先輩の昔話。
思い出すのは私がまだ小学生の頃。お兄様がまだ中学生で、家にいた頃。
「お兄様、お風呂が空きましたよ」
「……あぁ」
お兄様はタオルを頭に乗せ、庭のテーブルに置いていた本を開き、そのまま家に入っていく。一秒たりとも無駄にしたくない、そんな様子だ。
学ぶために生まれて来た。勉強することは呼吸。自分を高めることは本能。
「お兄様はどうしてそこまで勉強するのですか」
「……俺が、俺であるためにだ」
お兄様は暇さえあれば身体を鍛えるか勉強するか。運動に疲れたら勉強して、体力が回復したら身体を鍛え、そんな日々。
母は優秀なお兄様を、それはもう、誇らしい存在として大切にし、その病的なまでの向上心に最初は非常に協力的でした。
「最初は?」
「はい、最初は、です。母と兄は、少しずつ、喧嘩することが増えていきました」
「どうして」
「何と言いますか、話が噛み合わなくなってきたと言いますか。それに先に気づいたお兄様は少しずつ母を当てにしなくなり、それでも構おうとする母とすれ違い始めて」
「話が噛み合わない?」
「はい、その……何と言いますか。お兄様の話って、たまに難しくないですか?」
「……んー?」
どうだろう。先輩の話を理解できないと思ったことはない。
きょとんと首を傾げる私に、美玖さんはやれやれと手を上げる。
「お兄様の考えること、話すことは、母にとって難しかったんです。それでも見栄を張ってわかったふりをして、的外れなことをさも正しいことを言う。それをお兄様は容赦なく指摘する。理解できない母はそれに噛みついて、丁寧に説明しようとしても自分の間違いを認められない人なので、母は」
そうなれば、当然、会話は破綻する。
「兄は、人に期待しなくなりました。自分を産んだ存在である母ですら、自分についてこれない。自分の立っている視点にいないと、理解してしまったから」
……親すら守ってくれない。自分を守れる存在ではない。そう認識してしまったら。……私は……。
「それから兄は、より孤独を深めていきました。元々、人間関係に対しては不器用な人でしたから。文字通り孤高。いじめようにも強すぎていじめられない存在。足を引っ張ろうにも先を行き過ぎて手が届かない。そんな存在。誰も助けてくれない。誰も傍にいてくれない。だから、一人で強く無ければいけない。全部自分でやれば良い。兄は、多分、そう考えるようになったんだと思います」
全部自分で。自分、一人で。でもそれは、自分が失敗すればそれで終わってしまう。後ろには引けない。常に背水の陣。そんな生き方。
綱渡り過ぎる。落ちても、誰かが手を伸ばすことを期待しないなんて。
「でも、美玖さんは、お兄さんのこと……先輩のこと」
「愛していますよ。誰よりも。何よりも。優しくしてくれました。大事にしてくれました。あの家を出るまで、ずっと。でなければ、会いにきませんもの」
年相応の少女の笑み。穢れを知らない純真さ。その言葉に偽りは無いのがよくわかる。
「話すとは言いましたが、美玖の知っていることはこのくらいです」
「……お二人のお父様って、どんな人なのですか」
「会ったことありませんよ。美玖もお兄様も」
「えっ」
「生きていることだけは知っています。さてさて。そろそろお兄様に事情を聴きましょうか」
そう言って美玖さんが視線を向けた先。先輩の部屋の扉。のそっと出てくる見慣れた顔。
「さて、美玖。要するに俺と香澄は恋愛関係ではない。ただまぁ、なんだ。色々あったんだ。香澄は……大切な存在ではある」
「そうですか……良かったですよ。お兄様にとって対等だと思える人と出会えて」
「あぁ」
「すいません。邪推したようになってしまい」
「いや、良い。誤解するのも無理はない」
美玖はニマニマと笑い台所に立つ。
「では、昨日のリベンジです。お兄様は言っていました。難しいことは反復練習。手が迷いなく動くまでやるべしと」
「その通りだ」
「いざ!」
「張り切るのは良いが振り上げるな!」
先輩と美玖さんの台所に立つ後ろ姿。それは確かに、兄妹の姿。美玖さんに向ける先輩の顔は、柔らかい。
ふと、私に向ける先輩の顔はどんなものなのだろうと考えて、。思い出そうとしてみたけど上手く頭の中に浮かんでこなくて気づく。
最近、私、先輩の顔を真っ直ぐに見ること、出来ていないと。
「あっ」
そうだ私は、先輩がちゃんと朝ご飯を食べるようにと来たんだ。
「私が作るので二人は座っていてください!」
さて。この事態にいい加減対処しよう。
あの母親に連絡はするべきだろう。ただ、
「……はぁ」
今美玖は、夏休みの宿題を香澄に見てもらっている。仲が良いのは良い。だが、このままではいられないのも事実。このマンションに美玖が住むこと自体は俺から見れば問題は無い。だが、そうはいかない事情もある。
うちは多分、面倒な部類に入る家だ。
高校生一人をそこそこのマンションに住まわせる家と言えばわかるだろう。当然、しがらみも多い。俺はそのほとんどを現状、美玖に押し付けてしまっている。
例えば、美玖には十八になったら結婚する予定の許嫁がいる。進学先も決まっている。大学にはいけない。
俺はこの現状を変えたいと考えているが、それが相当に難しいことだとも理解している。
そもそも、美玖の本音がわからない。このままで良いと思っているのか、本当は嫌だと思っているのか。
美玖は器量よしだし、教えればちゃんとできる子。地頭も良い方だと思う。気遣いもできる。色んな可能性をきっと秘めている。だから。
「? どうした」
「先輩、ずっとむすっと黙っているので。妹さん取られて寂しいですか?」
「そういうわけではないが」
目の前でジッと見上げてくる香澄。……いや、スゲー見てくるな。どうした。
「なら、そんなところに立っていないで、座ってください」
「あ、あぁ」
まずは連絡……いや。そうか。冷静に考えろ、あの母親の性格を。過保護過干渉を普通のこととして行う親だ。一晩経って何も起きていないことがおかしい。大方、スマホに何かしらの監視アプリを入れているだろう。つまり、この家に美玖がいることは既に察知済み、か。
なら、この件は何を以て解決とすれば良いのだろう。このまま家に帰してハイ終わり、で良いのだろうか。……何かしらの布石は打ちたいな。
美玖をあの家から解放する。それが俺の、罪滅ぼし。だから。
「君達、出かけないか?」
「どこにですか?」
「美玖は行きたいところあるか」
「行きたいところ、ですか?」
香澄に目配せ。それだけで意図を察してくれたようだ。
「美玖さん、何か趣味や興味あることとかありますか?」
「……そうですねぇ」
首を傾げる美玖。
「んー。あっ、では、お兄様が好きだった……」
「俺が好きなところじゃなくて、美玖の好きなところに行こうと思っているのだが」
「あー……あはは」
美玖は笑って明後日の方向に目を向ける。
「……あー。あー。あぁーああああ」
「あれ、美玖さん? どうかしました?」
「バグったか」
「え?」
「思考が許容量超えるとしばらく動かなくなる。……やっぱり変わってないんだな、あの家は」
「かわって、ない?」
「美玖には、好きなものも嫌いなものも無い。趣味も無い」
これが、ある時から背負ってしまった俺の罪。
俺は傍にいながら気づかず、逃げてしまったんだ。
今からこの失敗を取り返せるかは、わからない。




