センパイ、守ってくださいよ。
一度家に帰り、制服に着替えて、俺達は学校を訪れた。
学校に入るとすぐに。
「やっ」
と、昇降口に立つ二人分の人影。
「布良先生に……東雲さん」
「昨日振りですね。理事長がお待ちです」
「大変そうだね」
「……何で俺のクラスの担任の布良先生が、恵理のことで?」
「まぁ、この場合、適任が私、何だよねぇ」
と、よくわからないことを言いながら東雲さんに並んで歩き始める。ついて行く。
遠くから聞こえる吹奏楽部の演奏する音。運動部の掛け声。響いてくるバッドがボールの芯を捕らえた音。それらの音が遠くなっていく。頭の回転が加速していくのを感じる。
現状の問題、まず、恵理の住むところについては香澄の住むマンションか俺の住むアパートに居候させれば良い。
次の問題、授業料の問題。これはこれから交渉する。考えが無いわけでもない。
最後、恵理の両親……いや、正確には母親か。保護者が生きているが養育を放棄した状態、この場合どうなるか。だ。
ごちゃごちゃ考えている間にやたら大きな扉の部屋。理事長室。少し蒸し暑い廊下にノックする音が響いた。
「入れ」
理事長の声に東雲さんが「失礼します」と答える。
理事長は一番奥、執務机の椅子に腰かけ、窓の方を向いていた。立ち上がりこちらに向き直った理事長の目は鋭い。思わず息を飲む。覚悟しろ、と言われたような気がした。
「来たか。昨日までの合宿、三人には感謝している。私が考えていた以上に上手くいったようだ。南君、君の働きが大きいと聞いている」
「い、いえ」
流石の恵理も、理事長に直接話しかけられる事には、若干の緊張があるらしい。いや、圧だ。理事長から感じる圧。それは恵理にも確かに向けられている。
「謙遜するな。君にとって大したことがないことでも、与えた結果が大きいことは往々にしてあるものだ。そういう時は素直に褒めの言葉受け取り、誇れ」
「は、はい」
「さて、本題だ。双葉君から概要は聞いているが、南君、君から現状を説明してくれ」
「わかり、ました」
それから恵理は昨日のこと。その前の恵理自身の家庭のこと。
それから。
「あたしは退学して、働こうと考えていますが」
「私は反対です。こんな、こんなことで、恵理さんが高校を諦めるなんて」
そう答えた香澄の目を、理事長の眼光は真っ直ぐに射抜く。
「珍しいことではなかろう。双葉君。確かに理不尽であるが、ありふれた理不尽だ。だから救済措置として、高卒認定試験というものが存在する。本人の意思に反対するというのなら、理由は当然、あるのだろうな」
「ありますよ。恵理さんがこの学校で過ごすはずだった時間。それを失って良い筈がありません。たった一度の、十六、十七、十八の高校生活です」
「ふん。つまりは、青春、というものが失われるのが許せないと」
「そうです。理不尽を仕方ないと許して良い筈がありません。こんな理不尽を許して良い理由が、あって良い筈がありません」
「世の中、青春というものをやたらと神聖視する傾向にあるが、何が尊い。ただ漫然と高校に通い、学友と交流し、学ぶ。それだけのことだ。大人になってからの日々と、何が違う」
「理事長のおっしゃる通り、何も違いありません。青春も、大人になってからの日々も、過ぎ去ったら、その一瞬が過ぎ去ったら、戻りません。だからこそ、尊い。全ての時間が。その人の過ごす一瞬一瞬を大事にするべきです。だからこそ、理不尽に奪われることは許されない。違いますか?」
「ならば、南君が高校を辞め、働いてからの日々もまた、尊いものになる可能性はあるだろう」
「あるかもしれません。けれど、諦めるように選ぶべきではありません。戦い抜いた先の結果として選ぶべきです。ふとした時に過ぎる、あったかもしれない日々。選ぶにしても、後悔の無い選び方をするべきです」
「後悔の無い選択などない」
「やれることをやり尽くした結果なら、その後悔もまた受け入れられます」
理想論と現実のぶつかり合い。
香澄の言うことは正しい。だが、理事長の言っていることも正しい。
反論に詰まった方が負け。
「故に、理事長へお願いしたいことは、恵理さんの授業料、卒業後に支払い能力を得てからの支払いにして欲しいというものです」
「ほう」
「恵理さんの現状はお話しした通りです。恵理さんは財産も支払い能力も無い状態です。なので理事長、どうか、恵理さんが高校を通えるように」
「残念だが、それは断わる」
「ど、どうしてですか……」
「それが組織というものだ。特例とは一度認めればあれもこれもとなる。故に、明確なルールを定めてから認めるものだ」
「なら、今から」
