第1話 わはわでわでわ? 2 (2)
ここからが秘密組織の本領発揮です。
これまでに世の中であまり言われてこなかった考え方を提案しています。
ぜひ、一度、読んでいただければと思います。
「わわわかい……?」
さっきも聞いたが、何のことだろう?
と、ミャアン! ニャアン! とネコの鳴き声が上がった。見れば、部屋のすみで白ネコと黒ネコがじゃれ合っている。さっきまで伽耶子と小春のひざで寝ていたはずなのに、いつの間に移動していたのだろう。
「ぼく、昨日、あの白ネコに秘密組織にスカウトしますって言われて、黒ネコにこのカードを渡されたんだ」
クラトがポケットにしまっていた白いカードを取り出して、茶ぶ台に乗せた。
「ナゴヒメからのメッセージカードだね」
一瞥してユーリが言う。
「ナゴヒメ? さっきもナゴヒメって言ってたけど……」
クラトがつぶやくと、ユーリが立ち上がって後ろを向き、ボードに「和姫」と書いた。
「かずひめ?」
クラトが読むと、ユーリが首を振った。クラトの方へ向き直って説明する。
「これでナゴヒメって読むんだよ。『なごむ』って言葉があるよね。『なごむ』はこの漢字を使って『和む』と書く。ぼくたちは彼女のことをナゴヒメと呼んでいるんだ」
クラトはカードに目を落とす。カードの最後に記された「和」という字を見て、これはカードの送り主の名前なんだと気がついた。そしてその送り主はきっと、あのとき後ろ姿を見かけた少女なのだろう。彼女が「ナゴヒメ」、和姫なんだ――クラトはそう思った。
ユーリはまたボードに向かうと、和姫と書いた隣に「真珠麿」「千夜空」と書き加えていた。そしてそれを見ながら、
「あのネコたちは和姫の飼い猫なんだ。白い方が真珠麿、黒い方が千夜空って言うんだって。真珠麿の首輪には小型のカメラか無線機か何かがついてて、和姫との連絡係をしてくれるんだ」
とミヤが説明する。
すると、黒ネコが抗議するようにニャアア! とうなり声を上げた。
「あ、千夜空もおつかいをしてくれるんだよ」
ミヤが補足すると、黒ネコが今度は満足そうにニャア! と鳴いた。
マシュマロとかチョコとかって、お菓子のことじゃなかったんだ。
クラトは声に出さずに、納得する。
部屋の引き戸の前で聞いたのは、お菓子のマシュマロとチョコレートではなく、二匹のネコたちのことだったらしい。
じゃれ合いをやめていたネコたちがユーリの足元にすり寄って来て甘えていた。ユーリは腰をかがめてそのネコたちをなでながら、ふと気づいたようにクラトの方へ顔を向けた。
「この部屋へは、トイレの階段を降りて来たの?」
ユーリがクラトに問いかける。
「そうそう、それだけどさッ、どうやって入って来たワケ? 階段通路の入り口って、扉、閉まってたやろ? あの鏡が扉になってることに、自分で気づいたってこと?」
威太郎が不思議そうに言う。
「あんたが閉め忘れたんじゃないの?」
伽耶子が茶々を入れると、「そんなヘマするかよ!」と威太郎が言い返す。
また轟々(ごうごう)やり出した二人を置いて、
「八角堂に伝わる『開かずのトイレ』の話、本物なんだよ。けどさ、その実態はオカルトじゃないんだけどな」
ミヤがにっと笑った。
八角堂七不思議の一つとされる、『開かずのトイレ』。
クラトは女子トイレの中をのぞいたことはないが、男子トイレに開かずのトイレなどないことは知っている。
男子トイレにある二つの個室。そのどちらとも、使用していないときはドアが半開きになっている。つまり、どちらのトイレも『開くトイレ』ということだ。開かずの、というのはおかしな話だ。
「え? 開かずのトイレって、本当にあるの?」
クラトは少し引いた。怪談話は得意ではない。
けれど、こういう話は怖いけれど気になってしまう。それはクラトも例外ではなく、ミヤの話の続きを待った。
「クラトは建物の構造がどうなってるかってさー、考えたことある?」
ミヤは唐突にそんな風に続きを切り出した。
ん? 建物のこうぞう? 耕三さん? 誰ソレ?
クラトの頭に、またハテナが浮かぶ。
わかっていないことが丸わかりの顔に、ユーリがさらりと補足を加える。
「建物がどういう造りなのか、どういう風に組み立てられているかっていうのを、構造っていうんだよ。『この建物は、大きな地震が来ても耐えられるだけの耐震性を持った構造になっているだろうか』とか、そういう言われ方してるのをテレビとかで聞いたことあるんじゃないかと思うけど」
ユーリに言われ、クラトは「この家は耐震性のある構造になっています」などと聞いたことがあったことを思い出す。
なるほど、『こうぞう』は「耕三」さんのことじゃないんだ、『構造』のことなんだ、と納得すると、今度はミヤが手ぶりをしながら話の続きに戻す。
「例えばさ、ここに柱があってここにこう壁があるってことは、この辺に隠し部屋があるぞ、とか推理するの、推理モノのマンガとかドラマとかで見たことない?」
「か、隠し部屋?」
「そうそう。建物の構造を考えると、ここに隠し部屋があるはずだー、って推理して調べてみたらやっぱりあったぞー、とかさ」
ミヤに言われて、クラトは少し考えてみる。いや、考えてみようとしたら、威太郎が横から話しかけて来た。
「っつーかさ、柱と柱の間が十センチしかなかったら、その十センチのところに隠し部屋を作るなんてさ、ええと、物理的に? 無理なワケ。けどさ、柱と柱の間が十センチあって、んで、建物を横から見たとき、柱が三十センチくらいの太さがあったら、壁の厚みが三十センチあることになる。っつーことはさ、その柱と柱の間のところに、五センチくらいの幅で、奥行きが二十センチくらいの、隠し戸棚だったら作れるッ!」
ええと、柱と柱の間がこれくらいで、それから壁の厚みがこうで、と、威太郎に言われたことを順を追って考えていくと、
「ああ、ホントだ」
と、クラトは威太郎の言うことを理解できた。
「んでさ、問題はここのトイレなんだけど」
とミヤに言われ、そう言えば開かずのトイレの話だったということを、クラトは思い出す。
「ホールの方から見たときにさ、建物の構造を考えたらさ、男子トイレがこっからここらへんまでで、女子トイレがこっからここまでだから、男子トイレと女子トイレの間にさ、一メートルちょっとくらいの空間があるってことに気づくわけ」
「男子トイレの中を、端から端まで何メートルあるか測って、次に、トイレの外側を端から女子トイレとの境界あたりまで測ったら、差があんの。壁の厚みとかもあるだろうけど、それにしたっておかしいんだ」
「んでッ、その男子トイレと女子トイレの間にある空間っていうのが、この部屋へ通じる隠し階段通路ってことなんだけど――」
と、ミヤと威太郎に交互に説明されて、クラトは「あっ!」と声を上げた。
