先輩。なんか戻りました?
常々俺は、直感というものを大切にしなければいけないと考えている。将棋界に君臨する偉大なる棋士も直感の大切さを説いている。
パッと浮かんだ答えほど、論理的検証をした時、正しいことが多い。計算機が入力された数字と演算記号で瞬時に答えを表示するように。当然の摂理として導き出す。検討しなければいけない事象が少し複雑なだけで、根本の理屈は同じなのだ。
それは積み重ねてきた経験と、何度も使ってきた思考回路だからこそ為せること。
観察、分析、整理、理解、思考回路の構築、思考、仮説、検証、反証、再検証、結論。この流れを無意識のうちに一瞬で行う。それが直感。
あとは当人がそれを信じられるかどうか。自分の中にある演算装置を。
さて、俺は今回、頭の中に響く声。恵理の声。『だーいすき、ですよっ!』という声。ずっと残っている。これとどう向き合えば良いのか。
最近、こんなことばかりだ。自分の未熟さを認識させられる事ばかり。俺は本当に、天才と名乗れるのだろうか。
自身の人間関係に対する経験の少なさに呆れさせられる。
惚れた晴れた告る振るなんて無縁の世界で生きて来た。
いや、好意を抱かれたことが無いわけではない。噂で聞いたことがあるだけだ。でも、実際に言って来た人なんていたことが無い。
要はあれだ。参考にすべき過去のデータが無いから俺が普段頼りにしている直感が働かない。
今こうして、店内で喧嘩をおっぱじめたおっさんたちを御する方がまだ簡単である。
「一旦双方の主張を整理したいので、香澄、店長とそちらの方を頼む。俺はこちらの方のお話を聞く」
とりあえず喧嘩を止める時はその場から離す、相手から離す。要は冷静になる機会を作ることが大切なのだ。
まぁ問題は、俺と香澄は買い物しに来ただけであって、勤務時間では無いのだ。だがまぁ。
俺も冷静になる時間が欲しかったのだ。
「だからよ、あいつが俺の停めようとしていた場所に割り込んできたんだっての」
「? 車を、ですか? 駐車場で」
「あぁ。そんで追いかけて文句言ってやろうと……」
「あぁ、それで」
「あいつは早いもん勝ちだって。こっちは遠いところに停めさせられたのによ」
「それであなたの方から胸倉を掴んでしまったと」
「まぁ、そういうことだ」
そう言いながら手首を摩る。咄嗟に俺が手首を捻り上げて抑え込んでしまったからな。反省。
暴力というコスパ最悪の手段に頼ってしまった時点で、交渉というフェーズは失敗している。
さて、どうする。双方が納得する方法。
……俺の考え方も随分と甘くなったものだ。納得よりも両成敗でどっちも叩き潰した方が楽だろう。いや、それよりも目の前のこいつを泣き寝入りさせるのが一番手っ取り早い。
そう例えば。
「ちょっと、卵落として割っちゃったから交換してよ」
と、普段着だけど多分やっていることから俺も店員だと判断したのだろう、高齢の女性がレシートを見せながら声をかけて来たのだ。
「現在こちらのお客様の対応中です。横入りはご遠慮ください。それと、ご自身で落とされたのでしたらご自身が責任を持って処理してください」
他の店員なら交換したのだろう。だが俺はこういう、頼めば許してくれるでしょという姿勢はどうにも駄目なんだ。母親を思い出すから。
「なによ、サービスしてくれないの?」
「あなたが要求しているのはサービスではなくただの奉仕。そして、あなたがやっていること自体はただの恐喝ですよ。何でしたら今対応している事件のついでに然るべき機関に相談してもよろしいのですが」
顔を歪め、鼻を鳴らしてすごすごと立ち去る客を見送り、目の前の男性と向き合う。
……そうだ。冷たくなれ。甘さを許すな。それが俺の強さだ。
美玖をあの家から引っ張り出すために身に付けた強さなんだ。
容赦をするな。散りも残すな、再起の可能性を見逃さず潰せ。
封殺しろ、圧殺しろ。
「そうですね。では。お客様、どちらにせよお客様の胸倉を掴むという対応は問題がありました。立派な暴行です」
「そ、そうだけどよ」
「例外はありません。お客様から胸倉を掴んだというのはあなた自身が認めた立派な事実です。目撃者も多数いらっしゃいます」
「それがなんだと言うんだ」
「お客様、あなたが行なったことはただの……」
「せいっ!」
「ぐあ」
「申し訳ありません。あとは私の方で対応させていただきます」
パシッと後頭部を甲高く叩かれ横を見る。俺の横で頭を下げていたのは山辺チーフだった。
ポケットに手が突っ込まれた感覚、そしてポンと背中を押された方向、そこにいたのは香澄たち。
「店長が、後は大丈夫だって」
「あ、あぁ」
山辺チーフが手を突っ込んだポケット、そこには紙が一枚入ってて。『悪いくせもどってる』と書いてあって。
「悪い、くせ」
いや、俺は……。
「先輩?」
「ん?」
「なんか、目が」
「目?」
「えぇ、その……上手く言えないのですが。先輩の目とか。雰囲気が……戻ったような」
「戻った?」
「……上手く言えません。すいません」
ペコっと頭を下げた香澄。先に材料を集めに向かわせた恵理と美玖を探す。その間も、心配そうな瞳が横から向けられるのを感じる。
……香澄に心配はかけられない。戻ったと言うのがよくわからないが。
「はぁ」
俺はこの何か月かで何が変わったのだろう。
自分の行動を批評してくる自分の声に耳を傾けても、何も返ってこない。
俺はちゃんとできているのか、わからない。




