センパイ、ありがとね。
「……先輩が悪い笑みを浮かべてる」
「やかましい」
並んで蒸し暑い廊下を歩く。さっさと外に出よう。多分外の方が涼しい。
「しかしながら、恵理、うちのスーパー、やめることになるだろうな」
「そうですね」
うちの学校からスーパーおーうめはお世辞にも通いやすいとは言えない。このままいけば恵理はマンション近くの定食屋でバイトだろう。
二人で学校を出る。用事は終わりだ。今日で一番の難関を突破できたと言える。
理事長にも、朝野弁護士からの根回しが行くだろう。なら。
「まぁ、生徒会での結果も、職員会議の結果も、九月中には出るだろ」
「ですね。そういえば、お父さんに聞いてみたんです。恵理さんの後見人さんのこと」
「朝野弁護士?」
「はい。とっても評判良かったです。若いながら優秀で、人格も評価できると」
「まぁ、だろうな」
「だろうな?」
「俺が尊敬する大人、暫定一位だ」
「そ、そこまで」
「あぁ。なんか、あの人と話してると、視野が広がる気がしてな」
ふと、今、やるべきことを思い出した気がする。
それはそう、いつか話した、有耶無耶になっていること。
俺が、香澄をどう思っているか。
目を閉じて、開いて。
「……まとまらん」
頭の中に響く、色んな声が声高に主張を述べる。
まだその時じゃない。結論付ける。俺はまた、先送りを選ぶ。
「昼飯食って帰るか」
「何食べますか!」
「急にテンション上がるな……適当に冷たいもの食って帰るだけだよ」
「あ、じゃあ、あれ食べてみたいです。冷やしラーメン」
「はいはい」
どっかの県で夏によく食べられるってあれか。ここら辺でも食べられるんだな。
夏でも暑いけどラーメン食べたいという執念を感じる。
その日の夕方のことだ。
香澄を家まで送ってから帰って、一人で家で本を読んでいた。
「……そろそろ晩飯のこと考えないとな」
何にしよう。なんかあったかな、冷蔵庫。
「……んん?」
あぁ、そっか。外泊するから冷蔵庫をなるべく空にして、それからは恵理のことでてんやわんやで、適当に買って済ませるばかりで。
要は、飲み物くらいしか入っていない。
「……買いに行くのも面倒だ」
寝るか。明日の俺に任せる。カップ麺という気分でもない。
その時だった。呼び鈴が鳴った。
「ん?」
回覧板ならいつも郵便受けにツッコんでくれる良い人なのだが。宅配便を頼んだ覚えもない。
覗き窓から相手を探る……えっ。
「どうもどうもー、せんぱーい、お泊りにきました。カスミちゃんも一緒―でーす」
「お、お邪魔します」
「……なぜ」
「お夕飯ですよ。一緒に食べませんか?」
「それは良いんだが、泊りって、無いぞ、部屋」
そう言うと恵理はニッと笑みを作り。
「良いですよ~ 寝袋持って来たので、リビングでスヤァしますから」
「あぁ、そう……」
「ふふん」
満足気に鼻を鳴らす恵理と、申し訳なさそうに縮こまりながら入ってくる、何とも対照的な二人。足して二で割れ。
「センパイの部屋~ここだっ! とりあえずベッドの下から」
「とりあえずで何を探そうとしているんだ」
「そりゃあ、男子高校生なら一つや二つ隠し持ってるものですよ」
「恵理さん、今時デジタルでは?」
「いやいや、それだけじゃないでしょ。そっちはデジタルで済んでもオ……」
「おめぇ何を言おうとしてんだ! というか無いからそんなもの!」
「……先輩が全力でツッコんでる」
「あはははは。じゃあお夕飯の支度始めますねぇ」
何だろう、凄く手玉に取られて遊ばれた気分だ。
「何作るんだ。手伝うぞ」
「良いですよ。遊びに来たのがメインの目的ですけど、センパイに、少しでも恩返ししたいのもありますし」
「恩返しって……気にすんな。約束を果たそうとしただけだ」
「それでも。感謝しているこの気持ちを、誤魔化したくありませんから。センパイ、中華は好きですか?」
「好きだな」
「なら良かったです。今日は中華三昧でいきましょう」
「何を作るんだ?」