「そっか。あの鏡扉から入ったとこ、あそこが男子トイレと女子トイレの間の空間になってるってことなんだ!」
クラトが言うと、ミヤたち二人は声をそろえて「そう!」と、小さく両のこぶしを握る。
「建物の構造を考えるとさー、そこに空間があることがわかるけど、表からは、つまり、ホールの方からはその空間には入れないんだ。扉もないし」
「それじゃあトイレの中からはどうなってんのかっつーと、壁には鏡がかかってるだけで、その空間への入り方はわかんねーワケ。だってさ、あの鏡が扉になってるなんて普通は思わねーってッ」
ミヤと威太郎に言われ、うんうんとクラトはうなずく。クラトだって、これまで何度もトイレを利用しているけど、あの鏡が扉になっていたなんて思いもしなかった。
「つまり、空間があると気づいた人がさ、空間があるのに空間に入れないから、その、謎の空間を『開かずのトイレ』があるぞ、って言うようになった。――ってことらしい」
ミヤがそう締めくくると、クラトは「ああ」と大きくうなずいた。
開かずのトイレは実際には存在しないけれど、トイレの内部に開かない空間なら存在していたということだ。
「そっかー。開かずのトイレって、『ない』けど『あった』んだね」
クラトが『開かずのトイレ』の正体に納得していると、
「ここへはその『開かずのトイレ』の謎――鏡が扉になっていることを知らないと入れないんだよ? そしてそのためには、扉を開ける仕掛けを知らなくちゃいけないんだけど」
ユーリが頭をひねる。ミヤも「そうそう」と相づちを打つ。
「待ち合わせ時間の少し前にさ、八角堂の表の門のところまで、威太郎が新メンバーを迎えに行くって張り切ってたんだよ。威太郎なら鏡の扉の仕掛けを知ってるから」
「なあ」とミヤに話をふられて、威太郎はうんうんとうなずく。
「新メンバーを呼んだから迎えてやってほしいって、和姫から連絡が入ってたんだよ。だからそのつもりで集まって待ってたんだけど……威太郎が迎えに行くより先に、クラトがここへ自分でたどり着いちゃったんだよね」
こんな展開は予想外だったと、ユーリが肩をすくめる。
それで威太郎はクラッカーまで用意してクラトを待っていたのだろう。
ちゃんと考えていてくれたんだと思うと、クラトはちょっとこそばゆい。
それにしても、言われてみればどうやってここへ入ることができたんだっけ?
クラトは八角堂の中へ入ってからのことを思い返してみる。
と、クラトは「あ!」と声を上げた。
「扉を開けたのは黒ネコだよ。ええと、千夜空、がタイルを回して枝のとこをこう、両手で下げたらカチャッて鍵の開く音がして……」
クラトが自分が見たことを手振りを交えて説明すると、そこにいた全員が「あぁ!」と納得した顔でうなずいた。
「真珠麿と千夜空は開け方を知ってるんだ。ぼくたちがやってるのを見て覚えちゃって」
そうか、千夜空がクラトを案内してくれたのかとユーリが頭をなでてやると、千夜空はくるるとのどを鳴らした。どうやら和姫のネコたちは、とても賢いようだ。
しかし――。
それではユーリたちはどうやって開かずのトイレの中へ入る方法を知ったのだろうか?
いや、それより何より、この部屋はなんだろう?
クラトは部屋の中を見回した。
八畳くらいの部屋で、ホワイトボードの向こうは天井まで、一面が本棚になっている。ただし、本は入っていないようだ。右手も同じような本棚になっているが、こちらは下の方の段は本で埋まっている。
左手奥には片開きのドアが一枚。その手前にはアンティークなローチェスト。床から一メートルくらいの高さしかない横長の木の収納箪笥だ。引き出しがいくつもついていて、その取っ手は凝ったデザインになっている。
チェストの上には、バッグが置いてあった。ユーリたちのものだろう。どさどさっと積んであるものや、きちんと置いてあるもの。置き方にも性格が出ているようだ。
チェストやドアの古美た風合いとそぐわないものが、その隣にあるテレビセットだ。薄型のテレビが、キャスター付きの移動できるテレビスタンドに取り付けられている。壁寄せ型のスタンドには、テレビの下に棚もついていて、DVDかブルーレイディスクのデッキが置いてあった。
「そっちにも部屋があるんだぜぇ」
クラトの目線に気づいた威太郎が、左手奥のドアを指さした。
「あ、そうだ。何か飲み物持ってこようか? 向こうの部屋には冷蔵庫とかお湯を沸かすところとかがあるの。お茶とか紅茶ならすぐに淹れられるのよ」
伽耶子が気を利かせると、それに張り合うように、
「コーヒーもあるぞッ」
威太郎がクラトに言う。
「コーヒーって、あんたは飲めないじゃない」
「飲むよッ! 飲んでるぞッ!」
「ミルクと砂糖をたっぷり入れて、コーヒーなんてちょびっとじゃない」
と、伽耶子と威太郎が言い合いを始める。
「え? え? ぼく、のど乾いてないから大丈夫だよ!」
クラトはあわてて止めに入るが、二人の言い合いはなぜか、カレーの具には何がいいかという問題に変わっていた。
止めるに止められず、「じゃがいもが」「にんじんが」と言うのを聞いていると、「厚揚げ」という単語が耳に入ってぎょっとする。ついつい聞いていると、「イノシシの肉」はいいとして、「ピーマン」と「こんにゃく」はないんじゃないかという疑問が頭に浮かび、クラトは二人を止めるタイミングを失っていた。
「イタ、カヤちゃん、その問題、どうせ決着つかないから保留にしてくれる?」
苦笑しながら止めに入るのは、やはりユーリだ。
「それよりここの説明が先だよ」
と前置きすると、ユーリはクラトの方へ顔を向ける。
「実はね、ここ八角堂の持ち主と管理人の三池さんがぼくたちの協力者で、活動拠点としてこの地下室を使えるようにしてくれたんだよ」
ユーリの説明を聞いて、
「それじゃあ、三池さんも共犯者、じゃない、ええと……」
クラトが口ごもると、「協力者だよ」とユーリが助け舟を出してくれる。
クラトはうなずいて、
「それじゃあ、三池さんも協力者なんだね。それって、みんなのことや和姫のことを知ってるってことだよね?」
クラトが確認すると、ユーリたちがうなずいた。
「そうだぜッ。ときどきお菓子も差し入れしてくれるんだぁ」
威太郎が親指を立ててにっと笑う。
三池が和姫のことを知っていて協力していると聞き、書架整理をしていない意味がわかった。あれは八角堂を休館にするための方便なのだと、クラトは気づく。
「まあ、公民館とかを借りてやってもいいんだけどね」
ユーリがさらりと言うと、
「え? そんなのないって! 雰囲気出ないから!」
「そうだよッ! オレたち一応、秘密組織だからなッ」
ミヤと威太郎から猛反発をくらう。
「一応?」
一応の秘密組織とは、どういうことだろう?
