家族
『家族』
千葉彰雄
『オマエヲユルサナイ』
パソコンで打ち込んだであろうその文字は、コピー用紙の真ん中に多くの余白を残して居座っていた。居座る、という言葉がぴったりくるほどそれは断固としていて、短文がより、見る者に強い意志を感じさせている。
「あなた、やっぱり警察に届けたほうがいいんじゃない」ぼくが食べ残した食事を片付け始めた母が、父に訴える。
「ただのいたずらじゃないのか。それにこれだけじゃ警察もまともにとり合ってくれないだろ」ハムが挟まれたロールパンを口に詰め込んだ父は、珈琲でそれを流し込むと席を立った。「それじゃ行ってくる、朝イチで会議があるんだ。そっちのことは全部お前に任せるから」
気乗りしない様子で時計を気にする父が、そそくさと玄関に向かう。
不安そうな母の視線を感じて、ぼくはずっと下を向いていた。
ぼくに原因があるのか、それとも何か思い違いをしているのだろうか。そうやってたびたび訪れる頭のモヤモヤを打ち消す努力してはみるのだけれど、どういうわけか、心の喉に小骨がひっかかったような、微かな痛みが断続的に訪れることも感じていた。
ぼくはクラスの中で二番目に身長が低い。それなのに一番後ろの席に座っているものだから黒板がよく見えなかった。それに、目の前に座っている隆の座高がたかいというおまけまでついている。
必死で頭を左右に動かしながら授業内容をノートに書き込んでいると、最前列に座る林由美と視線が重なった。ぼくのほうを頻りに振り返るので たびたび目が合う。その動きはまるでミーアキャットのようだった。
先月引っ越してきたばかりで、まだ親しい友人はいないみたいだったけれど、その彼女がなぜか、ぼくによく話しかけてくる。いっときの寂しさをまぎらわす専業主婦のようなものかも知れないが、テンション高めな今どき風の彼女に少々戸惑っていた。
「おい、拓海、またお前のこと見てるぞ」
「ああ……」冷やかす隆に、ぼくは素っ気ない返事をする。
「お前に気があるんじゃないか、ウィンクでもしてやれよ」
そういって片目をつぶる隆に、ぼくは少し苛立っていた。
「なんでぼくが―」
そこで、教壇から怒声が飛んできた。
「おい、そこっ、なに喋ってんだ。そんなに授業がつまらないのか」
「はははっ、先生これはですねぇ―」
隆が弁解しようとしたそのとき、家入一也がじっとぼくを見ていることに気が付いた。クラス全体が笑いに包まれるなか、一也ひとりだけが笑っていなかった。その顔はまるでアマチュアが創作した彫刻のようで、生気というものが感じられない。
なんだか気味が悪くなって視線をそらした次の瞬間、チッという舌打ちの音が聞こえた気がして、思わずぼくは顔を上げていた。
一也がものすごい形相でこちらを睨みつけていた。
「ねえねえ、今日も一緒に帰ろうよ」
ぼくが帰り支度をしていると、案の定、由美から声がかかった。
「なんで」
「なんでって家近くじゃん。それに由美と拓海くん、性格合うと思うんだよね」
「合わないよ」
「合うよ、由美わかるもん」
そんな彼女を無視して教室を出るが、ヒヨコのようにぼくのあとをついてくる。
正直、可愛いとは思う。性格も明るい。だけど、ぐいぐい来られるとどうしても萎縮してしまう。それに今は彼女を相手にする気分にはなれなかった。
「どうしてついてくるのさ」
下駄箱で靴を履き替えながらぼくが言うと、「別にいいじゃん」という返事がかえってくる。
「よくないよ、勘違いされるじゃないか」
「……なんで、そういうこというの」
そう言って彼女は口をすぼめると、彼女が突然しゃがみ込み、ぼくを見上げて悲しそうな顔をした。
少し言い過ぎたかも知れない。
「わ、わかったよ……」
周囲に視線を走らせたぼくは、やましいこともないのにあたふたとしてしまった。こんなところを隆に見られでもしたら何をいわれるかわからない。
しかし、すべては杞憂だった。
「嘘だよ、うーそ。信じた?」
屈託のない笑みを浮かべる彼女には、悪びれた様子もない。
「べ、別に……」
少しでも真に受けた自分がバカらしくなった。
眼前に座る男は明らかに関心がなさそうだった。ときおり眉根を寄せ、熱心に話を聞く素振りを見せてはいたが、過剰とも思えるそのしぐさが余計に嘘っぽい印象を与えていた。