「とりあえず麻婆豆腐ですね。餃子も包んでは来ましたし、冷ごはん持って来たので炒飯も作ります。あとは適当に中華風スープですかねぇ。リクエストあります?」
「ないな。十分」
「ではこのままサクッと作ってしまいましょう。中華は火力と手際が命ですから」
「はぁ……そういえば松江さんもそんなことを。本気で作ろうとすると家庭用コンロの火力じゃ足りないと言っていました。うちのコンロ、高温になると自動で火力下げる機能があるんですけど、それが働くと舌打ちするんですよ」
「ははっ」
よく聞く話だ。べちゃっとした仕上がりにならないように一気に水分飛ばして、かつ、焦がさないようにとなると、そういうのが求められるのだろう。
「じゃあ、あとはお任せあれ!」
ひとしきり食べて、主に恵理が騒いで俺達はそれに乗って。でもまぁ。意外と楽しかった。
今は香澄が風呂に入っている。マジで泊っていく気のようだ。
食器を洗い終えた恵理がリビングのソファー、今俺が座っている隣に腰を下ろして。
「美味しかったですか?」
「あぁ。食べながら言った通りだ」
「それは良かったです。……センパイ、本当に、感謝、してるんですよ」
「そう、か」
「本当ですから。センパイのおかげで、あたし、これからも学校通えて、しかも、自分で生活するための基盤まで作ってくれて」
「気にするな。これくらいだ、俺のできることは」
「……本当、センパイに何されても良いくらい、感謝、してるんです」
「何言ってるんだか」
「本気ですよ。とりあえず揉んどきます?」
「君はその手のネタを口にすることに対して躊躇いが無さ過ぎるよ」
「半分は冗談です」
「半分は本気だと」
「ですね」
少しだけ悩む。いや、俺だって男子高校生。全く欲が無いわけではない。ただそれに従うためのハードルが少々高いだけ。
なんというか、そういう欲に従おうとする自分を冷たく見下ろす自分がいるから。
俺のやることなすこと、その全てに評価を下し批評する自分がいる。
「センパイ?」
「それで君の気が済むのか?」
「どうでしょうね」
「俺には少々、自暴自棄になってるように見えるよ」
「自暴自棄、ですか」
その通りかも、しれませんね。
「よくわからないんですよね。一時は一生の別れすら、覚悟していたんですよ」
カスミちゃんの、自分ですら気づいていない気持ちも気づいている。
自分の、扱いに困っている感情にも気づいている。
そうやってぐちゃぐちゃになると。どうしたら良いかわからなくなると。
まとめて全部壊してしまいたくなる。
例えば今ここで行くところまで行って。その真っ最中にカスミちゃんがお風呂から上がって来たら、とか。
「あたし、どうしたら良いのでしょうね、本当」
「まぁ、とりあえずさ」
俺が今の恵理に言えることは少ない。でも。間違いないことはある。例えば。
「明日、プールにでも行こうぜ」
「ふぇっ」
「なんだよ、香澄みたいな声出して」
「えっ、あっ、はい……」
「俺も君も、ごちゃごちゃ悩み過ぎだ。冷たい水かぶって思い切り泳げば、マシになるだろ」
「センパイも、ですか」
「あぁ。どうにもな」
腹は決めても、覚悟は決めても、伝え方がわからない。
「自分の思っていることを言葉にするのに、こんなに苦労する日がくるとはな」
「センパイ、大方、相応しい言葉とか探してるんじゃないですか?」
「そうかもな」
「そんなもの、ありませんよ。自分の大事な気持ちを贈ること、そのために言葉を尽くす。でもきっと、いくら尽くしても足りませんから」
「じゃあ恵理」
「はい」
「俺は恵理が、ここに残ってくれて、……あー、嬉しいよ」
「あ、ありがとう、ございます……」
「なぜ赤くなる」
「逆になぜ赤くならないと」
「ほら、香澄上がったみたいだからさっさと入って来い」
「はーい」
浴室の扉が開く音がした。この家の風呂に誰かが、ましてや女の子が入る日が来るとはな。
「ったく」
「あ、コーセイ君」
「なんだよ」
パジャマを抱えた恵理が、脱衣場の扉の前で振り返り、ニッと見慣れた笑みを浮かべて。
「ありがとね」
「……おう」
はぁ。