クラトが首を傾げると、
「ぼくたちの活動というか、存在というか、組織のことを、隠す必要があるかどうかなんだけどね。わざわざ隠さなくてもいいかもしれないとも思うんだ。秘密にするメリットはあるから、秘密にした方がいいかもしれないとも思うけど……」
「どっちがいいのかな?」と迷う様子のユーリ。彼の中ではまだ結論が出ていないようだ。
「秘密の方がいいってッ!」
「私もその方がいいな。だって、そうしないと、わわわ会のやろうとしていることを知らない人や知ろうとしない人たちに、引っ掻き回されそうだもん」
意見の一致を見せたのは威太郎と伽耶子だ。
「威太郎はなんで秘密の方がいいの?」
クラトが素直に疑問をぶつけると、
「そんなの、カッコいいからッ! 決まってんだろッ!」
威太郎の返答はキッパリ迷いがない。思わず「なるほど」と思うクラト。確かに、『秘密組織』という言葉の響きには、ミステリアスな魅力がある。
ユーリは「それじゃあ」と話を戻す。
「ちょっと話が脱線しちゃったけど、ネコたちも含めてここにいるメンバーの紹介もすんだし、ぼくたちの組織について説明しようか」
クラトは神妙な顔でうなずいた。いよいよ秘密組織の話が聞けるのだ。
「さっき話した和姫なんだけどね、彼女は数年前、自身が受け継いだ莫大な遺産を使って、ある目的を果たすべく、そのための組織を作り上げる決意をしたんだ。――そしてぼくたちが集められた」
ユーリが語る。クラトは息をのむ。威太郎は茶化すことなく、クラトと一緒になって大人しくユーリの話を聞いている。他のみんなもそうだ。
「彼女が作るその組織の名は――『わわわ会』」
ユーリはそう告げた。
「わわわ会……」
クラトはつぶやく。これまでの会話でユーリや威太郎が口にしていたそれが、クラトがスカウトされた組織の名称だった。
秘密組織というと怪しげだけれど、目の前にいる子供たちは明るく楽しく、おそろしげな雰囲気などみじんもない。
図書館の地下に部屋を用意するような組織とは、いったい何を目的にしているのだろう? クラトには想像もつかない。
「ある目的のために……?」
クラトの疑問に威太郎が答える。
「そうだぜッ! その目的っつーのは、あることを実現することなんだけどッ!」
そう言って、威太郎はユーリに目をやる。それを受けてユーリがうなずき、クラトに視線を当てる。クラトの背筋に緊張が走った。ユーリが口を開く。
「ぼくたちが実現しようとしているのは――」
と、ユーリはそこで言葉を切った。左右の仲間たちの顔を一人ずつ見て、最後にひたとクラトに目をすえる。他のメンバーたちも、クラトを見つめる。クラトは息をひそめ、耳に神経を集中させる。
わわわ会の目的とは――。
そして彼らは声をそろえて宣言した。
「――世界平和!」
※
「……セカイ、ヘイワ? ……セカイヘイワって、世界平和のこと?」
クラトがとまどった声を出す。
「おかしい? 世界平和だなんて」
少し笑いながらユーリがクラトに問いかける。
おかしいかと聞かれても、クラトにはよくわからない。ふざけているのかと思ったが、みんな冗談で言っているわけではなさそうだ。宣言したとき、彼らが誇らしげに、そして真剣な目をしていたからだ。
しかし――。
世界平和とはまたなんと大きな野望だろうか。いや、本当に世界平和などを目指しているのか。だってここにいるのは子供たちだ。世界を平和にするために、子供にいったい何ができるというのだろう。クラトは混乱した。
ユーリはクラトの方へ少し身を乗り出して、茶ぶ台に両手をつくと、その上にあごを乗せる。そしてしっかりクラトの目に視線を合わせる。クラトは両の目をからめとられたように、動けない。ユーリの目を見返して、言葉を待つ。すると――。
「クラトは、人を殺すことができる?」
ユーリが唐突な質問をした。
「え? ……ええ?! そんなことできないよ!」
わけがわからないままクラトが答えると、ユーリはさらに質問を重ねた。
「そうだよね。それじゃあ、自分が殺されてもいい?」
「そんなのイヤだよ」
クラトはとんでもないと、首をぶんぶん横に振る。
「それじゃあ、家族や友だちを殺されるのは平気かな?」
「平気じゃないよ! なに? なんなの? なんでそんなこと聞くの? おかしいよ!」
「おかしいかな?」
ユーリは手にあごを乗せたまま、首を傾げる。その目には、疑問というより、クラトを試すような色が浮かんでいたが、混乱しているクラトは気づかない。
「おかしいよ! 人を殺したり殺されたりするのが平気な人なんているわけないのに、なんで平気かどうかなんて聞くの? 変だよ!」
クラトにはめずらしく、強い口調で問いただす。対するユーリは動じることなく、キッパリと言い切った。
「それをおかしいって思うのは、今、ぼくたちが平和の中にいるからだよ」
「――え?」
クラトは目を瞬かせた。
ユーリはあごを乗せていた手を下ろし、茶ぶ台の上で手のひらを重ねる。すっと首を伸ばし、クラトを真っすぐ見つめて口を開く。
「もしも戦争になったら――戦争じゃなくても、いつでもどこでもテロや暴動が起こるような国だったら? そんな国だったら、人を殺すのも人が殺されるのも、日常の、身近なことになってしまうだろうね」
冷静な口調だが、ユーリが口にしているのはおそろしい内容だ。
「もしもこれから日本が戦争をすることになったら、自衛隊だけで戦わないと思う。昔の戦争のときだって、軍人として訓練していた人たちだけで戦ってたワケじゃないんだし。民間人が徴兵されるに決まってる。それってさー、オレたちの親や、オレたちの少し上の世代が兵隊にされて人殺しを強要されるってことだよな。というか、オレたちだって大きくなったらそういう目にあわされることになると思う」
「大人になってからとは限らねぇんだぞッ? 太平洋戦争のときは、沖縄でオレらくらいの子供を少年兵にして、アメリカ兵を殺すために実戦で使っていたんだって。もしも戦争が長引いていたら沖縄だけじゃなく、日本全国の子供たちが少年兵にされていたかもしれないんだぜ?」
「外国の戦場では、今だって小さな子供が銃や爆弾で戦わされているんでしょ? それに、昔は兵隊にとられていたのは男の人だけだけど、今は女性の自衛隊員も多いし。これからは女だから戦場に行かずにすむとは限らないわ。男女関係なく、兵隊にされちゃうんじゃない?」
ミヤと威太郎、伽耶子もそれぞれの意見を口にすると、ユーリがまた口を開く。
「戦争をすることになったら、ぼくたちが人殺しをしたり、自分や自分の大切な人を殺されたりすることになる。人殺しをしたりされたりすること――それが、戦争なんだ」
レンズの奥のユーリの目が鋭くなり、クラトの背筋をつーっと汗が伝い落ちる。その汗の冷たさに背筋が震えた。
「戦争っていうと大きなことすぎてわかりにくいけど、人殺しをしたりされたりできるかどうか――って考えたらね。とてもじゃないけど、ぼくにはできない。ぼくも――ぼくだけじゃなく、ここにいるメンバーはみんな、人を殺すのも殺されるのも耐えられない。いつ殺されるか、いつ人殺しをしなくちゃいけなくなるか、わからないような生活を送るなんてまっぴらだと思ってる」
ユーリは淡々とそう語った。
「う、うん。そうだね」
反射的にあいづちを打ちながら、クラトは自分の心臓の鼓動が速くなるのを感じていた。
徴兵? 少年兵? ぼくたちが兵隊にされる?
