先輩、いってきます。
「お兄様、お風呂空きました」
「あぁ」
パソコンをスリープさせる。部屋の扉が開いて流れ込んでくる湯気の香り。振り返ると。
「いや、なんでバスタオル。パジャマはどうしたパジャマは」
「忘れちゃって……」
そう言って恥ずかし気に笑う美玖は、バスタオルを体に巻き付けただけの状態で立っていた。
「せめて着てから来いよ」
「あはは。いえ、意外とこの格好で歩くの開放的であると気づきまして」
「まぁ、気持ちはわからんでもないが」
……なんというか。美玖も成長したんだなと。
十四か。一年会わなくても大して変わらないと思っていたけど。
こうしてみると。
「本当にきれいになったな。美玖」
「へ? ほえっ、こ、このタイミングで言いますか!?」
「ん?」
「ん? じゃないですよ、お兄様。いまの美玖の恰好……あ、いえ、悪い気はしませんね、むしろ……うん」
「ん?」
なんで慌てる。変なこと言ったか俺。
「……お兄様は美玖がきれいに見えるのですか?」
「そう言ったな」
「そ、そうですか。ふふっ、お風呂、温かいうちに入ってくださいね」
「あぁ」
そう言って美玖は部屋を出ていく。
まぁ何というか。
「んー!」
伸びをする。
明日、香澄は理事長と会う。美玖を連れて。俺は同行せずに恵理と一緒に朝野さんに会う。
正直、正念場に自分が立てないのは違和感だ。
リビングに出ると。
「いや、服を着ろ」
「なんか気楽すぎて癖になりそうです」
「おいおい」
美玖はさっきのバスタオルだけの恰好のまま、ソファーに座り楽譜を読んでいた。
「お兄様もきれいだと言ってくれましたし」
「んーむ。それはそうだが」
「実際どうです? お兄様がお兄様じゃなくて、例えばクラスメイトでしたら美玖は魅力的に映りますか?」
「そりゃそうだ」
「当然のように!? ……ふむ」
「なんだよ」
「いえいえ、今は気にしなくても良いですよ」
変な言い方をして微笑んで、再び楽譜に目を落とした美玖を横目に、俺は脱衣場に入る。
どうしてだろう、美玖が入った後のお風呂って、自分が普段使っていると思えないくらい良い匂いがする。使うシャンプーやボディソープが違うだけで、こんな風になるんだ。
駅前に恵理さんと立っていると、美玖さんを連れた先輩が来て。うわ、この二人並んで歩くと、なんかすごい。まとってる空気が違う。無意識に威圧されてしまうような自信を感じさせる先輩と、淑やかながらも凛とした立ち姿の美玖さん。そんな二人がまっすぐにこちらに向かってくる。というか美玖さん、なんか昨日と雰囲気が違う。なんというか、真っ直ぐな芯が追加されたような。……んー。わからない。なんだろう。
それと、美玖さんが去年まで私も着ていた中等部の制服を着ていて、あぁ、本当にうちの学校にいたんだと実感させられた。思えば中三の時、めっちゃ美人でスタイル良い女の子が入学してきた、と男子が騒いでいたのを思い出す。もしかしてそれが美玖さんなのではと。
「じゃあ、よろしく頼む」
「はい。交渉が一度決裂した相手が向かうより、人を変えた方が良いと思います。なので何も気にせず先輩は私に任せてください」
我ながら薄い胸を張って見せる。
「香澄さん、今日はよろしくお願いしますね」
「はい、大船に乗ったつもりで行きましょう!」
「あぁ、任せる。じゃあ恵理、行くか」
「はい。そろそろ着くと連絡が来ました」
二人には朝野さんの迎えが行くらしい。しかしながら、二人の用事は何だろう。
二人を見送って私たちも駅へ向かった。
「香澄さん。お願いがあるんですよ」
「何ですか?」
電車に乗って唐突に、美玖さんが圧すら感じさせる目を向けて。
「お兄様を篭絡して結婚してもらってもいいですか?」
「あぁ、結婚。どうだろ、できるのかな」
「いけますよ。とりあえず結婚してもらって良いですか? 姓は拘らないので」
「うんうん。ん? え? 結婚? なんで?」
「美玖が結婚できないからです」
「……へ?」
何だろう、言っていることの意味がわからない。私がおかしいのだろうか。
自然な流れで何を言われた、私は。
「美玖、できるならお兄様と結婚したいんですよ」
「は、はぁ」
「でも香澄さんとも結婚したいんですよね」
「んー? んん?」
な、なにを言われているんだ、わたしは。
「ただ、現行法だとできないじゃないですか。不便な世の中です」
「は、はぁ……」
「なので! 香澄さんとお兄様が結婚すれば万事解決するのです!」
「うん、よくわからない」
「わからないって……美玖、てっきり香澄さんはお兄様のこと好きなのかと思っていました」
「それは……」
それは決して違わない。私は先輩を尊敬している。でも、この感情。
「そんな俗な感情と一緒にして良いのか、わかりません」
「恋愛感情は俗な感情ですか? 美玖はそう思いませんけど」
「でも」
「逆に、どうしてそんな風に思うのか、わかりません」
美玖さんはそう言って淡く微笑んで、窓の方に目を向ける。ただそれだけの動作に、息を飲むような迫力があった。
「良いじゃないですか。誰かを強く求めたって」
「……今の私では、先輩につり合いませんよ」
「だから今回、一人で?」
「はい」
「もし成功したら?」
「わかりません。どうなるんですかね、私」
先輩から信じてもらえる人になる。そんな私の今の一番の目標。
「お兄様と一緒ですね」
「え?」
「目先の目標に夢中で、達成した先を考えない。この目標のために自分が散っても良いと思っている」
「美玖さん?」
「その先も、美玖もお兄様も、香澄さんも、生きていかなければいけないのに。恵理さんのようになんとなく生きている方が、まだ良いですよ」
「……それは違うと思いますよ、美玖さん。先輩は、その先を選べるように、今の目標に夢中なだけだと思います。今の目標を達成しなきゃその先が無いから、必死になって、その先を考える暇がないだけだと思います」
「……確かに、その方がお兄様らしいかもしれません」
「ですよね」
「はい」
電車が止まった。少しだけ、心臓がうるさい。手が震える。でも。
「行きましょう」
ここで立ち止まって悩んでいる暇なんて、私にはないんだ。