先輩、やり遂げましたよ。
有坂美玖にとって有坂晃成は尊敬すべき兄だ。
芸術系を除けば大抵のことはできてしまう。そんな兄だ。
中途半端な自分とは違う。兄のようにできない自分は兄のために有坂家の人形となるしかない。それがきっと、世のためになる。
自分の意思を持たない。欲を持たない。希望を持たない。人形になることを選んだ自分に施された教育はこう。
娯楽を取り上げられ、教育は一般教養程度。危険からは徹底的に切り離された。弱く都合の良い人間の出来上がりだ。
有坂家の誤算は有坂美玖が有坂晃成の妹であること。
あの有坂晃成の妹が、そう簡単に染まり切るわけが無いのだ。
有坂美玖にだって、有坂晃成みたいになろうと頑張った時期があり、頻繁に教えを請うていた。取り上げようにも取り上げられられないものもある。
自分で学び取り会得したものを、誰かが奪うことなんてできないのだ。
有坂晃成のようにあろうとした有坂美玖の精神性、簡単に潰れる筈がない。
強くあろうとする兄の姿を見続け、自分もそうあろうと志ていた人間に、弱くあれと教え込むことが簡単に上手くいくはずが無かったのだ。
「やっと、本音が聞けました」
「! あっ」
ここからだ。やっと仮面を剥がせたんだ。
誠意をもって。人と関わる。誠意を示す。正面から。真正面から。
「美玖さん。あなたの願いを、叶えさせてください」
「どうして。どうやって」
「美玖さんが友達だからです。美玖さんも、私を友達と認めてくれました」
「そ、それは」
「どうやってという部分に関しては、私の先輩は、あなたのお兄さんは、誰よりも頼りになる人ですから」
「お兄様が? お兄様が、美玖を?」
「はい。そのためにずっと頑張ってたんです。あなたのお兄さんは」
「お兄様……?」
美玖の瞳は濡れていた。いつも淡く微笑んでる美玖の顔は、何かを堪えるように歪んでいた。
俺は頷く、美玖の眼差しに頷くことで応える。
「俺は、美玖に聞きたかった。美玖の望み」
「美玖の……」
「俺は、美玖を、あの家から連れ出したいと思っている。手始めに……夏祭り……」
なんで言葉を詰まらせるんだ。俺は。どうして。
言い切れ、夏祭り、一緒に行こうって。
「美玖さん」
「はい」
「夏祭り。一緒に行きませんか? 一緒に屋台巡って、それから、花火」
香澄は真っ直ぐに相手の心に、美玖の心に手を伸ばす。飛び込む。
「美玖と」
「はい、その前に一緒にお食事したいんですけど」
美玖は頷く。
「一緒に、どうですか?」
美玖はただ頷く、静かに。言葉は無い。目を閉じて。頷く。
「……香澄さん。友達、美玖と……一緒に」
香澄が伸ばした手。それを美玖は握った。
この時決まった。
ここからは、俺が頑張る番だと。
美玖を連れ帰り一緒に夕飯を食べた。俺は母親にメールを一通、美玖はこちらで預かる旨を伝えた。
これで俺が用意する交渉のテーブルに着くしか向こうは無くなる。美玖を手放したくはないだろう。都合の良いお人形さんだ。
予定を少し前倒しだ。
リビングには恵理と香澄、美玖が並んでソファーで眠っている。さっきまで人生ゲームをしていた。
強引な手に出ても対処できる。奴らの選択肢は俺と交渉すること。それだけ。
大丈夫だ。何年も考えていたことなんだから。
「来たか」
電話だ。
「もしもし?」
『どういうつもり。うちに反抗すると言うの?』
聞こえて来た母親の声は問い詰めるような、自分の意見を通すしかない。こっちの事情なんて聞く気の無い。何も変わらない。そんな声。
「そうだよ。先に言っておく。美玖は俺が引き取る」
「何で!」
「説明してもあんたにはわからないよ」
だから、敗北感だけ味わってもらう。
まだワーワーと喚く声が聞こえたが、俺は電話を切った。
熱い闘志なんていらない。必要なのは、冷たい殺意。
仮にも親に反抗するんだ。氷のように冷えなければ、情なんて持つ暇ない。元々、欠片も持ってないけどさ。
そっと手を伸ばした先に香澄の頭。そっと撫でる。絡まるところの無い。ふわふわとサラサラを同時に堪能する。
「ありがとう」
やり遂げてくれた。求めていたことを。
俺がこの子に返せること。あまり思いつかないけど、これだけはと思うことがある。
損しそうな生き方、疲れそうな人との関わり方を選ぼうとするこの子が、報われるように。後悔しないように。絶望しないように。
だからまず、否定する。図太い奴ばかりが良い思いをするようなことは。