威太郎たちが畳みかけるように口にした内容は、正直なところ、クラトの頭の中ではまだ受け止め切れていない。ただ、人を殺すとか殺されるとか、そんなことはとてもできないという意見はうなずけるものだ。
テレビでは毎日のように誰かが殺されたニュースを報道しているし、交通事故で亡くなる人もたくさんいると聞く。
クラトの母親が病気で亡くなったのはクラトが赤ん坊のころなので覚えていないけれど、一緒に暮らしていた祖父が亡くなったのはクラトが幼稚園に通っていたころだからうっすら覚えている。
けれどぼんやりした記憶は少しのさみしさをともなうだけで、クラトにとって人の死は遠いものだった。過去の戦争で亡くなった人の死も、今現在、どこかの国で戦争で亡くなっている人の死も、遠いものだったけれど――。
「どうしたらそんな殺し合いと無縁でいられるだろうか? 戦争には関わりませんと宣言したところで、襲いかかって来られたら、やめてくださいではすまないだろう?」
ユーリに聞かれ、とまどいながら、クラトはうなずく。
「そ、そうかも」
「そんなときにはどうすればいい? 攻めこまれたら、それを防ぐ? そのために相手を攻撃するのは、いいのかな?」
え? え? え?
これまで考えたこともないことを次々とたずねられ、クラトの思考は停止する。
ユーリは答えを急がせない。じっとクラトの目を見て待っている。
クラトは深呼吸をして、自分の考えを絞り出す。
「……それはしょうがないんじゃない? だって、だからって反撃せずにいたらやられちゃうってことだよね?」
口にしながら、クラトの心は迷い始めた。他にないと思うのに、正しいことを言っている気がしない。
ユーリはまた質問を重ねる。
「反撃ってどこからどこまでが反撃なのかな? 攻撃されたらやり返す? 攻撃されそうになったらやり返していい? 攻撃されると思って撃って出たのに攻撃されなかったら? 攻撃するぞするぞと脅されていたら、攻撃される前に元を断たなくちゃいけないと考えてしまわないだろうか? それで攻撃してしまったら、それは反撃とはならないよね? 自衛のためにやったことだと認められる?」
クラトは、何も答えられない。
「日本の自衛隊は撃ちこまれたミサイルを撃ち落とす、迎撃用の備えを持ってるって話だけどさー。迎撃ミサイルが『迎撃』を飛び越えたら? 機械に絶対安全はないからさ、誤って他の国に向かうことだってあり得るだろ? その場合、日本から戦争を仕掛けたことになってしまうワケでさ。そこから戦争に突入しちゃうかもしれない」
言いながら、ミヤが真珠麿を飛び越して千夜空を指で突くと、千夜空からガウッと指先をかまれそうになり、あわてて指を引っこめる。
「日本に核弾頭が撃ちこまれたら、日本に落ちる前に撃ち落とせばいいのかな? ぼくはたとえ迎撃したとしても被害が出るかもしれないと思う。核弾頭を迎撃しても核爆発しないという意見もあるけど、場合によっては核爆発するかもしれない危険性を訴えている人もいる。核爆発しなくても電磁パルスや放射能汚染の被害が出るかもしれない。実際にどうなるかわからないのに、迎撃することで日本を守ることができると言える?」
ユーリの口からするすると言葉が紡がれていくが、クラトは何を言われているのか半分も理解できない。
真珠麿と千夜空にかまってもらえなくなったミヤが、
「結局さ、日本に核やミサイルが撃ちこまれるような事態になったら、それを迎撃したところで、日本やその周辺が戦場になることは避けられないんじゃないの、って思うワケ」
と発言すると、クラトは前にテレビで言っていた話を思い出した。
「あ! だから日本は核を持っているアメリカに守ってもらってるんだよね? 『日本に何かしたら、核弾頭をお見舞いするぞ』って、アメリカがにらみをきかせてるから、日本が他の国から襲われないんだよね?」
クラトが勢いこんで早口に言うと、
「『核の傘』ってヤツだろ? 確かに日本はアメリカの核の傘に隠れてるって言われてるけどッ、それってアメリカに守ってもらえるって意味じゃねーって」
「え? そうなの?」
ガンッ! とバットで頭をなぐられたようだった。
威太郎に言われてクラトは驚く。
アメリカに守ってもらえるというわけではない――?