「だがそれは、大多数に賛成されるものでなければならない。私の一存でできることではない」
「うっ、くっ」
「特例とは例外。例外とは簡単に認めてはならないから例外なのだ。ルールが秩序を生む。ルールを守るから秩序が保たれる。それを簡単に崩壊させてはならない」
「そのルールが完璧でないからこそ、秩序から零れ落ちる人がいるのでしょう」
「あぁ。だからこそ、そのルールが現状に即しているか、検討するための話し合いをするのだ」
「くっ」
「今回認められないなら今期の授業料は俺の貯金から出す、半年あれば検討する話し合いくらい完了しますよね」
勝負ありだな。ならここからは俺のターンだ。
「えっ」
ポンと香澄の肩に手を置いて前に出る。
「半年、夏休み明けにでもすぐに提案すれば、春休みの授業料納付までには可能でしょう」
「ふっ。確かにな。半年もあれば可能だ。そうかそうか。では聞こう。南君。君は学校に残りたいか? これからも、通いたいか」
「……あ、あたしは。二人の負担になるくらいなら……」
「そんなことは聞いていない。君自身が学校で勉強したいか。青春を謳歌したいか聞いている」
恵理は顔を伏せる。迷っている。そうだ。迷っているということは、学校に行くことを諦めたわけじゃないということ。
俯いた恵理はそのまま手を握りしめ、強く、握りしめ。そして、輝く滴が絨毯にシミを残して消えていく。
「……たい、です」
震える声が、伝える恵理の意思。
「聞かせてくれ。恵理。それと勘違いするな、負担なんかじゃない。恵理のためではない。俺は俺がこのまま見過ごすことが許せないから。見過ごすなんて器用なことができないから。こうしているんだ。俺のためなんだよ。寝つきが悪くなる」
「くすっ、何ですか。それ」
恵理は笑う。いつもの明るいものでも、最近見せる憂いを帯びたものでもない。どこか懐かしい雰囲気のある、なんというか、自然体の、あぁ、笑顔なんだなとしみじみと思わせるもの。
思わず見とれている自分に気づいた。
「わかりましたよ。センパイ。言ったからには、守ってください。あたしのこと」
「わかった。任せろ」
恵理の笑みに真っ直ぐに笑みで応える。
あぁ。そうか。そうだったんだ。追い込まれてようやく気づけた、腹を決められた。
俺に足りなかったのは、俺が迷っていたのは、怖がっていたのは、そういうことだったんだ。
今なら、何でもできる。そんな気がする。
「理事長。あたしは、通いたいです。学校に、通いたいです! センパイやカスミちゃんと、一緒に、勉強したり、バイトしたり、放課後寄り道したり、したいです!」
思わずグッとガッツポーズしている自分に気づいた。
俺が誰かにここまでの思い入れを持てる日が来るとは、と改めて思った。香澄だけじゃなかった。
「あぁ。わかった。布良先生」
「は、はい!」
「この名刺の連絡先にメールを一本頼む」
「名刺……あ、これ」
先生の表情がわかりやすいくらいに緩む。
「教師としての私が一番信用してる子だ」
「わかりました」
共通の知り合い、か。誰だろう。この理事長がそこまで言う人。どんな人だ。
「では、早速。失礼します」
「あぁ、頼んだ。それとリラ。真城にこれを」
「はぁい」
布良先生が理事長室を出ていく。それに続いて東雲さんも。恵理と香澄の肩が少し震えたのが見えた。
「有坂君」
「はい」
「君は随分と覚悟の決まった顔、しているな。理由を聞いても良いかな? 私は君が、他人にあまり興味が無い人間と見ていたからな。この前の出来事が影響しているとも考えたが、どうにもおかしい。死地に赴く戦士の顔に近いものを感じてな」
「そうですか?」
「あぁ。場合によっては南君の授業料、残りの二年分も面倒見るつもりでいるのではないか?」
「必要ならばそうします」
「どうしてそこまでする」
はぐらかしても逃がしてくれないだろう。だから俺は正直に。
「誓い、ですね。双葉香澄って後輩が俺にはいるんですけど。その子も、こうと決めたら曲がることをしない子なんですけど。俺も大概、人のこと言えない奴なんです」
そう。誓い。俺は誓った。
向き合うことを拒否している記憶が訴える。炊きつける。内側から焼く炎が俺を突き動かす。
「ふっ、そうか。今は深くは聞くまい。南君。君は布良先生からの連絡を待ちなさい」
「わ、わかりました」
「双葉君。君の提案を無下にするつもりはない。それだけは言っておく。今日は帰りなさい」
「……わかり、ました」
「悪いようにはしない。最良の結果を目指すのは私も同じだ。それを忘れないで欲しい」
俺達は一礼して理事長室を出た。
厳しい人だ。本当に。そう言えるのは、俺達は試されたんだなと、何となくわかったから。




