先輩、全部背負ってください。
コーヒーのおかわりと、香澄はカフェオレを頼んだ。それが届いて、ふと、窓の外を見る。
駅から離れていく人の足。少しずつ、明かりを落としていく。町は少しずつ、まぶたを下ろしていく。
「そうだな……」
中学時代、俺は優秀な生徒だったことは間違いない。
文字通り孤高を歩んでいたと思う。
行事の実行委員を任せれば教師がそこまで手を出さずとも、つつがなく進行し、委員会に入らせれば抱えていた問題の大半は解決に向かう。そんな生徒だった。
最初こそ生意気な後輩が、という目で見てくる先輩も一定の割合でいたが、気がつけば全員、俺に意見を求めるようになる。そんな日々。
それが繰り返されれば優秀な奴がいると嫌でも広まる。そうすれば最初から俺は委員会でも実行委員でも、学年代表やら副委員長、副実行委員長にされる。
そして、一部、俺の働きを知っている人たちは期待する。俺が生徒会長になることを。
「でも、一般生徒は先輩の働きを知らないから、ってことですか」
「そう、行事の裏で何が起きているか、誰が活躍しているか、わざわざ調べなきゃ知らないだろ。だから俺に対する一般的な生徒の票かは、テストで毎回全教科百点取ってる、暗くて変な奴。というわけだ」
俺は進学で多少有利になるならと、勧められる通りに、生徒会長選挙に立候補を決めた。
相手は一年、二年、生徒会を務めてきた役員の一人。
数々の行事で実行委員を務め、様々な委員会で仕事をしてきた俺と。
二年間、生徒会一本でやってきた相手。女子だったな。その一騎打ちだ。
開示してすぐは確か、真っ二つだったと思う。俺のこれまでの活躍を実際に知ってるやつ、それを聞いたやつ。三年生の票は俺に寄っていた。
同学年、二年生は相手の子に票が寄っていた。それでも俺と一緒に何かしらの活動をしたことある奴は、俺に入れようと考えているようだった。
一年生はほとんど相手にだったが、二年、三年と同様に、俺と一緒に活動したことある奴は俺に入れてくれるみたいだった。
だからこの時点の俺は、この天秤なら簡単に傾けられると気楽に考えていた。今考えると甘い。頭を使って戦う人間が、戦況を過小評価するとは。歴史を紐解けばそれで負けたやつはいくらでもいるだろう。
そう、選挙前の前評判は重要だが、そもそも論として大半の生徒は生徒会の活動内容も各行事の実行委員の仕事内容なんて気にも留めないはずだ。それを知らせるものも少ない。
実際の政治家を決める選挙なら、過去の経歴を熱心に調べる人や、報じるメディアもあるだろうけど、所詮は一つの中学校の生徒会を決める選挙。
そう、結局のところ、選挙活動の内容が一番の勝負になり、前評判の天秤なんて、ほぼ意味が無くなっていく。
俺はそれに気づくのに、少し遅れた。自分の認識と他人の認識のすり合わせを怠ったのだ。
普通にやれば勝てる可能性は五分。ならば選挙活動の内容で差をつける。当然の思考。
そこで俺が選んだのは、中間演説の内容を精査すること、だけ。
いや、当然朝や昼休みの選挙活動もちゃんとした。だが、相手側はポスターのデザイン、街頭演説のための小道具の準備、全てにおいてこちら以上の準備を重ねていた。
「なんか、今の先輩からは考えられないですね。油断からの準備不足とか。……いえ、その経験があったからこそ、ですかね」
「どうだろうか」
マグカップを傾けた。苦みが体に染みていく気がする。
コーヒーの黒さの中にいる俺。その瞳を真っ直ぐに向けられていて。
「ただ」
その瞳ははっきりと訴えていた。
「ただ、間違えいなく言えるのは、俺は会長の器じゃない。勝つべきは、俺じゃなかった」
俺は間違いなく、あの子より上手く会長職をやった。生徒会を運営した。でも。
「それだけじゃ、ダメな気がしたんだよ」
「……なら、探せばいいじゃないですか」
「え?」
「先輩がその方に何をしたか、それはまだ聞いていません。ですが、今の先輩、逃げているようにしか見えないです。言い訳並べて出馬しなくても良いように見える。そんな理由を作っているようにしか見えません。なんですか? 罪悪感ですか。一人で勝手に浸っててくださいよ、そんなの」
「……そうか」
「まぁ、もし。一人では辛いと仰るのでしたら」
マグカップを置いた香澄、立ち上がり、手を差し出す。
「私も半分引き受けますよ。責任もって責任者として一緒に登壇します。一緒に背負います」
差し出された手。白くて、柔らかそうな手。
香澄の瞳は、待っていた。
俺がこの手に、その瞳に応えないなんて、微塵も思っていないようで。
自分の手が震えているのがわかる。
できるのか。
違う。できるできないじゃなくて。まず不可能だという先入観を消して、可能になるための条件と道筋を導き出せ。それからそれを達成するための流れを組み立てろ。
……違う。
これは、俺の心持ち一つで。
なら……俺は。
「俺は、弱い俺でいるのは、嫌だ」
逃げるな、立ち向かえ。
諦めるな、勝て。
弱さに甘んじるな。
あらゆる全てに勝利しろ。勝つことこそが俺の存在証明。
「俺はあの子の交友関係を破壊したんだ。ちょっとした噂を検証することなく、状況証拠程度で信じてしまう。微妙でもちょっとした物証があればすぐに確定させてしまい、人間関係に減点はあっても加点が無いのがその年ごろ。中学生ってやつだ」
生徒会選挙期間に跨るように実施された二学期の中間試験。それらが全部終了した後、あの子の使った机にカンペを仕込んだ。それだけ。
定期試験では、わざわざ出席番号順に座りなおす。いちいち机ごと移動なんて時間の無駄だからしない。だから見つかる。元の持ち主に。
「そのあと俺は証明したよ。先生方には。あの子はカンニングをしていないって」
自分が黒幕の事件を自分で解決した。真犯人は不明にして。
「……最低ですね」
「だよな」
「許されませんね」
「あぁ」
「まぁ、納得はしました。先輩が正しさに拘って自分の取れる手段を縛るの、わからなかったんですよね、いまいち理由が」
「ただの自己満足だ」
その子はしばらく学校に来なかった。ちゃんと進学したとは聞いているけど。
「でも、逃げませんよね」
「あぁ」
「先輩。私の尊敬する先輩。罪も、期待も、全部背負って歩いてください」
その手を握った。柔らかく、滑らかな手だ。
「手を、取りましたね。この手を……自分で言っておいてあれですが、茨の道への片道切符だと思いますよ。酷なこと言っている自覚はありますし」
「良いさ」
楽な方へ、楽な方へ流れていたら。
「俺はもっと、マシな性格しているさ」
「ふふっ、言えてますね」