クラトは目を見張っているけれど、伽耶子はあっさり「そうね」と同意する。態度も声も、平然としたものだ。クラトは意外な思いで伽耶子に目を向ける。
「アメリカが日本を守るために本当に核弾頭を使うかなんてわからないし。それに、アメリカが日本を守るってどういうこと? アメリカだけが戦うの? 日本人は戦わずに、アメリカ兵だけが戦って日本を守ります、なんてことになるなんて、おかしいでしょう?」
「むしろ、アメリカが戦争するときに、日本がアメリカの手先として使われることになってもおかしくないんじゃないの? 朝鮮戦争のときはアメリカ、っつうか、連合国軍の指示で――まあ指示っつーか命令でさ、日本と朝鮮半島の間にある機雷を処分するために、日本人も駆り出されたらしいしなー」
と言いながら、ミヤがため息をつく。威太郎は「それって戦争に駆り出されたってことだよなぁ」と顔をしかめた。
「日本がアメリカを盾にしようとしているにしろ、アメリカが日本を手先にしようとしているにしろ、守ってもらうのもらわないのなんて関係でいたら、対等に友好的につきあうことなんてできないでしょ? 核の傘の下にいたところで戦争を回避できるとは思えないし、そもそも日本を守るのに他国の手を借りるなんておかしいと思うわ」
「過去の歴史とか見てみても、軍事力の弱い国が大国の庇護に入るっていうパターンって、日本を含めて世界中にあったみたいだけど、その場合、対等な外交関係は築けていねぇもんなッ」
伽耶子と威太郎が口々に言う。ぎゃんぎゃん言い合うことが多い二人だが、意見が合うときもあるらしい。
「日本の国土が直接攻撃されることがなくても、日本人は今や、世界中のいたるところに住んでいるし、日本の企業も世界中に進出しているでしょう? 外国で戦争やテロに巻きこまれるかもしれないと思うと怖いわよね」
「だからと言って、海外に行くのをやめるわけにもいかねぇよなッ。日本の自給率は低いから、よその国から物を仕入れる必要があるし。経済効果? とか考えると、よその国に日本の商品を買ってもらう必要もあるしさッ」
「日本だけじゃなくて、日本の周辺や、日本が関わりを持っている国も平和でないと、貿易って成り立たないわよね」
「日本があまり関わりのない国だとしても、そういう国が他国から侵略されたときに我関せずでいるっていうのもダメだよなー。他国が攻撃されているときに無関心でいたら、日本が同じ目にあったときによその国から知らんぷりされて、助けてもらえないかもしれねぇからさッ」
伽耶子と威太郎が息の合った会話を繋ぐ。
そこにユーリやミヤも混ざって、話はどんどん、クラトにはわからない世界に進んでいく。
「他国が侵略されても、見て見ぬふりはできない。できないけれど、かといって日本が他国を武力で追い払うのか? それって、日本から戦争を仕掛けることになってしまうよね?」
「つまりさー、日本が攻めこまれないのも大事だけど、それだけじゃ不十分。日本以外の国も、他国から侵略されないようにしないといけないよな。そんでもって、日本も日本以外の国も侵略したりされたりしない状態って、世界が平和な状態ってことなんだよなー」
侵略したりされたりしない状態が、世界が平和な状態――?
世界平和――?
戦争をしない国でいるって、難しいことなの?
戦争をしようとしなければ、戦争はしなくてすむんじゃないの?
クラトは考えこむ。
改めて、戦争をすること、平和であることがどんなものか考えさせられると……クラトは、戦争も平和も、何もわかっていなかった自分に気がついた。
戦争ってどんなことなのか、平和ってどんなことなのか、ユーリたちはしっかりした考えを持っている。
それじゃあクラトは?
クラトは戦争は怖くてイヤなものだと思っていたけれど、それだけだった。
まじめに考えたことがなかったのだ。
どの国で戦争が起こっていても、テロが起こっていても、日本には関係がないと思っていた。自分たちはいつまでだって平和でいられると、ただ漠然と信じていた。疑ったことなどなかった。疑おうと思ったことすらなかった。
日本が昔、アメリカと――他の国とも――戦争をしたことは知識として知っていたけれど、戦後は仲良しになったのだと思っていた。ケンカをした後に仲直りするような、そんな感覚でいたかもしれない。
アメリカという、世界の中心にいる大国が日本を守ってくれているから大丈夫。そんな風に、どこか安心していたかもしれない。日本と違い、アメリカは何度もよその国を攻撃して戦争をしているようだから、日本がどこかの国から攻撃されたら、アメリカがやっつけてくれるような気がしていた気もする。
だけど、本当にそうなのだろうか?
ユーリたちの話はクラトにはわからないことだらけだったけれど、もしかしたら――?
もしかしたら、日本の平和は保障されたものではないのだろうか?
いや、今の日本にとって、戦争は必ずしも遠い存在ではないのかもしれない――?
だとしたら――。
クラトは知らず、ひざの上で固くこぶしを握っていた。手のひらにはじっとり汗がにじんでいる。
「あのね、えとね、もちろんね、自分たちが平和に暮らしたいからとかじゃなく、もっと単純に、戦争なんてダメだと思うよぉ。日本人かどうかなんて関係なく、世界中の誰であっても戦争やテロで死んでいいなんて思わないよぉ。かわいそおだもの」
小春が控えめに発言すると、ユーリたちも当然だとうなずいた。
「ぼくたちはね、世界を平和にしたいんだ」
ユーリが言う。
世界平和――と初めに言われたときは面食らった。
何を言っているんだろうと、正直に言うと、ちょっと引いた。
本気だなんて思わなかった。
だけど――。
今ユーリが口にした「世界を平和にしたい」という願いは、まったく違うものに生まれかわってクラトの耳から胸に、重く響いた。
世界平和は『世界平和』という単語じゃない。夢や理想といった、キレイだけどあいまいで形のない、手に入らないもの。そんな『実体』のないものではなく――。
世界を平和にする。それってそれって、ものすごい意味があるのかもしれない――。
クラトは身震いした。ユーリに真剣な目を向ける。
クラトの顔つきが変わったことに気がついたのだろう。ユーリは小さくうなずいた。
「世界を平和にする。そのために、わわわ会が作られたんだよ」
ユーリは力強い声で、そう告げた。
すると、自分たちも仲間だというようにネコたちが、ミャア、ニャア、と鳴く。
近くにいた翼が二匹をなでると、安心したように白と黒のネコたちは床に転がった。ふわふわのお腹を見せてごろごろと転がる二匹を見ると、平和そうだ。
二匹の姿に、クラトの肩から力が抜ける。胸の中がほんわか、あったかくなる。
そうか、こういうごろごろなのかも。
世界の平和が、この姿に繋がってくる。
これでいいじゃないか。
ユーリたちは難しいことを言っていたけれど、こうやってネコがごろごろできるような世界だったらいいと思う。これから先も、どの国も。
ごろごろを守りたい。
平和を、守りたい。
クラトの心に、すとんとその気持ちが下りて来た。
けれど――世界を平和にする方法なんて、あるのだろうか?
