第百二十七話
「顔色が悪いな、今なら俺でも殺せそうだ」
相変わらず怖い顔だ、僕は壁に手を着きながらそう思った。未だに体が震えている、魂の喉笛に刃物を突き付けられたような……どうにもできない恐怖を感じた。
「お前がそこまで「ぐったり」するとは驚いたよ、お前でも生への執着があり……失わずに済んだ未来を喜べる余裕があったとは」
「ほんと、びっくりするよねぇ。僕自身でも新発見って感じ。……んで? ちゃんと「あれ」は持って来たの?」
即ち、虚勢。平衡感覚を根性で支え、目線の先は必ず彼の目に当てる。……そうでなければたちまち殺されてしまうんじゃないか、そう思うほどに彼は殺意に満ちていた。
普段、僕はポケットから手を抜かない。いつでも杖を握りしめている事がバレないように、先手を取ったと勘違いしている相手を即殺するために。
「……ここにある」
握っていたスーツケースを凝視し、数秒の間を経てカイトは言った。しかしいつまで経っても彼は来ない、「自分で取りに来い」と言われているような気がした。
やれやれ、だ。流石はキリストの犬、容赦が無いというかなんというか……どうやら覚悟を決めてこの場にいるようだ。杖を握っていないことを悔やんだ。
「どうした? 早くこちらに来い……それともいらないのか?」
張れる虚勢にも限界がある、正直かなり不味い。杖を握っても確実にあちらの方が早い、杖の先端が脳天を指す前に「魔法」が飛んでくる。馬鹿正直にスーツケースを受け取るという手段は無い、首を差し出すようなものだから。
「まさか、勿論受け取るよ」
こういう時、僕は自然と笑えた。状況に見合わない表情を作れば相手は困惑し、隙が生まれる。それに笑えば少しは気がまぎれるし、現実逃避には丁度よかった。
とはいえそれでどうにかなるわけではない。結局は逃避、虚勢。彼は自分の「教務主任」という立場を捨てる覚悟でここに居る。
(あんまりこういうの好きじゃないんだけどなぁ……)
「よし、分かった。交換条件といこうじゃないか」
「何故それをする必要がある? お前がこっちに来ればいい話じゃないか、第一お前の持っている情報など、ろくなものが無い」
「キリストの現身」
その一言だけでカイトの決意は揺らぎ、目的は別の方向へ変わった。
「……どこまで知っている」
「さぁね? 知りたきゃそいつを渡しな」
交渉は成立したようだ。いいやしてくれないと困る……このカードは僕にとっての切り札だった。こんな序盤から使う予定は無かったが、まぁいいだろう。
「情報が先だ、狼は嘘をつくからな」
「こっちのセリフなんだよなぁ……まぁいいだろう、主に誓って君は約束を守れるかい?」
嫌な表情をした。救世主至上主義の彼らにはこれが一番効果的なのだ。しばらく考えた後、カイトは頷いた。
「……キリストの現身はこの学校内にいる」
「ふざけるな」
「ふざけてないさ、僕が持つ情報はこれしかない……悪いねぇ。さて、主との約束に基づいてもらおうか?」
カイトは歯噛みした。だが約束は約束、しかも彼らの神に誓ったものだ。最後の悪足掻きとして、彼はスーツケースを蹴って渡した。
「そんなに睨むなよ」
嘲るようにスーツケースの取っ手を掴み、どさくさに紛れて握った金の杖を向ける。僕はカイトの瞳孔をしっかりと見ながら、廊下の奥に歩いて行った。




