第十六夜 ①ー1
夏休みもそろそろ終わり、秋が来る。
旧校舎を改装して自宅のようにしているイオニコフは廊下の窓の外に鬱蒼と茂る木々を眺めていた。
窓の燦の上を指で走らせながら隣の窓へと順々に歩いていく。そうして辿り着いたのは旧校舎の玄関口近くの窓。かつては多くの生徒が出入りしていたが今はもう誰を迎えることも見送ることも無い。
けれど、最近はイオニコフ自身が出入りするし、それに…。
…エラがここをくぐって来るんだ…。
玄関口を入ってくるエラの幻影が見えた気がした。
初めて旧校舎に現れた彼女が恐る恐るくぐり抜けた玄関口。誰も入ることの叶わなかった旧校舎の玄関を入ることを許された者。
イオニコフはあの日のことを思い出していた。
エラと初めて出会った日のことを。
☆
百年。眠っていた彼にとってはそんなに経っている気はしなかったが、隣で彼を守護していたドラゴンのギーウィはそれなりに変化していく年月を実感していたことだろう。
外の世界の事はギーウィが得意とする「千里眼」というどこまでも先の情景を見ることが出来る能力のもと把握していた。とはいえ、ギーウィも意識を向けねばその力を使えることはないのでたまに調べる程度に抑えていた。それでも、百年の眠りから覚めたイオニコフに世界情勢を伝えるには十分すぎるほどに知識を得ていたのは言うまでもない。
そんな二人きりの世界に女の子が迷い込んできたのはこの年の春。
百年間、一度も破られることがなかった旧校舎に張り巡らされた結界をかい潜ってきたのは魔力を封印された変わった女の子だった。むしろ、魔力が封印されていたからこそ結界を抜けてこれたのかもしれない。
敷地の中に足を踏み入れた気配を感じたギーウィは眠るイオニコフを起こす。
“誰かが旧校舎に近づけば起こすこと”
それが眠る前の主から命じられた命令であり、運命の歯車が回り始めたという知らせでもあった。
目覚めたイオニコフはその招かれざる客をあえて旧校舎に招き入れた。それは結界をすり抜けて来たその者に興味があったから。
それが、エラ・エーデルワイスとの出会いだった。
百年ぶりに見た旧校舎の内装や外観の朽ち果てて行く様にも驚いたが、迷い込んできた少女の外見にも驚かされた。
一目見て惹かれたのだ。赤い宝石のような瞳がまっすぐにイオニコフを捉える。慌てていて軽いパニックを起こしていた稀有な魔力封じをその身に受ける女の子。それが、百年ぶりに見た人間、エラ・エーデルワイスの姿だった。
「可愛かったね」
彼女が帰っていった後、彼女の去った後を眺めながらイオニコフはそう呟いた。瞬間、ぶわっと風が舞い上がったかと思うとイオニコフの隣にギーウィの姿が現れた。
ギーウィはイオニコフの視線を追うようにエラが去った道を眺める。
「あの子、魔力が封印されていたみたいだけど…なんでだろうね?」
イオニコフの質問は誰に向けられたものなのか。ギーウィはそれが自身に向けられた質問ではないことを判っていたので答えることもなくただ隣で座り込む。ただ、目覚めてすぐ何かに興味を引かれることは良いことだとそう内心に思いながらギーウィはイオニコフの横顔を眺める。
願わくば、主に手から溢れるほどの幸せを手に入れて欲しいと。
この出会いがその願いに繋がるとは、この時は思いもしていなかった。
「またあの子来たみたいだ」
そう話しながら窓の外を眺めるのはイオニコフ。窓の外に見えるのは旧校舎の玄関前の開けた場所で魔法の練習らしき動きをしているこの間の女の子だった。イオニコフの側で寝転んでいたギーウィは耳だけ傾け、何か返事するときはしっぽをぱすんぱすんと床を叩いて鳴らす。
「魔法の練習かな。でも、魔力を封じてるのに出来るわけないじゃないか」
本人には聞こえるわけないと知りながらイオニコフは呟いた。