戦争をやめさせるために戦争をするようでは、平和は実現しないじゃないか。
ユーリたちが言っていたのは、そんな話じゃなかっただろうか。
「ど、どうやって平和にするの?」
クラトはごくりとつばを飲みこんだ。ここからが肝心だとわかっている。
あれだけのことを考えているユーリたちだ。きっと、わわわ会には、世界平和を実現するための、何かすごい秘策があるのに違いない。
そう思って答えを待つけれど――。
「クラトは、どうすればいいと思う?」
ユーリに逆に聞き返され、クラトは言葉に詰まる。
「どうすれば、って言われても……」
口ごもった後、脳裏に何かがひらめいた。次の瞬間、重大な可能性に気がついて、クラトは「あ! もしかして……」とつぶやいた。
「なに? なんでも言ってみて?」
ユーリが穏やかにクラトをうながす。
クラトは一度、深く呼吸をすると、口を開いた。
「――みんな、超能力者なの?」
クラトは真剣だった。
「超能力者ぁ?!」
威太郎が大きな声を出す。ユーリたちも目を丸くする。
「だって、みんなまだ子供でしょ? 大人だって世界平和なんて実現させることできないのに。子供が世界を平和にしようとしているなんて、特別な力でも持ってなきゃ不可能じゃない?」
この場にいる子供たちが超能力者なら、世界平和を目指す秘密組織のメンバーだったとしても不思議はない。不思議はないが……。
「さすがに、超能力は持っていないよ」
ユーリが、少し残念そうにゆるゆると首を振る。
「そっかぁ。そうだよなあ。超能力があったら、ちょちょいのちょいでこの世界を平和にすることができるかもしれないよなー」
威太郎が腕を組み、関心したようにうんうんとうなずく。
「超能力っていうか、私はみどりの指がほしいな。みどりの指があれば、世界中の武器や兵器を植物まみれにしてやるのに」
伽耶子はそう言いながら自分の手指を見つめる。みどりの指とは、童話に出てくる、植物を芽生えさせる親指だ。伽耶子の指はほっそりと長く美しいけれど、残念ながらみどりの指ではない。
「そうだね、武器や兵器を使えないようにすることができれば、平和の実現に近づくよね。だけど、ぼくたちはみどりの指を持っていないし超能力だって持っていない。――でもね、そんなものなくたって、この世界を平和にすることはできるんだよ」
ユーリは力強く断言する。自分の主張に迷いがないのだろう。
だが、どうやってこの世界を平和にするつもりなのだろうか?
クラトは息をのんで、ユーリの言葉を待つ。
「どうすれば世界を平和にすることができるか。それをなしとげるために、ぼくたちわわわ会が進めているのが……」
ユーリは一度、言葉を区切る。そしてまっすぐクラトの目を見て言い放った。
「世界平和実現計画――『全世界全人類ソウ力化プロジェクト』――だよ」
緑化プロジェクト――?
いや、違う?
そのプロジェクト名からは、どんな計画なのか想像がつかない。
クラトは思いあぐね、難しい顔になっている。
「ちょっと待ってろよッ!」
威太郎がにわかに立ち上がると、ローチェストの中央にある引き出しから、何かを取って戻って来た。威太郎の手にあるのは――。
「巻物?」
バトンのような筒型に丸められた和紙は、時代劇で目にする巻物と同じ形状だ。
「そうだぜ! カッコいいだろッ」
ほら、見てみろよと威太郎に手を突き出され、クラトは慎重な手つきで巻物を受け取った。
巻物は、軸に巻いた紙が緩まないように、濃い緑の細ひもを巻きつけて留めてある。表紙は鮮やかな若草色だ。
表紙の上部には細長い白い紙が貼りつけられ、そこには『草及万里』と書かれていた。これがこの巻物に書かれている内容のタイトルなのだろう。
「くさ……およぶ……まんさと?」
クラトは頭をひねる。
と、すかさずユーリがタイトルを読んでみせた。
「『そうきゅうばんり』って読むんだよ。『万里』っていうのは、『はるかかなた』とか『ずっと遠くまで』とか、そういう意味。草を万里に及ぼす、つまり、はるか遠くまで『草の力』を行き渡らせようって意味なんだ。みんな、『草の書』って呼んでるけどね」
草の書? 草の力?
『草の書』とはまた、忍者の巻物っぽい呼び方だ。
ユーリたちは超能力を持っていないと言っていたから忍術の秘伝の書ではなさそうだが、この巻物にいったい何が書かれているのだろう?
「早く開けてみろよ」
威太郎に急かされて、クラトは細ひもをほどいて紙を少しずつ広げる。現れた白い和紙に、黒々と美しい墨字が流れるように連なっていた。
火難あり 燃ゆれば 山 灰燼に帰す
風に運ばれ 種 落つれば
慈雨を得て 焦土に芽吹く
生え初める碧き草々 荒漠たる大地を覆う
青草はやがて枯れ 腐れ 大地を肥やす
草は苗床 若木は根づき 大樹となる
木の間を埋め尽くすのも また草なり
木々の根元に 下草は萌え薫る
草は糧 動物たちは 草を食み 命をつなぐ
ひと草 ひと草は 微力であろうと
肥沃な大地を つくりあげ
ゆたかな緑に 変わりゆく
名を知られることなく 枯れようとも
顧みられることなく 踏まれようとも
埋もれ 目立たぬ 名もなき草も
和らぎの心 持ちよりて
陰ひなたに 根を張れば
命を育み 命を廻らす 土壌とならん
「コレ、オレが書いたんだぜ! すげーだろッ!」
威太郎が得意げに言うと、伽耶子がすばやく反応する。
「ちょっと、デマカセ言わないでよ」
「デマカセじゃねーもん」
威太郎は悪びれない。キリキリつり上がる伽耶子のまゆ。
「確かに、字を書いたのはイタだからウソは言ってないけど。中身の文章を考えたのはイタじゃないからウソとも言える。この件に関しては引き分けでいいんじゃない?」
ユーリが仲裁に入ると、二人は「えー」と不満げな声を同時に上げた。
「中身を考えたのは、この支部の支部長なんだ。翼と同じ上宮小で、ぼくと同じ六年生」
「それ、ユウ兄も一緒に考えたんだよ」
伽耶子がすばやくつけ加える。
「ぼくはちょっと相談に乗っただけ。考えたのは、あいつだよ」
「で、書いたのはオレ」
「まだ言ってる」
伽耶子と威太郎はにらみ合う。
二人をよそに、クラトはじっと書に見入ると、感嘆した声でぽつりと言った。
「……すごいよ、威太郎」
「え?」
その場の子供たちの目がクラトに注がれる。
「それ、威太郎は書いただけなんだけど」
ミヤが首をひねりながら言うと、クラトはぶんぶん首を振った。
「だって、すごくキレイな字! ぼく、習字は苦手だから……こんなにキレイに書けないよ」
クラトは大事そうに両手で書を掲げながら、目を輝かせる。
確かに、威太郎が書いたという字は素人目にも美しい。習字で使う太い筆ではなく、名前を書くときなどに使う細筆で書いたと思われる細い字だ。細いけれど、貧弱な感じではない。
それにしても、素直な賞賛だ。クラトの反応は意外なもので威太郎でさえ目を丸くしていたが、数瞬後にハッと我に返ると、クラトの肩をバシバシ叩いた。
「ほ、ほらな! やっぱり、わかるヤツにはオレのすごさがわかるんだよッ!」
「うん。すごいよ!」
照れ隠しに威太郎が大きな声を出すと、クラトはそれには気づかず、にこにこと威太郎に笑顔を見せる。
威太郎は「うっ」と言葉に詰まると、下を向いて恥ずかしそうに頭をかいた。
「よかったな、イタ。よき理解者ができて」
「なんか、ほほ笑ましくなってきた」
ユーリとミヤはうんうんとうなずいている。
「あのね、あのね、いっくんはパパの命令でぇ、ちっちゃいころからお習字の先生に字を習ってるのぉ。小春もやってたけど、字がにょろにょろしちゃうからすぐにやめちゃった」
小春がふふっと笑う。
「あのクソ親父、小春には劇甘なんだよ。オレには超スパルタなのにッ!」
威太郎が口をとがらせる。
「いっくん、また汚い言葉使ってるー。パパに言いつけちゃうよぉ」
「やめろよッ! 言いつけたら毎日つねってやるからなッ!」
威太郎はあわてた様子で、クラト越しに小春に食ってかかる。
「こら! わわわ会のメンバーが、脅迫しない!」
「べ、べつに脅迫なんかしてねーしッ」
ユーリにしかられて威太郎がもごもご言い訳していると、「それより『草の書』の話は?」と、ミヤが横から口を挟む。
「それ、本当にすごいのは、中身だからな?」
ミヤがビシリ! と、クラトが持つ巻物を人差し指で指す。
クラトは巻物を見つめると、まゆをハの字に寄せた。
「ごめん、正直に言うと、意味はよくわからなくて……」
巻物に書かれた文章は難解だ。
草や木といった簡単な漢字も入っているけれど、『火難』や『灰燼』などは読み方すらわからない。『火』や『灰』とあるし、『燃ゆる』とあるので、火事になって山が灰になったということだろうか?
