先輩のいない日。
先輩がいないバイトはまぁ、大変だ。さっきから店長が走り回っている。
夏は飲料がとんでもなく売れる。人気のあるスポドリ関連、先輩が言うに、パンパンになるまで品出しした筈なのに一時間もすれば空っぽになるとか。
おかげでレジに。
「これってもうないですか?」とか「これ箱で欲しいんですけど」と問い合わせが来て店長呼び出して。と。
そんなわけで今。
「えっと……どこだ?」
バックヤードの段ボールの山。一番上、背伸びしなきゃ届かない。
レジから私が品出しに回された。パートのおばちゃんたちもほかの持ち場がある。飲料を担当している人はタイミング悪く休みらしいのだ。
身長低い自覚はあるけど、なんか、悔しい。
「むぅー、むぅー」
伸ばし切った腕では大した力が出なくて段ボールが引っ張れない。
「むぅ」
「大変そうだねぇ」
「き、木口さん」
レジサブチーフの木口さん、ゆるく笑いながらひょいと取ろうとしてた段ボールを下ろしてくれる。
「休憩終わりですか?」
「うん。レジ、空いてるの?」
「いえ、そういうわけではないですが、それでも売り場を放置するわけにもいかないので」
「なるほどね。有坂君いないからね」
先輩がいる日は先輩ありきのシフトになっている気がする。
自分の仕事を飄々とこなしながらレジも助けて社員さんの手伝いもして。先輩一人で三人分くらいの仕事をしているのではないだろうか。
「……うーん」
先輩の考え方、この数か月、ずっとそばで先輩が目の前の課題をどういう風に解決してきたのかを思い出して。
「先輩みたいになるには……」
「有坂君みたいに、ね。有坂君の存在は確かにありがたいけど、危ういんだよ」
「へ?」
「彼はアルバイト。他の店にも有坂君みたいな、いや、有坂君ほどじゃないけど、すごいアルバイトの子はいた。でもね、学生アルバイトっていつか絶対いなくなるのよ。そのことを忘れないようにしなきゃいけない。けれど上は経費を削りたい。人件費とか削れるなら削りたい。現状上手くいってるならそれをキープしろという」
先輩が三人分の働きをするなら、余計に二人雇わなくて良い。だって必要ないから。
「いつかいなくなる学生アルバイト、有坂君がこの仕事から離れても問題ないように後進を育てる時間を確保できないまま、有坂君がいなくなったら……ある意味、組織を壊すとも言えるんだよね、彼の存在は。まぁ、アルバイト一人いなくなったくらいで回らなくなる店なんて、潰れた方が良いよ」
「は、はぁ」
「だからまぁ、ゆるーくやりなよ、アルバイト。多分彼は普通にやって今の状況を作り出してる。君は無理に背伸びしなくていいよ。ただでさえ真面目過ぎるから、双葉さんは」
なんて、木口さんは緩く言って売り場に出ていく。
組織を壊す、か。図らずも自分の存在に依存させてしまう。そのせいで、自分がいなくなった後、様々な弊害が生まれてしまう。それは、誰が悪いのだろう。
見えている弊害を見ないふりするのが悪いのか。先輩が手加減しないのが悪いのか。
いや、考えるまでもない。見えているハードルを乗り越えない努力をしないのは、ただの甘えだ。
せっせと段ボールを運ぶ。重い。先輩、いつも軽々とこれを運んでいる。十箱も二十箱も。
いつだっただろう。そうだ、レジが暇すぎて先輩を手伝ったことがあった。その時も、商品の重さにひーひー言ってた気がする。そんな私に先輩は、空気を売るわけにいかないから頑張れ、と言っていたのを覚えている。
水一リットルが一キロだっただろうか。二リットルペット六本入っているこの箱は、十二キロか……そう考えると重いのか軽いのかよくわからなくなる。
「はぁ」
「香澄さん!」
「えっ、美玖さん?」
肩で息をしている。長い髪が少し乱れている。お兄さんが大好きなお淑やかな女の子という清楚な白ワンピース姿の少女は、一度深呼吸して息を整え、そして。
「バイト、何時までですか!」
「えっ、あー、あと一時間くらいかな」
「わかりました! 待ちます。一緒に来てほしいところがあるんです!」
「う、うん。わかった」
なんだろう、この子がそれほどまでに。それは素直な興味だ。この子がこんなにも情熱のこもった瞳をする理由。その目に映る景色を、隣で見たくなった。
「休憩室で待っててよ」
「はい」
腰と背中と二の腕が痛い。あと程よい眠気が頭をぼーっとさせる。あれだ、プールの授業の後の気分だ。プールといえば全身運動。箱を運ぶのってわりと全身運動なのだろうか。
「ふわぁ」
「すいません。お疲れなのに」
「気にしないでください。さて、どこ行きたいのですか?」
「結構近場です。駅前にあるんですよ。誰でも弾いて良いピアノ」
「へぇ。しらなかった」
「その……本番までに感覚を掴みたいので」
「いいですね」
その言葉通り、一回駅に入ってそれから向かった駅ビルの一階の隅、ポツンと置かれているグランドピアノ。普段使わない方の入り口で、あまり入ったことない建物だから、知らなかった。確かに、自由に演奏してくださいと書いてある。
「お兄様がダウンしている今、美玖に必要なのは、場慣れだと思うんです。お兄様が動けないからと、準備を怠る美玖ではありません。お兄様が頑張っているのに、たぶん、熱にうなされながらも考えているでしょう。なんなら、無理して準備しているでしょう。なら、美玖のやることは決まっています」
「……うん、そうだね! 私は何すればいい?」
「見ててください。見守っててください。……その、一人で来るの、怖かったので」
「わかった。いつでも、いつまでも付き合うから」
「お願いします!」
そして美玖さんは準備を始める。確かめるように鍵盤を押して。それから。
しっとりとした、どこか夢心地になるような、それでいてどうしてか、涙が出そうになる、そんな。
空にまで響くような、道行く人は歩みを止めてただ一点を見つめる。それから自ずと目を閉じて、一音も聞き逃すまいと呼吸すら忘れているように見えた。
揺さぶるように、染み込むように、一音一音に心があった。
どうして。どうして彼女から取り上げたんだ。こんなにも、こんなにも……!
「香澄さん? 大丈夫ですか。あ、ハンカチ、使ってください」
気がつけば曲が終わっていて、不規則な、けれどみんなが讃えているのがわかる拍
手が鳴り響ていて。私も無意識のうちにぱちぱちと手を叩いていた。
「あれ……なんで」
「そんなに良かったですか? 美玖の演奏」
「はい、とても」
奪わせたらだめだ。
私は誓う。絶対に成功させよう。
美玖さんを、解き放つんだ。自由に。




