている。
そこにまっすぐに歩いていく、シンプルなデザインの白いドレスを着た少女。そのいで立ちに視線を向けられながらも意に介さず、待ち人のもとへ真っすぐに歩みを進める。
少女は静かに椅子に座り、鍵盤の蓋を開け、カバーを外し、そして。
付き人のように傍にいた香澄がカメラを構え、恵理がマイクを持ち上げる。
それを確認した少女は、その意思を確認するように一音鳴らす。満足げな笑みを浮かべ、それから……。
世界を塗り替える。日常の喧騒を塗りつぶす。カラフルに。




