先輩、仕事終わるまで待ちますから。
「生徒会ねぇー」
「えぇ。まぁ」
うっかりチーフに雑談感覚で漏らしてしまった。生徒会長に立候補を打診された件。
バックヤードの通路に置かれている、社員用の貴重品を入れるためのロッカーの前。チーフは財布とスマホを鞄に入れながら天井を見上げ。
「生徒会なんて入ったら出勤減っちゃうかー」
なんて残念そうに言った。
「いや、立候補なんてしませんよ。向いてませんし」
「そんなことはないと思うけど」
「チーフまでそう言いますか」
「前も言ったじゃん、君の能力は確かだって」
「はぁ」
「まぁでも、君は確かに、リーダーって器ではないね、今は。君は人を使おうとしな過ぎる」
「それは……」
「何度も言ってるけどさ。一人でやった方が確実。という気持ちはわかるんだよ。私だって新人ちゃんに仕事を預けるくらいなら自分でやった方が確実だし早いもん。でもそうすると後進が育たない。私の立場は育てるという責任があるんだよ」
「それが、チーフの役割、ですか」
「そ、君に打診されたってことはさ、素質はあるって期待されてるってことじゃん」
「えぇ、まぁ」
「良い機会かな、とか考えないのかなって思った」
良い機会、俺の……。
確かに、俺は、逃げているだけなのかもしれない。そう見えるだろう。否定できない。俺は恵理に対して明確に理由を述べられなかった。
明確に。俺が立候補しない理由。
「チーフって本当、ベテランなんですね」
「何だと思ってたのさ。まぁ、君がほとんど来れなくなっても気にしないで欲しいな。むしろ、バイト一人来れないくらいで回らなくなる店なら、潰れた方が良いよ。だからバイトのせいにしないで自分で考えなさいな」
「わかりました」
ふと、チーフと毎日のように言い争いしていた時期のことを思い出した。
間違ったこと言っていないのに、なぜこの人は怒るんだと思っていた。
思えばあの人は、怒りながらも理路整然と考えを述べていた。どうすれば良かったのかも示していた。
それはまだバイトを始めてひと月くらいしか経っていなかったころ。六月の話だ。
レジ袋は有料、一枚三円で販売している。だけどその人は欲しかった魚、確か、コハダだっただろうか。それが無かったからお詫びとして袋をタダで寄こせと言ってきた、年配の男性だった。
「コハダの旬は八月から九月だったと思いますが」
「なんだ、あっちにいたやつと同じこと言うのか」
「専門の方からお話を聞かれたのでしたら話は早い。お客様に他の方が三円で購入しているものをタダで提供する理由にはならないことはわかると思いますが」
「あ? こっちは欲しいものが買えなかったんだぞ」
「それとこれとは話が別ですね」
「別じゃねぇだろ、同じ店だろうが」
「はっ、お客様に何か損害ありましたか? 実害を被りましたか? そうでなければこれはただの恐喝ですよ。出るとこ出ますか?」
そこまで言ったところで俺は襟首をつかまれ思い切り後ろに引かれた。チーフだ。
「申し訳ございません。こちらの袋の方差し上げますのでこの場を収めていただきたく。彼にはしっかり言い聞かせておきますので。ご無礼申し訳ございませんでした」
チーフは深々と頭を下げた。
男は「二度と来るかこんな店」と大声で言いながら帰っていった。
この場でどちらが正しいかなんて……でも、今考えると……。チーフとの言い争いの日々で俺は妥協を覚え、香澄との関わりの中で疑問を覚えた。
今考えてわかるのは、間違えていたのはあの年配の男と俺だった。
チーフは俺に無言で付いてきなさいと目で促して。バックヤードまで連れてきて。
「ダメの一点張りだけじゃなくて、代替え案を出すことを覚えなさい」
と言った。
「なぜこちらが妥協しなければいけないのですか? おかしいのは向こうでしょう」
そう言った俺にチーフは。
「それが社会で生きるということだよ」
「ルールを無視した奴に頭を下げるのが、社会で生きること、なんですか」
「そう。頭を下げて、ルールに守られた場所を壊さないでくださいって」
「そんなの……」
弱い。従わせるのではなく、従ってください、なんて。弱いじゃないか。
「ルールは弱い人のために作られたものだからね」
「どんなルールも、賢い奴が穴を突いて利用するのがオチですよ」
「その失敗を糧に、真に弱い人を守るためのルールに正していく。どんな時代もその繰り返しだよ」
今思えばこの上司は、いつも正しい理想論を振りかざしてくる。
俺はそれに、捻くれた答えを返していく。
その時の俺は、自らを弱者という立場に置くチーフに、敵意すら覚えていた。でもいつからだろう。ふと気づいた。この人は弱者を名乗りながら矜持もあった。誇りを持っていた。
開き直らず、卑屈にならず、受け入れ、相応の矜持を持ち、自分の生き方を貫いている、今はそう見える。