少し固い感じの言い回しや美しい字とあいまって、なんだかカッコいいと思うのだけれど……なんのことを言っているのか、さっぱりと言っていいほどわからない。
そんなクラトを、「まあ、そりゃそうだ」とミヤはあっさり受け止める。
ユーリもくすくすと笑いながら「そうだね」と同意した。
「序文は――出だしのところを『序文』って言うんだけど――ちょっとかっこつけすぎなんだよ。まあ、秘密組織なんだからこれくらい雰囲気出した方がいいんじゃないか、って考えていったら、ちょっと難しくなっちゃって」
わかりにくいよね、とユーリがこぼす。
おそらく、ユーリではなく、この巻物の中身を考えたと言われている支部長とやらが、カッコよくしようとしてこんな難しい文章を作ったのだろう。
「序文は『植生遷移』を下敷きに書いたものなんだ。だから、使っている単語や言い回しが難しいだけじゃなく、植生遷移を習っていないとわからない内容になってるんだよね」
ユーリはそう言うと、「ちょっと待ってて」と席を立つ。
「本当は『乾性』とか『湿性』とか、区別はあるし、苔とか菌類とか、細かいことを言い出すと話がうまくまとまらなくなっちゃうんだけど」
と、誰に話すともなしにしゃべりながら左手の本棚の前へ移動する。ユーリは下から五段目の右端から一冊の本を取り出して戻って来た。それを茶ぶ台に広げて、「見てごらん」とクラトの方へ本を寄せた。
「自然界ではね、例えば山火事とか火山の噴火とかで、一帯の土地が全焼してしまうことがあるんだよね。山や森があっても、ひとたび火災が起きたり、噴き出した溶岩が流れて来たりすると、焼けて草木も何もなくなってしまう。だけど、風に乗って種が運ばれて、丸焦げになった土地に落ちて、そこに雨が降って、種が芽を出し、草が生えるんだ」
ユーリが持ってきたのは、『森ができるまで』という絵本だった。文字はほとんどなく、森が燃え、黒焦げになった土地に種が落ちる様子などが、絵を見るだけでもわかるように描かれている。ページをめくっていくと、丸焦げだった土地は、草原になっていた。
「何もない土地でもね、まずはこんな風に草が生えて、それから木々が育ち、生き物が暮らせる森になるんだ。そしてそこに『生態系』が築かれる」
「せいたいけい?」
「植物や動物が関わり合って、命がバランスよく繋がり合っていくことを『生態系』って言うんだけど、聞いたことない?」
ユーリに聞かれ、クラトはハッとする。クラトが好きな番組で何度か耳にしてきた言葉だったからだ。
それは、よそから来た、昔はその池にいなかった魚を、池から取り出すという人気番組だ。
番組の中で、よそから来た魚はその池の生態系を壊すから、そのまま池に放っていてはいけないのだと説明がされている。
その番組で、中国から輸入してきた魚が池の水草を食べつくしたことで生態系が壊れてしまい、池の水が濁ったと、専門家の先生が解説していたことがあった。
自然というものはよくできていて、ちょうどじゃんけんのような関係になっている。じゃんけんは、グーはチョキに勝ち、チョキはパーに勝ち、パーはグーに勝つ。逆に言えば、グーはパーに負け、パーはチョキに負け、チョキはグーに負ける。グーが抜けても、チョキが抜けても、パーが抜けても、じゃんけんは成り立たない。
自然も同じだ。水草は水をキレイにする浄化作用を持っている。また、魚の隠れ場所になったり、光合成を行って、魚が生きるために必要な酸素を作り出す働きもある。水草が抜ければ、自然はうまく成り立たない。
「生態系って、壊れちゃうと、自然が壊れちゃうんだよね? 池が濁って汚くなって、生き物がすめなくなったりするんだよね?」
クラトがテレビで聞きかじった知識を口にすると、威太郎がぴんときたようで、
「あ! クラト、池の水抜くヤツ見てるだろッ! オレもオレも! パート1からずっと見てるぞッ!」
と自分を指さす。
「オレも見てるぞ」「私も」と声が上がる。
そのままその番組の話に移ってしまいそうな気配を感じたのか、ユーリがさすがに「話を戻すよー」と声をかける。
「草がないところに、いきなり木が生えたりはしないんだよ。それは、木が育つだけの養分や保水力が、その土地にないからなんだ。何もない、裸の土地だからね。だけど、木が育つだけの養分や保水力がなくても、草なら育つ。それじゃあ、草が育つとどうなるか――雑草の根が土の中に毛細血管のように張りめぐらされていくと、その根によって土が掘り起こされる。やがていつしか根が枯れると、抜け殻となった根の後が小さな小さな空洞になる。土の中に根っこの後の空洞が空いていくと、土がスポンジのように水を吸って、蓄えておけるようになるんだ」
ユーリは生活科や理科の授業でもするように、よどみなく説明する。
と、
「あ、カイワレ大根」
ふいに思いついたというように、ミヤが口にした。
「カイワレ大根〜?」
威太郎がいぶかしむ。
「カイワレ大根ってさ、空き瓶とかに水を入れて水耕栽培すっと、根っこがうじゃうじゃになんの。あれが水の中じゃなくて土の中だったら、根っこが土の中にうじゃうじゃになって、その根っこが枯れてその部分が穴になったら、ほんと、スポンジみたいになると思う」
ミヤの説明に、めいめいがカイワレ大根を脳裏に浮かべる。
「おおー。そうかも」
ミヤの言う「うじゃうじゃ」に納得がいったようで、威太郎が同調する。他のメンバーも「あー」とか「んー?」とか言いながら、ミヤの言いたいことはわかったようだ。
クラトもカイワレ大根の、絡み合った細い根っこを想像してみる。スーパーで売っているカイワレ大根のポットは、細い繊維を集めたスポンジにカイワレ大根が生えている。あの、カイワレ大根の根とからみあった細い繊維のスポンジはすき間がいっぱいあって、よく水を吸う。まだ頭の中でうまく整理できないが、なんとなく、ユーリの言っていることがわかった気がした。
