先輩は一人じゃありませんから。
「美玖ちゃん」
「なんでしょう? 南さん」
「ううん。何してんのかなって。指をトントン」
「あぁ……癖のようなものですね」
「クセ?」
「お行儀が悪かったですね、少し気が抜けてました」
起きたらカスミちゃんがいなくて、のそっと起きて来た美玖ちゃん。椅子に座るとテーブルの上でトントン指が軽やかに踊った。
ピアノやってたとは聞いているけど。うーん。
「聞いてみたいかも」
「何がです?」
「美玖ちゃん、音楽してたんでしょ?」
「え、えぇ」
「それ、聞いてみたいなぁって」
「なるほど。あまり良い物ではありませんよ。やめさせられましたし」
「やめさせられた?」
「えぇ。母に。才能が無いならもう良いと」
「そう、なんだ」
にへらと笑う美玖ちゃん。
でも、そこに憎しみなんてなくて。
あ、この子、同じだ。
実の親にどんな感情を向ければ良いか、わからないんだ。
……もう初盆なのに。
窓の外、真夏の空気の匂い、整えられた空調では感じられないけど。
「……学校、行きましょうか、明日」
「え?」
「ピアノ、借りれますし」
「う、うん!」
理事長に顔を通す。どうしてか中等部の生徒指導室を指定されたが。丁度良く道案内できる奴いるから、良いや。
朝、駅前で香澄と美玖と合流したのだが。
「いや、恵理までどうした」
「美玖ちゃんと約束したんだよねぇ。そうじゃなくても一人だけお留守番は寂しいよっ」
「ふぅん」
炎天下で制服。正直暑い。サウナスーツでも着てる気分だ。着たことないけど。
今あまり恵理と顔合わせるのは……『だーいすきっ、ですよ』の言葉が頭にこびりついたように離れない。響く。
「はぁ」
「お兄様、少し、肉がつきましたね」
「あ?」
「制服姿で見て改めて実感して安心しました。ちゃんと食べてるようで何よりです。双葉さんと南さんのおかげですね」
「美玖さん? 呼び方、どうして戻すのです?」
「……素面だと恥ずかしい、です。お兄様の前で」
「えぇ、俺のせい?」
「そうは言ってないです。呼んでやりますとも、美玖、香澄さんと呼んでみせますとも」
なんかテンションおかしいな。変な緊張してるか?
「それは良いのだが、恵理と美玖の用事ってなんだ?」
「中等部の音楽室です」
「ふぅん」
中等部。行ったことはない。所謂外部入学組である俺に、わざわざ行く用事なんて無い。
だからこの学校にて、俺の中学生時代を知っているのはそれこそ妹の美玖くらい。誰も俺と同じ高校に行きたがらなかった。
中学三年の半分も終わる頃には、俺に敵対する奴の心をへし折ることは完了していた。
徹底的に追い詰め、叩き潰して。
「なーにしてんだ?」
隣からそんな声と共に自転車の少し甲高いブレーキ音が聞こえて目を向ける。
「あぁ、飯田か。練習か?」
「いんや、練習試合の帰り。お前らは?」
入学して、一年は大して変わらず、二年生になって俺に関わるようになった奴。
こうして道端でも気さくに俺に話しかけてくる奇特な奴。友達なんて山ほどいるだろうに。
「……ちょっとな。理事長と中等部に用事ある」
「おぉ、なら丁度良い、今日理事長、中等部の部活連の会合を視察するってよ」
「……そんなことまでしてんのか」
「あぁ、昨日は俺らの会合の方を視察してたからな」
「へぇ」
「やりづらかったぜ、まったく」
だから中等部の生徒指導室に来いと。
光道学園の敷地に入り、さらに歩く。あまりうろちょろしたことはなかったから存在は知っていたがあまりじっくり見たことは無い建物は隣接して一部施設を共有している大学。さらにその向こう側の中等部。
「高等部より若干古いんだな」
「トイレは美玖が入学した年に改装しましたよ」
「それは良いな」
「わかる」
「女子生徒の大半は中等部のトイレが改装されるまでキャンパスまで走ってました」
「あぁ、香澄って内部進学組か」
「言ってませんでしたね」
「新入生代表だったのに?」
「一応、内部進学組も同じテスト受けるんですよ。進学自体は決まってるので、ほとんどの生徒はあまり真面目に受けませんが」
「カスミちゃんは本気だったと」
「えぇ、まぁ。テストと言われるとどうにも」
昇降口から入って階段を上がって最上階へ。途中職員室に寄って鍵だけ借りる。驚いたのは俺と香澄の名前が中等部の先生にも通っていることだった。