『オマエヲユルサナイ』
その脅迫めいた手紙がぼく宛に届いたのは、これで三度目だった。ぼくは母に連れられて地元の警察署を訪れていたのだ。
正直、早く帰りたいと思ったが、母に促されたということもあり、ぼくは仕方なく男の話に耳を傾けていた。
「拓海くんに心当たりはあるの?」
「ありません」
「お母さんは」
「ありません……」
そう口にする母の顔は憔悴しているように見えた。
「たとえば学校で誰かと喧嘩をしたとか、そういうことは?」
「…ないです」ぼくは言った。
「んー、まあ、こういうことを相談に来られるご家族の方も時々いらっしゃるんですが……、んー、この手のことはねえ……」
黒縁眼鏡をかけた年輩のその男の顔はやけに光っていた。乾燥防止のために何かクリームでも塗りたくっているのかも知れない。何かマニュアルでもあるのだろうか、その男は被害届を受理したくないようだった。
ぼくは母を見た。さっきからずっと何かを言いたそうにしていたが、とうとうそれを口にすることはなかった。短文の手紙が届いたというだけで何か具体的な危害を加えられたわけではない。
もう少し様子を見てください、と言うその男に母は頷き返していたが、その顔はどこか不満げだった。
帰り道、母はぼくの手を握ると、おもむろに口を開いた。
「学校、嫌だったらいかなくてもいいよ」
「えっ?」僕は思わず訊き返していた。
「それとも拓海、お母さんと一緒に引っ越そうか……」
「お母さんと……? お父さんは」
そう問いかけるぼくに母が急に立ち止まる。そして静かに、だけどきっぱりとした口調で母は言った。
「お母さん、お父さんと離婚しようと思う……。離婚、わかるよね」
知っていた。その日の夜、トイレで目が覚めてリビングの前を通り過ぎたとき、二人の会話を聞いてしまったのだ。
「それって、決まったことなの?」ぼくは足元に視線を落とすと小石を蹴っとばした。
「拓海はどうしたい」ぼくの質問には答えず、母が優しい声音で問いかけてくる。
「ぼくは……」
嫌だよ、そんなの……。嫌に決まっているじゃないか……。家族なのに離ればなれになるなんて。ぼくは絶対に嫌だ。
少しの沈黙があった。息が苦しくて、うまく呼吸ができない。ぼくは喘ぐような目で母を見つめた。
「ぼくは絶対にいやだよ」
それから母は何も言わなかった。ただ、通り過ぎてゆくバスをじっと見つめているだけだった。
あれから一ヶ月―。
それまで仕事人間でまともに家族との時間を作ろうとしなかった父の態度が、少しずつ変化していた。その後、二人の間でどんな話し合いがもたれたのかわからない。でも日々変わっていく父の姿は本物だった。
ぎこちなかった母の表情も次第に明るくなっていくようで、ぼくは嬉しかった。
それと同時にぼくへの手紙もこなくなった。それは、ぼく自身が自分に宛てて送った手紙だったから―。
初めは憤りからだった。家族を養うためーその言葉を免罪符に仕事ばかりで、家族との時間を省みようとしない父に対する反発があった。もし、息子の自分に脅迫文が届いたら、父はどんな気持ちになるだろう、どんな行動に出るのだろう。それを試したいという気持ちもあった。
ちょうどその頃だ。両親の離婚話を耳にしたのは。それまでにも二人が口論することはよくあった。でも離婚となると話は別だ。そこでぼくは、二人の関心を自分に向けようと考えた。それで離婚の話がうやむやになるとは思えなかったが、何か行動を起こさないと絶対に後悔すると思ったのだ。
この先どうなっていくかなんてぼくにはわからない。それでも、今は手紙を書いてよかったと思える。
子は鎹とは言うけれど、これからもぼくは家族の糸を離さないぞっ、と強く思った。
とにかく家族が一緒であればそれでよかった。一人っ子はちょっと寂しい気もするけれど、ぼくには大切な家族がいる。そう思えるだけでとても安心するのだ。
ちなみに家入一也はぼくと由美の二人の仲に嫉妬していたようだ。でもそれは由美に対する好意の裏返しではなく、ぼくに対するものだった。うん、要はそういうことらしい。
もちろんぼくにそういう趣味はなかったけれど、好意を抱いてくれる一也と、この先も仲の良い友人でいたいとぼくは思った。
完