「土がスポンジみたいに水を蓄えられることを保水力があるって言うんだけど。草が根づくことで、その土地に保水力がつくんだ。そしてね、草が枯れて腐ると、その枯れて腐った草が土地の養分になるんだよ。だから木が育つことができるようになる。それに、草は虫や鳥や動物たちのエサになる。つまりね、草が生えていくことで豊かな森が育って、生き物たちが生きていけるようになるんだ」
と、絵本のページをめくりながら、ユーリが説明をざっと終える。最後に、
「草木も生えていない土地が森に変わって行く流れを『植生遷移』って言うんだよ」
と締めくくった。
クラトは、アメリカで山火事があったというニュースを見たことがあったけれど、燃えているところを見ただけだった。ハワイで火山が噴火したときは、溶岩が流れた後の様子がテレビのクイズ番組で紹介されていた。黒い岩のような土地になっていたのを思い出す。だけど、山が燃えた後、溶岩に埋め尽くされた後、その土地がどうなったかなんて知らないし、興味を持ったこともなかった。
木が伐採された森に植林をしているところなら、ニュースで見たことはある。けれど、そうやって人間が植えなくても、自然は自然に森を作っていくことができるのだ。
そして、そのときキーポイントになるのが――草?
「大きな木や生き物たちを育てるのは、名前もわからないような雑草なんだ。ただの草が、寒々しい何もない世界を、豊かな世界に変えていくんだよ」
と言いながらユーリが見つめるのは、茶ぶ台の上に広げられた絵本の見開きだ。そこには、草が生え、木が育ち、森になった姿が描かれている。
ユーリは顔を上げて真っすぐクラトの目をとらえると、
「草の力って、すごいと思わない?」
と、にっこり笑った。
草の力……。
クラトは草の書を茶ぶ台の空いたところに広げ、もう一度、出だしのところを読み返してみる。ユーリの話を踏まえて読んでいくと、山火事で丸焦げになった土地に種が落ちて芽が出て草が生える。それから木が生えて森になる。おぼろげに、そういう内容なのだろうとわかった。
ただ、後半がよくわからない。
「ひと草、ひと草は、ええと……?」
「微力」が読めずにクラトが言いよどむと、
「それは『びりょく』って読むんだよ。わずかな力ってこと」
とユーリが教えてくれた。
ということは、草一つ一つはわずかな力でも、豊かな森を作っていく。そういう意味なのだろう。ようやく『序文』に書かれていることを、だいたいつかむことができた。
それにしても、この草の話が、世界平和のためのプロジェクトにどうかかわっているのだろう? クラトには見当もつかない。
「火難あり。燃ゆれば山、灰燼に帰す。風に運ばれ、種、落つれば、慈雨を得て、焦土に芽吹く。生え初める碧き草々(くさぐさ)、荒漠たる大地を覆う。青草はやがて枯れ、腐れ、大地を肥やす。草は苗床。若木は根づき、大樹となる。木の間を埋め尽くすのもまた、草なり。木々の根元に下草は萌え薫る。草は糧。動物たちは草を食み、命をつなぐ。ひと草ひと草は微力であろうと、肥沃な大地をつくりあげ、ゆたかな緑に変わりゆく。名を知られることなく枯れようとも。顧みられることなく踏まれようとも。埋もれ、目立たぬ名もなき草も、和らぎの心持ちよりて、陰ひなたに根を張れば、命を育み、命を廻らす土壌とならん――かぁっこいいよなぁー!」
威太郎は序文をすらすらと読み上げた。少し元気すぎる口調なところが威太郎だ。
クラトでは、頭の中でさえつっかえつっかえ、こんなにすらすらと読むことはできない。いや、それ以前に、読めない漢字もあった。
何度も読む練習をしたのか、それとも、日ごろからたくさんの本を読んでいる威太郎だからか。威太郎はリズミカルに読み上げた。これはたしかにカッコいい。
クラトが、序文のリズムの余韻を頭の中で追いかけていると、ユーリがぽつりと言った。
「ぼくたちはさ、子供だよね」
それはそうだ。あたりまえのことだ。
クラトは、ユーリが何をいいたいのか続きを待つ。
ユーリはもう一度繰り返した。
「ぼくたちはまだ子供だ。それも、テレビで名が売れた子役でもなければ有名なユーチューバーでもない。十代で世界を飛び回って活躍している天才ピアニストでもない。何者でもない、ただの子供で。世界中にたくさんの人がいる中で、ぼくたちのことを知っている人間なんて、身近にいるわずかな人たちだけだよね。――そんなぼくたちは、名もなき草と同じなんだ。この世界からしたら、ちっぽけで、いることにすら気づかれないような、そんな存在だよ」
名もなき草――?
ぼくたちが――?
クラトはユーリをまじまじと見つめる。
自分たちのことを「ちっぽけな存在だ」と言いながら、ユーリの目は力強い。
なぜなら、ユーリは信じている。
ちっぽけな存在の、ちっぽけな力を。
「だけどね、そんな小さな存在でも、草が森を育てるように、この世界を豊かにするための力になることができるんだ。人々の暮らしを豊かにするためには、大きな力がなくても、草のような小さな力で十分なんだよ」
「草のような小さな力?」
「ぼくたちのように、ううん、ぼくたち子供だけじゃなく大人であっても。政治家でも有名人でもなんでもない、なんの権力も影響力も持たない、普通の一般人――名もなき草のような人たちの力で、この世界を変えていける」
ユーリはそう言い切った。茶ぶ台の上の乗せた手に、ぎゅっと力が入っている。
名もなき草のような人たちの力で、世界を変えていける――?
本当にそんなことが可能なのだろうか――?
クラトにはまだ、何も見えない。
ここから、話が難しくなります。
戦争について考えるのはつらいかもしれませんが、子供たちと一緒に考えていただければと思います。
しんどいかもしれませんが、この続きを読んでいけば、ここに書かれていることがどう生きて来るのか、わかってもらえるのではないかと思います。
続きも、読んでいただければと思います。