〜8.
息子より大事なものなんてなかったのだろう。昨日私の携帯に送られてきた1通のメールは、キクオ殿からのものだった。
『急な用件だが聞いてほしい。ナズナちゃんにミカンを任せたいんだ。青木先生がやられてしまったように、俺たち親子が住んでいる家に敵が襲ってくる確率は高い。そのときに何の役にも立たないカス並の俺が2人の傍にいても、足手まといにしかならない。俺はカスなんだ。ミカンの能力を引き出すにしても、俺が近くにいたらミカンを甘やかしちまうし、そんなんじゃ命を狙う敵とは到底戦えないだろう。もし、カス程度の戦力しかない俺をミカンが守ろうとしたら、そこでまた隙ができちまう。本当に急な話だが、少しの間カスな俺は遠く離れておくことにする。申し訳ないが、ミカンをよろしく頼む。適当な理由をつけて旅立つが、ミカンにはこのメールの内容は秘密にしておいてくれ』
自虐的な部分は置いておくが、キクオ殿にも考えがあったということだ。それに、あのメールの内容もあながち間違いではない。これから起こる出来事への対策としては行っておくべきことでもあるだろう。
「……ナズナ」
「どうした?」
「学校、休む……」
「ほう。そこまでして特訓がしたいと?」
「違う! こんな意味不明な状況じゃ何もしたくないんだよ!!」
ミカンはそう言って階段を駆け上がり、音を立ててドアを閉めた。情けない奴、と言えてしまえば楽なのだが、仕方のないことか。これまであやつはキクオ殿に甘えて生きてきた。そうでなくても父親というものは子にとって大きな存在であり、母親のいないミカンにとっては誰よりも大切な人間だ。そんな大切な存在が、これまでの生活からは考えられない行動に出て離れてしまうとなれば混乱もする。
――父が死に、私は平静を装うのに必死。それでも尚動くのは、使命感か? 怒りか? いずれにせよ、私がやらねば誰がやる。この想いをミカンにわかってもらうことが重要なのだろう。
リビングのソファに寝転がり、今自分にできることが何かを考える。ミカンの能力を覚醒させるなんてことはわかっている。その為にしなくてはいけないこともわかっている。考えるべきは、どのようにやるかだ。
ミカンに状況を理解させることがこれほど難しいとは思っていなかった。理屈を伝えるだけなら誰だってできる。肝心なのはミカンの心を動かすこと。誰もが私と同じような思考回路を持ち合わせているわけではないのだから、対象の人物ごとに伝え方を考えねばならん。
今現在、特訓は順調にいっている。いつ敵が攻め込んでくるかはわからんが、あと少しでプロの格闘家を上回る程度の基礎が出来上がる。せめて今日中には、ミカンの心を戦闘態勢にしなくては……。
――昼を過ぎても、ミカンは部屋から出てこない。昼食の準備ももう終えるところなのだが、あやつは胃に何も入れないつもりなのか?
仕方なしに階段を上がり、ミカンの部屋のドアをノックしてみるが返事がない。早朝の特訓のせいで今頃睡魔にやられているのかもしれんな。
「ミカン、入るぞ」
「……」
これで寝ていなければ無視ということだな。起きているとすれば、ゲームに没頭しているか憂鬱にやられているかだろう。
ゆっくりとドアノブをひねって部屋に入ると、やはりテレビの画面にはゲームの映像が映されていた。しかし、ここまでならがっかりするだけのところを、ミカンはいい意味で予想を裏切ってくれた。
「あ、まだいたの?」
「当たり前だろう。私は今日からここに住むと言ったはずだ」
「そうなの? 知らなかった」
「聞いていなかったのか。まぁいい。それで何をしておるのだ?」
「えっと……自主練習?」
テレビに映し出されているのは、繋がれている格闘ゲームのデモプレイ画面。キャラクターのコンボが流れている画面の前で汗だくになっているミカンを見て状況が理解できた。
「やけにやる気が出ているではないか」
「ま、まぁ……」
「どうしたのだ。特訓は嫌がっていたと思うが」
「なんていうかさ……。お父さんのことがちょっと引っかかって」
見違える程の強さは感じられないが、少しばかり瞳に輝きが感じられる。キクオ殿の意図に気付いたのだろうか。
「僕が最強のサイボーグだって話に納得しているのに、お父さんは家を離れなければいけなかった。これってもしかしたらさ、僕の能力を引き出すのにお父さんの存在が邪魔だったのかなって」
「……ほう。でもキクオ殿も覚醒の件については知らぬはずだぞ」
「そうだけど、僕の力が頼りにされていないんだってことは理解できた」
「……そうか」
「お父さんが何を考えているのかはわからないけど、もう僕は誰にも甘えることができなくなった。逃げ道がなくなったんだ」
――まだ真意には届いていないというところか。
