先輩、私の我がまま、一つだけ叶えてください。
結論から述べると、小田先生は俺達が去った直後に、理事長と布良先生に不正を認め謝罪した。そしてその日のうちに解雇された。
教室に荷物を取りに戻り、昇降口に来たところで布良先生が慌てて知らせに来てくれた。
「呆気なかったな」
「早めに済むならその方が良いでしょう」
「直接謝れっての。クソが」
不満げな飯田。気持ちはわからなくはないが。
「良いさ。そういうもんだろ、世の中なんて」
「……でも、釈然としません」
少しだけ唇を尖らせる恵理に。
「そういう大人もいますよ」
珍しく諦観を滲ませた双葉さんが答えた。
流れる沈黙。校門の前で立ち止まる。
「……とりあえず。ありがとう。助かった。恵理、飯田、君たちがいなかったら、原本は見つからなかった」
「あは、ちょっとメッセージ飛ばしただけですよ。センパイがバイト続けられるようで良かったです、今後はバイト先でもよろしくお願いしますね」
「あぁ。まぁ、主に双葉さんが面倒見ると思うけど」
飯田は黙って拳を差し出してくる、それに拳を合わせるとニッと笑って。
「今度ジュース奢れよ」
「そんなことで良いのか?」
「あぁ。ダチの貸し借りなんてそんなことで良いんだよ。じゃ、部活行ってくるわ」
スポーツ鞄を担いで遅ればせながら部活へ向かう飯田を見送り、それから。
「じゃあ、帰るか」
「はい」
「行きましょう行きましょう」
祝杯というか打ち上げというか、どちらでも良いけど、どこかに寄り道するか考えたけど、少し疲れた気がする。だから俺達は駅前に真っ直ぐに向かう。
「それじゃあ」
「その前に一つ。センパイ、あの時の答え、聞かせてもらっても良いですか?」
あの時の……恵理はふんわりと笑う……あの時のか。
「あぁ。良いぜ」
「では改めて。センパイ、助けられることは、弱い事ですか?」
双葉さんが息を飲んだのが聞こえた。視線を感じる。
「……今回、俺は、一人だと届かない場所があると、知った」
俺は、弱いのは嫌だ。強くありたい。母のようになりたくない。弱者に甘んじて弱者の権利を声高に主張し、助けられないことに怒りを叫びたくない。でも。
「誰かと一緒に、遠くに、より遠くに手を伸ばせることは、良いと思う」
「先輩……!」
「大好きな答えが返って来てあたしは満足です。こーせいセンパイに百点満点あげます」
「ふっ、久々に嬉しい百点だな」
「百点満点ソムリエのセンパイからのお言葉、ありがたくちょーだいいたします」
そして元気にかけていく恵理を見送り、俺と双葉さんは電車に乗り込んだ。
先輩と二人歩く。電車を降りて二人で。改札を抜けて、駅の外。学校の帰りはいつも分かれる場所。でも先輩はついてきてくれた。
「双葉さんには特に、助けられた」
少し歩いてぽつりと先輩は呟く。温まる心を抑え込んで、私は平静を装って。
「いえ、恵理さんと飯田先輩の働きが一番大きいです。それに……」
そして、少しだけ、ほんの少しだけ勇気を振り絞って。先輩が一歩を踏み出したように。
「それに、手口を見破ったのは……晃成先輩、じゃないですか」
「ん? あぁうん。でも」
わずかに見えた先輩の動揺。思わずゴクリと喉を鳴らす。思ったより勇気いる、これ。初対面からこれができていた恵理さん、凄い。
「でも、それでも、あの二人と理事長と、布良先生を引っ張り込んでくれたのは、最初に動いてくれたのは、双葉さんだ。双葉さんがいなかった俺は、多分、まだこの件を追いかけていたと思う」
最終的に同じ結論を得られたかもしれないけど、何も言わずとも、飯田と恵理も、手を貸してくれたかもしれないけど、その頃には多分、手遅れだ。原本はどこかで知らないうちに処分されて、証明できないまま、俺はバイトを辞めさせられていただろう。
「だから、一番の功労者は、双葉さんだ」
「そういうことなら、ありがとうございます」
俺は頭を下げる。今示せる誠意を、精一杯表現する。
「この借りは、ちゃんと返す」
その言葉に、私はどうしてか。
「今返してください」
なんて言っていた。私にしては、図々しいな。でも。この時の私の頭の中には、一つだけ先輩に要求したいことが、浮かんでいたんだ。
本当はもっと大きな願いがある。気がする。でも、それを口にする勇気が無いから。だから。今は、ちょっとだけ、少しだけ、前に。
「一つだけ、我がまま。叶えてもらいます」
「あぁ。何でも言ってくれ」
俺の生き方を守れたんだ。何を言われても叶えるつもりだ。
先輩が真剣に言っているのは、わかった。
息を一つ吐いた。
「では……私、双葉香澄と言います」
「知ってるけど、急にどうした」
震える唇を抑え込んで。絡まりそうな舌を無理矢理動かして。マンションの前、先輩の顔を真っ直ぐに見上げて。
「今後は、香澄と呼んでください。私も、晃成先輩、と呼ぶので」
「えっ、えっと。そんなので、良いのか?」
「はい。だってズルいじゃないですか、恵理さんばっかり」
「いや、よくわからんけど。……しょぼくない?」
「しょぼくないです。私にとっては、とても大きなことです」
「そ、そうか……そういうことなら、その、ありがとう……香澄」
夕陽のせいだろうか、恥ずかし気に少しだけ逸らされた先輩の横顔が、ほんのりと紅く染まって見えたのは。
頬が緩むのを感じた。これは、抑え込めない。
「はい! これからもよろしくお願いしますね、晃成先輩!」
そう言った双葉さんの笑顔は、空を茜色に染める夕陽よりも、眩しかった。




