先輩、本当に兄妹ですね。
「なぁ、恵理」
「何でしょう? センパイ」
「俺って存外ガキだよな」
「あは、コーセイ君らしくないね。全部自分が正しいって顔してるのに」
「そういう風に見えてたか」
「まぁね。嫌いじゃないけど」
「……ふん」
「にひっ。だーいすき、ですよ。って言った方が良いですか?」
「んあっ?」
思わず恵理の方を向いた。悪戯に成功した子どものような笑みを浮かべた恵理がそこにいて。
「センパイ、あたしの目を見て話そうとしないですよねぇ、最近」
「そ、そうなのか?」
「無意識でしたか。それが逆にまたリアルですね」
「リアルって……何が……いや」
俺が恵理を意識し始めているって話だろう。わかるさ。
香澄よりも下から感じる視線。そこに親しみを込められているのは、はっきりと感じられる。
仕方ないだろう。あんな真っ直ぐで強い好意を感じさせられる言葉を受け取ったの、初めてなのだから。
その程度で乱されるのか俺はとも思ったけど。誰かが誰かを思う気持ちを、その程度などと考えて良いのだろうかなんて思い始めて。
正直、よくわからなくなっている。
「あの車か」
「そうですね」
ベージュ色の軽自動車の運転席、俺たちを見つけて手を振ってくる女性。
「こんにちは」
「こんにちは。突然お呼び立てしてすいません。恵理さんも仲介、ありがとうございます」
「い、いえ……」
まだ朝野さんに対して気後れする部分があるようで、恵理は俺の一歩後ろに立つ。
「俺の妹のことなのに、お手を煩わせてすいません」
「お気になさらず。理事長からも協力を求められたらなるべく応えてほしいと言われていますので」
「理事長が……」
意外な話。予想外の話。こんな忙しそうな人に。
「有坂君はあの人を見くびり過ぎですよ。必要が無いなら嫌というだけで、あの人は基本的に子ども第一です。必要と判断すればどんな存在でも敵に回して打ち倒すでしょう」
「そう、ですか」
車に乗り込むと朝野さんはすぐに発進させる。
「人の話を鵜吞みにしない、頭から信じないのは大事にするべき姿勢ではありますが、信じて良い人を見つけることも必要ですね」
「信じて、良い人」
「有坂君には難しい話でしたか?」
微かに、からかうような気配のある視線が、ルームミラー越しに向けられる。俺はそれを真っ直ぐには見れなくて。
「そうですね。最近、ずっと悩んでいることです」
なんて、曖昧なことしか言えない。
それに対して朝野さんは呆れもせず、ただ優しく微かに微笑んでいて。
「えぇ。この問いに明確な答えを持てている方がすごいです。有坂君。あなたは自分の力を自覚していて、だからこそ他者に対して一線を引いてしまう。折角の同年代が集まる場所、学校の教室。でもそこに自分の居場所はないと諦めてしまう。しかし有坂君。ちゃんとあなたは年相応の男の子ですよ」
見透かされてる。そう感じてしまう。この人の言葉には説得力があって、耳を傾けてしまう。
「そう、ですかね」
「はい、勉強して、放課後は気心の知れた人と過ごし、笑ったり、時に喧嘩し、時に落ち込み、悩み、恋をし、なんて。そんな時間を過ごしても良いんです」
「笑って、喧嘩して、落ち込んで、悩んで、恋して……」
「はい。とても素敵なことだと思いませんか?」
「……はい」
俺はどうしてか、急に景色が晴れたような気がしていた。今まで誰も俺に求めず、認めず、期待していなかったこと。それを認められた、そんな気がしていた。
ずっと欲しかったものをもらったような。そんな。
「では行きましょうか」
「そういえば、どこ行くのですか」
ピアノの先生探しに心当たりがあると言っていたけど。
「そうですね……まぁ、私の実家とでも言えば良いのでしょうか」
車は街をどんどん離れて、少しずつ緑の景色の割合が増えていく。
朝野さんの、実家? 恵理を見ると、委縮した様子で座っていた。
……あぁ、そういえば。小学生の頃の恵理って、こんな感じだった気がする。関わらなければ傷つかない。離れることが自分の身を守ること。
どうやって仲良くなったんだったかな、俺たち。
学校に入って理事長室に真っ直ぐに向かう。その扉の前、蒸し暑い廊下だが、スーツ姿で直立不動のまま立っている人影。何回か会っている女性。理事長の秘書の東雲さんが立っていて。
「お待ちしておりました」
と、一礼し。
「理事長はただいま、要件は実際に聞いて決めると仰られ、第一音楽室の方に準備に向かわれました、おそらくそちらに行かれた方が早いでしょう」
そう言われたので私たちは東雲さんと一緒にさらに上の階へ。
階段を上がる途中、微かに聞こえるピアノの音色。体を突き抜けて響く、思わず聞かされてしまう。そんな音。それはさながら、神にでも挑むような気迫さえあった。
楽譜さえ従わせてしまう。ある種の冒涜。だけどそれを咎めようとしても、こちらが間違っている気がしてしまう。
思わず美玖さんの方を見ると、少しだけ眉を潜めていた。指がトントンと太ももを叩いて、うずうずと。
「……早く行きましょ」
そう言った美玖さんは足早に私も、東雲さんも追い抜いて。音楽室の扉を力強く開いた。慌てて追いかけると。
「ほう、来たか」
「来ました。今日は兄はいませんが」
それはずっと控えめで淑やかな印象だった美玖さんからは考えられない、力のある声。決して大きい声ではない。だけど、ごくっと思わず息を飲まされる。
「美玖の演奏を聞きたいと言ったらしいではありませんか。何かリクエストはありますか? 無いのでしたら今理事長が弾いていた曲で良いですか?」
「ふん、ではそうしてもらおう」
「えぇ」
……あぁ、兄妹だな。やっぱり。
美玖さんのあれ、自分の方が上手いって。ほら、音が言っている。どうだ、聞け、見ろ。美玖を、美玖の音楽をって言ってる。
私に音楽はわからない。でも、これくらいエゴイストの方が良いのだろうな。
食われないように、食おうとしてくる人を、逆に食ってしまえるように。
聞こえる。心が、聞いている。刻まれていく。