第八十三話
玄関のドアが開く音がした。
「すまない。なるべく早めに帰ってきたかったんだが……あいつが意外としぶとくてね、引きはがすのに苦労した」
声の主は「獺」だった。足音はキッチンに向かう。
僕は閉じていた目を開け、目線だけをキッチンに向けた。二つのコップに何か、薄い赤褐色の液体が注がれている。「獺」は二つのコップを両手に持ちながら、僕の隣に座ってきた。
「紅茶は好きかい?」
差し出されたカップに目線を移す。揺らめく湯気に程よい香りが乗っている。丁度いい、心に安らぎが欲しかった。会釈してからカップの取っ手をつまみ、火傷しないように啜った。
「……認めたいんだ」
安堵した自分の口から、ぽろりと言葉が出た。「獺」はカップをテーブルの上に置き、僕の目を見た。
「あいつは、無能なんかじゃない。きっとこの世の誰よりも努力してて、誰よりも理想の自分を追い求めたんだ。人間にできる全部をやったんだよ、あいつは」
眉一つ、何のリアクションも相槌も打たずに「獺」は聞いている。「全部話せ」と言わんばかりに、僕の話を聞こうとしている。
「だから、怖いんだよ。自分を信じて努力して……努力して、その結果が何も無くて。――そんなの、あんまりだ」
首を横に振って、僕は言葉を紡ぐのを止めた。これから出てくる言葉はバラバラなんだ。何を伝えたいか自分ですら分からないような、そんな意味を失ったただの言葉。
僕が話すのを止めたのを見計らって、「獺」が話しかけて来た。
「……つまるところ、君はいろんな物を抱えているようだね」
ソファーから立ち上がり、「獺」は背中で物を言った。
「大した努力もしていないのにたくさんの成果を手に入れた自分……いいや、「魔法」を使う全ての人類と、たくさん努力して何も得られなかった彼一人を比べたんだね? 憐れむわけでもなく、見下すわけでもない……単純に分からなくて怖いんだろう?」
的を射ているかもしれない。確かに考えることを放棄していた、あいつのことを。あいつがどうして「魔法」が使えないのか。いいやそれ以前の問題だ、人間としてどうやって関わっていくか、そこを考えていなかった。
「君は考えることを放棄した末に、数十年にわたって彼を虐めた。賢人にあるまじき愚行だ。なにより、中途半端なのが良くない」
何をしたか、全部覚えている。骨を折った、気絶するまで「魔法」をぶつけた。真冬の池に突き落とした、上履きを燃やした。彼の父親の噂を広めた。
全部、覚えている。なのに一度も罰が下ったことは無い、彼の拳が、僕の頬に突き刺さったことは無い。
ほっと安心していた。しているふりをしていた。
「せめて君が正真正銘のクソ野郎……唾棄すべき害悪へとなり果てていたのであれば、君も君が虐めた「無の魔術師」も幸せだっただろうね。だが君は罪悪感を感じていた、感じていながら、虐め続けた……。さて、ここまで話したのはいいが……なぁ、クロウリー。君は結局何がしたいんだ?」
何がしたいか。具体的に、何をどうしたいのか。
「……僕は」
そんな事、決まっている。
「僕は、きちんと罰を受ける。彼自身の手で……僕は罰されたい」
「彼にそんな力があるのか? 彼は「魔法」が使えない……君が改心して首を差し出しても、彼の努力が認められるわけではない。何より君が納得できないだろう?」
そこで、私から提案だ。
「君が彼を救うんだ。「魔法」の使えない彼の体を、「魔法」が使える体にするんだ」
誰も傷つかない素晴らしい方法だ。君も彼も、全てが救われる。
「君はあらゆる弱者を救う。努力に見合った成果を与えられる世界を、君の「魔法」で作り変えるんだ! それができる君はもはや「魔術師」以上……そう、神だ!」
さぁ、全てを救いに行こうじゃないか。
「ぶっ壊してやれ、才能が全てのクソッタレな世界を」
僕は強く拳を握りしめ、深く頭を下げた。急に変な姿勢になったからか、足が震えている。
「……まずは魔力の質と量を上げよう、それから体も少しね。「魔法」を教えるのは、それからだ」




