先輩と朝の時間。
外が明るくなったことに気づいて起きると、香澄が台所でパタパタと朝食を作っていた。すっかり手慣れて手付きに迷いが見られない。たゆまず努力をしていることが見て取れる。
「おはよう」
「おはようございます。すいません、昨日寝てしまったようで」
「良いさ。ありがとう」
コンロの火を止めてフライパンから皿に移される目玉焼き。振り返ると香澄はどこか悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「それは昨日聞かせていただきました」
「ん? おう、あらた、めて……? ん?」
「起きてました。実は。微睡んで半分起きているって感じでしたが」
「……おう。悪い、勝手に」
「好きにして良いって、言った覚えありますよ」
そう言って頭を指差す。
「好きですねぇ」
「……なんか恵理が移ってないか」
「どうでしょうね」
そろそろ恵理も美玖も起こした方が良いだろう。目を向けた先のソファー、恵理が抱き枕になってる。少し苦し気に見える恵理に対して、美玖の寝顔は安らかだ。
「……美玖さんのこと」
「ん?」
「美玖さんに施された教育。……娯楽を取り上げる、でしたっけ」
「あぁ」
「先輩は、どう思うんですか」
「どう、か。あの母親が言うに、娯楽なんて、教養が無い人には無用の長物ってことらしい、あるいは、知性の無い者にとっては余計な俗物」
つまり、あの母親にとって美玖は、最低限の知性も教養も無い扱いだ。
美玖は、俺に無い者を持っている。だけど美玖の持っている者は母親にとっては無価値だ。
「先輩は、反対なんですね」
「完全に反対はしない。勿論、娯楽を楽しむのには知性は必要さ。でも、それが娯楽を取り上げる理由にはならない。傲慢な自称知識人の勝手な言い分だ」
それに、世に溢れる名作、例を上げるなら隣の……とか千と……の神隠しとか、風の谷の……とか、子どもが見ても楽しめるし。何も考えずに眺めていても良い作品だと思える。
けれど、成長して色々勉強して、いざ腰を据えて見ると、もしかしてこの描写ってそういう意味なのでは? とか。これはあれのオマージュでもあるのか、とか。そういう気づきを得られる。それは一定の教養があってこそだ。そういう、どの年齢層でも楽しめるような作品が真の名作というのではないのだろうかと俺は思う。
「なるほど。だから部分的に反対と」
「そういうことだ。娯楽文化だって、教養ある上流階級ばかりで発展したものしか無いわけじゃない。様々な階級様々なところから生まれて来た」
そう言った先輩の目は窓の外に向いた。
「何かを奪うことを選ぶこと自体は簡単さ。例えば俺は今、香澄の自由を奪って尊厳を踏みにじって、獣欲を満たすようなことだって可能だろう。なぜそれをしないか」
「先輩に欲が無いから」
「いや俺だって男子高校生……じゃなくて。」
いや、何だそのジトっとした目は。俺に欲があるならとっくに襲ってますよねって目。
そんな勇気、あるわけがない。香澄はきれいで。それ汚すなんて。
いや、何を考えているんだ。全く。
「そんなこと、今はどうでも良い。……なぜそれをしないのか。それが良識って奴だろ。相手を尊重するということ。相手にも意思や思想、尊厳があるということ。君が教えてくれたことだ。それに則るのなら。こうなる」
「……先輩」
「……俺さ、中学の頃は本気で、全ての人が教養を身に付け、馬鹿がいなくなれば、世界は平和になるって本気で信じててさ。だから、勉強をしない奴は平和を乱す悪だと思っていた」
俺の中で、馬鹿は淘汰するべき存在だった。
「今振り返っても危険思想だよなぁ、淘汰されるべきはどっちなのやら」
「……何が、先輩を変えたのですか?」
「気づいたんだよ。何も変わらないって。教養を身に付けたところで。変わらない。争うこと自体は変わらない。知性だけじゃダメなんだよ。まだまだ必要なことがある。香澄、君がそれを教えてくれたんだ」
俺の中に引っ掛かっていたこと、そうだ。香澄。
君のおかげで、他にも道があるのではないかと思えたんだ。
「……そろそろ二人起こすか。朝食を食べたらお風呂に入ると良い」
「え、匂います?」
「いや、でもシャワーは浴びたいだろ」
「そ、そうですね。では、後で借ります」