今の中学三年生向けに、先輩から進学に際してのアドバイスをする講演会に呼ぶことを考えていると言われた。
本当に呼ばれたとして、何を話せば良いのかだが。
結果だけは立派でも、俺という人は誇るべきでも、尊敬されるべきでもない。
音楽室は蒸し暑かった。エアコンをかけ始めたようで、少しの我慢だとは思うが。
「ではでは、南さん」
「この際、恵理で良いよ」
「では、コホン……あー。え、え、えり、さん。恵理さん!」
「わー、よくできました」
美玖の目は真っ直ぐにグランドピアノに向いた。その姿に内に燻る炎のようなものが見えて、そして。
「……では、一曲」
感覚を確かめるように鍵盤を一音一音丁寧に、でも力強く押して。次の瞬間。世界が変わった。鮮やかに、カラフルになった。自分が見ていた世界がモノクロだったかのかと思わされる。
記憶にある美玖の演奏よりも伸びやかで、どこまでも飛んで行ってしまいそうな。
正直、音楽の良し悪しも巧拙も俺にはわからない。
ただ、言えることは。
美玖は今の方が、輝いて見える。。
「いやぁ、見事だ」
曲が終わったことに気づいたのは、扉が開いたからだ。
「理事長」
「しばらく見ない間に随分と上手くなったではないか」
音楽室に入って来て、真っ直ぐに美玖に目を向けて、
「純粋に楽しかったのではないか?」
「は、はい」
「プレッシャーに押しつぶされそうになりながら磨き上げた技術を存分に用いて、伸びやかに表現して見せたな。ブランクがある分、当然前よりも上手いとは言えないが、それでも何も可能性が無いわけではない。恐らく、今の演奏の方が好きというものも多いだろうさ」
理事長はそう評した。
「しかしながら有坂家のご令嬢と後継者候補が揃い踏みか……なるほど、そういうことか」
この人はどこまで見えいているのだろうか。なにやら納得した様子で頷いて。
「この日本には敵に回してはいけない存在と言われたらとりあえず三つ上がるだろう。わかるかな、有坂晃成君」
「朝倉製薬を中心に様々な企業を経営する朝倉家。あとは理事長。あなただ」
「もう一つは?」
「有坂家」
「その通りだ。わかっているのなら。良いな? 私とて、銀行と司法を同時に敵に回して生き残るのは無理だ。私はまだ、倒れるわけにはいかないのだ……子どもたちのために」
「そんな不都合を被らせる気はありません」
「だが、君が一歩間違えればそうなるだろう」
「間違えません。俺はもう」
「ガキだよ、まだ君は。無理をするな。急に大人になれるような子どもは早々いない。君が優秀だからといきなり多くを、例えば大人としての責任を求めるようなことはしない。少しずつ大人になれば良い。教師として、一人の大人として失敗は支える。だから」
「すいません。立ち止まる気は無いんです」
「……ならば、結果を示せ」
「わかっています」
「本当にわかっているのか? 君がやろうとしていること、その責任。君が一人で背負いきれるもので無いこと」
「それでも、俺には進む選択肢を選ぶ。他はありません。全てを賭けなければ、掴めないとわかっていても。それでも俺は」
「……君の覚悟はわかった。だが、結果で示して見せなければ」
「わかっています」
「……ふん。予想はしていたという顔だな。気に食わんが良いだろう。黙認という形にしておく。好きにしろ」
「はい」
逃げられなくなった。頭を下げたと同時に直感した。逃げるつもりはなくても、後ろにあったつり橋を切り落としたという実感に腹の底が少し冷えた気がする。
理事長が出て行ったのも、一瞬気づかなかったくらいに。手が何かに包まれて俺はようやく頭を上げて。
「先輩」
「どうした? 香澄」
「私も、一緒ですから!」
「う、おう」
「一緒、ですから! 私も、逃げませんから……先輩は、一人じゃないんです!」
澄み切った瞳を向けられる。
俺は、なんて言葉を返せば良いのだろう。
傍にいてくれと言ったのは俺で、守ると言ったのは俺だ。けれど今。香澄の方から一緒にいるって。理事長との会話、理事長の言葉が本気だとわからない香澄じゃないはずなのに。
「あぁ」
頭の中に色々な言葉が駆け巡る。けれど、それら一つ一つどかしていった先。そこにあるのはそこにあるのは、温かい感情。俺は。
「あり、がとう」
嬉しいとか、思っているんだ。