「……お父さんが帰ってくるときに、僕は生きていたい」
「……」
「最後があんなふざけた別れ方なんて、絶対に嫌だ」
「……そうだな」
「だから、負けられない。戦って、勝つ」
「あぁ、勝とう。いや、勝たねばならんのだ」
「人工知能だっけ? それが僕に戦えって言ってる気がするんだ。逃げたい、嫌だ、って考えてても、戦うことも一緒に浮かんでくる。今でも逃げたい気持ちはあるけど、死ぬとかこれが最後とか、そっちのほうが嫌だ」
結果的に、父の行動はすぐに息子の心を動かしたか。私が出る幕もなしに。子のことは、親が一番わかっているということなのか。愛情を受けて育った子は、親が大好きなのだ。例え母親がいなくても、その心に欠陥などない。
「ミカン、実のところ私も父子家庭で育っておる」
「そういえばナズナのお母さんの話は聞いていないもんね」
「私の母は、研究に没頭する父に愛想を尽かしたそうだ」
「そうなんだ……」
「しかし、私は父も母も恨んでいない。私が青木家に生まれた以上、生きるという選択肢の他はない。父の愛を受けて育った以上、父を裏切るという選択肢はない。私は私でありながら、父の娘でもあるのだから」
片親、父が元研究者であるという小さな共通点しかないが、特に前者においては様々なことに大きく共感してやりたい。ミカンの心情を理解してやりたい。
「ナズナは変な奴だけどさ、間違ったことは言ってないんだよね」
「変な奴とは心外だな。しかし後半部分はその通りだ」
「……ナズナのお父さんが殺されたってこと、今さっきよく考えてみたんだ」
「……ほう」
「僕の脳じゃ想像できない程に、とんでもなく辛い出来事だったはずなんだ」
――辛い。辛いに決まっている。大学から帰ってきたときには既に家は半壊状態で、父は居間で血を流して倒れていた。現場には巧妙な細工が仕掛けられ、警察は『在宅研究の実験失敗による事故』として今捜査を進めている。
血にまみれたパソコンに残されたわずかなメッセージ、『敵襲、館山家に向かえ』。幼き頃から知っていた館山家の事情を思い出すと、すぐに状況は理解できた。このような事態が起こるかもしれないということは、何度も父から聞かされていたからな。
父が最後に残したメッセージは私に対する愛ではなく、これから私が取るべき行動を記したものだった。寂しさも悲しさも、憎しみも怒りも溢れだしそうだったが、これが父が最後に残したメッセージだと思うと、うろたえている時間など必要でなかった。
「僕のお父さんは生きている。だからこれから守れる。ナズナのお父さんが殺されたことに、段々と怒りを感じてきたんだ」
「ミカン。戦いには感情を持ち出すなよ。冷静さを失っては……」
「ナズナはもっと怒っていいんだよ!!」
「……!」
張り上げたミカンの声が、空気を伝った後に鼓膜を通して私の心まで響いた。
――もっと、怒ってもいい。私が、怒る……。
「お父さんが殺されるって、とんでもないことじゃないか!」
「……」
「やんなきゃいけないとか、平和がどうとか、そんなこと言われても実感できないけど、大切な人が傷付けられるって思うと頭にきた」
「……」
「ナズナは自分のお父さんの死を悲しむ暇もなかっただろうけど、もっともっと怒っていい! 泣いたっていい!」
こいつ、一体何を考えたら急にそんな……。自らの父に影響が及んだことが原因だろうが、そんなに大きなものだったか……。
私は、私は父が殺されたことが……悲しい。父を殺した相手が憎い。
「私は……」
「ナズナも父親が好きでしょ」
「……ああ。だから……奴らが憎い……!! 許せん!」
「それだけでいいよ、戦う理由は」
「悔しいのだ……! 私ひとりでは仇もとれない、誰も守れない……!」
ミカンの能力に頼らねば、何もできない。どんなに知識を身につけようが、運動神経がよかろうが、私が対等に敵と戦うことなんてできない。実質、無力。戦うという意志を持つことしかできない自分に腹が立ち、何故か涙が出てきた。拳に力が入ってきた。
「今はこんなんだけどさ、僕も強くなれるように努力するから、特訓頼むよ。1人じゃこんなことしかできないからさ」
涙が頬を伝う前に、急いで拭った。ミカンがやる気になった今、私がくよくよしている場合ではないのだ。
「ふん……。時間がないからな。今からすぐに始めようか」
「あ、その前にお昼食べていいかな? お腹空いちゃって」
「……あ」
弱火にはしていたと思うのだが、点けっぱなしにしていたガスコンロの火のことをすっかり忘れていた。急いで階段を降りて1階へ向かうが、台所から漂う焦げ臭い匂いが昼食時間の延期を私に知らせてくれたのだった。
――何をしているんだ私は。