社会の歯車を守ることに、誇りを持っている。
きっとチーフには、俺がただの斜に構えているクソガキにしか見えなかったかもしれない。いや、実際そうだったのかもしれない。
でも、それが少しずつ、頭ごなしに「こうしなさい」と言うだけでなく、俺の考えに対して一つ一つ丁寧に反論と具体例を示した反証をするようになってきた。
俺はそれに対してさらに噛みついてもなお、呆れず諦めず投げずにチーフは粘り強く議論を戦わせ続けた。
そのうち俺はこの人のことを信用できると思えるようになった。勝ち取られた。信用を。ここまで馬鹿みたいに真正面にやりあって、打ち負かしきれなくて。
「良い機会、か」
まぁそもそも、出馬するだけで、当選するとは限らない。俺一人しか出馬しないなら、信任投票という話になるだけだ。それならほぼ間違いなく当選はするだろう。
夏も終わりに近づいて、バックヤードに少し余裕が出てくる。繁忙期が終わり裏に在庫をため込む必要が無いから。
「はぁ」
積極的に品出しをするほど品が動かない。だから俺はバックヤード、台車と台車の間でぼーっと宙を眺める。本来なら品出しをしなくても棚の整理や巡回、レジの応援、やることはいくらでもある。
段ボールの匂いがする。飲み物や酒、お菓子、それらが所狭しと押し込められてる場所なのに、どこか無機質な匂いがする場所。
今日、香澄とシフトが被っていないことが残念だ。
そろそろ総菜の値引きしなきゃな。そうだ、どちらにしても俺にぼーっとしている時間なんてなかった。
「あの、先輩」
「ん?」
振り返ると、そこには学校の制服姿の香澄がいて。
「え、なんで、ここに」
誰かが休んでシフトの交換とか? いや、その程度、俺がフォローに入ればどうにもでなるはずで。
「今月のシフト、まだもらってなかったので、帰りに」
「あ、あぁ。そうか」
そのくらい、言ってくれれば明日にでも渡したのに。
「ところで、先輩」
「ん?」
「さっき言いかけてたこと、聞かせてもらっても、良いですか?」
「……今は仕事中だ」
「待ちますよ、終わるまで」
「どこで」
「駅前のカフェでコーヒーブレイクとでも洒落込みますよ」
「ふぅん。恵理はバイトだから、なるほど、ついにお一人様デビューか」
「お、お一人様……ほわぁ」
なんか恍惚と意識飛ばした香澄を置いて売り場に出る。
頭の中で話をまとめながら歩く。仕事をこなす。仕事をこなしながらも考える。
一通り終わって時計を見ると。あと五分でシフトが終わるころで。
「はぁ」
今から香澄に話すのか。
駅前のカフェ、送られてきた店名の店は、俺もよく利用する場所だったところ。引っ越してからは行っていない。
中に入ると香澄がすぐに気づいて手を上げた。向かい側に座る。すぐに店員さんが来てお冷を出して。
「コーヒー、ホットでお願いします。香澄、追加で何か頼め」
「あ、いえ……私は……」
「そうか……デラックスパフェ二つ」
「ほ、ほわ、ぱ、ふぇ?」
「あぁ。パフェ」
「アイスとかフルーツとかビスケットとかコーンフレークとかいっぱいの?」
「俺はコーンフレークより白玉派だけどな。ここのパフェ、白玉とコーンフレークで選べるんだ。すいません、どちらも白玉でお願いします」
店員さんは恭しく頭を下げて厨房に入っていく。
「……さて、どこから話したものか」
別に難しい話じゃない。嫌われ者の正論と好かれている人の暴論。どっちが聞き入れられやすいのか、それだけの話。
「まぁ、俺という人間を生徒会長にしたいという人間が以前も現れなかったわけではない」
中学時代も、俺は成績優秀で、行事の実行委員も何回かしたことがあった。それらは当然のように成功したから、是非会長にと、目を付ける人間は当然いた。
「俺は結局、なれた。なれたし上手くやり遂げた」
でも、俺は。
「詳しい話、できてないな。すまない」
「あ、いえ。ゆっくりで良いです」
ちょうどパフェが届いて、黙々としばらくクリームやフルーツを口に運ぶ作業。
食べ追わって。そして。
「簡単に言えば俺は、相手の候補者を嵌めたんだ」
正面からの戦いでは勝てないと分かったから、足場をぶっ壊した。
「あの時、大人しく負けを認められれば良かったのにな」
生徒会選挙の前哨戦ともいえる討論会で、俺はすぐに、自分の不利を悟った。
議論自体は優勢で、現役生徒会や先生方の心象は良かったが、一般生徒からすると俺はお堅く映ったらしい。
現役生徒会や先生方、権威はあるが数が無い。結局のところ一般生徒からの票が取れなければどう頑張っても勝てない。小学生でもすぐにわかる理屈だ。
「その時の俺は何を選択したと思う」
「えっと……」
「相手候補者を潰したんだよ、徹底的に。辞退させたんだ」