第8章
とうとう、ロチェスター中の人間が待ちに待った、ローラとトミーの結婚式当日が訪れた。ローラはその日を自分の人生の晴れ舞台というより――何か不吉なことの起こりそうな予感のする一日として、朝を迎えた。
居間や食堂やキッチンには、朝早くから村の婦人会の人々が押しかけ、料理の準備に余念がなかった。サイレス・チェスター夫人も、ロバート・スミス夫人も、ヘンリー・レナード牧師夫人も、それぞれ自分の自慢料理の一品を伯爵夫人に食していただこうとバスケットを満たしてきたし、キッチンではジョスリンが采配をふるって、料理女たちを指揮していた。
綺麗に片付けられた居間と客間にはダマスク織りのテーブル掛けのかかった大きなテーブルが並べられ、部屋の飾りつけもほぼきのうのうちに終わっていた。本当はローラはこの家で小ぢんまりと少人数による結婚式を行いたかったのだが――人数の関係もあって、婚礼の儀は教会のほうで執り行われることになったのだった。
それでも伯爵夫人を一目見ようとやってきた人々の多くは、教会の後ろで立っているということになるだろうし、招待状を実際に持っている人だけが、結婚式が終わったあと、ローズ邸でのパーティに出席できるということになっていた。
ローラは顔を洗って着替えてから、騒々しい物音や人の話し声で満ちている階下へとそっと下りていった――玄関ホールのところには、ふたりの若い娘が受付嬢として立っており、伯爵夫人がいつ参られるかと、震える思いで待っている様子だった。
「おはよう、ロゼッタ、ドナ」
質素な、落ち着いた濃いブルーのドレスのドナと、派手な薄い緑色のドレスを着たロゼッタ。ローラはふたりと同い年で、学校で同期だったわけだが、特別親しいというほどの間柄ではなかった。むしろローラのほうでふたりを嫌っていたし、その感情はなんとはなしに昔から感じていたふたりのほうでも、ローラのことを特別好いてはいなかった。
ただ、この場合は礼儀上挨拶しなくてはならないと、ローラは努めて嫌悪感を顔にだすまいとしたまでである。
「まあ、ローラ!あんたったら呑気ねえ!これからミネルヴァ伯爵夫人がお見えになるっていうのに――まだそんな格好をしているの?花嫁衣裳を着るにはまだ早いとしても、せめて一番の晴れ着を着ていたらどう?もちろんあなたの気持ちもわからないではないけれど――何をどうしたらいいかわからなくて、混乱しているのでしょう?わたしもドナも、お昼からはじまるパーティの時の打ち合わせを今していたところなのよ!ほら、もうすでに祝電がいくつも届いていてよ――あなたの父方のリー家の親戚の方々やら、他にもたくさん。結婚祝いのプレゼントはとてもここに置ききれなくなるでしょうから、あなたの二階のお部屋に、運ばせてもらうことにするわね」
ローラは曖昧に微笑んで、ふたりに「ありがとう」と言った。ロゼッタのほうはすっかり興奮状態にあったのでそれで済んだが、ドナはローラから顔を背けていた。実はつい先日の五月の二十日に、彼女とケネスの結婚式が行われたのであったが、ローラはドナのブライズメイドになることを断っていたのだった。
ロゼッタはふたりの間に気まずい沈黙が落ちているのにも気づかず、出席者名簿に目を通し、自分の名前のあるところにチェックのレ点を入れていたが、ローラはドナにあやまるべきかどうか思いあぐね、結局そのままその場を通りすぎることにした。
「まあまあローラ!何をこんなところでぼやっとしているの!母さん!ローラの部屋に朝食を運んでちょうだい!あとのことは全部、あたしがうまくやるから!」
髪をポニーテールに結い、素敵なネイビーブルーのスーツを着たジェシカが、台所に向かって声を張り上げた。
「さあさあ、今日の主役は二階へいきましょうね!」
ローラはジェシカに背中を押され、半ば強引に引っ張られるような感じで、階段を再び二階へと上がっていった。
「しーっ!何も言うことはないわ。あんたが居間やら台所やらに顔を見せたら、うるさ方がわいのわいのくっちゃべりはじめて収まりがつかなくなるだろうからね。じっと上で待機してるに限るよ」
ローラは困惑したように目をしばたたかせたが、次の瞬間にはまったくジェシカの言うとおりだと思い、花嫁衣裳のある自分の部屋で軽い朝食を済ませることにしたのだった。
ところで、村中の人間がミネルヴァ伯爵夫人の来訪を今か今かと待ち設ける中で――ただひとり、そのことを面白くなく感じる人物がいた。つい先日ケネス・ミラー夫人となったドナ・マクドナルド・ミラーである。彼女はただ義理の気持ちから受付係を引き受けたわけであるが、自分の結婚式があまりにも小ぢんまりとしていて少人数の人しか集まらなかったのにも関わらず――ローラの壮麗な結婚式がこれから教会に人も入りきらないくらいの規模で執り行われるのかと思うと――嫉妬に身を焼き焦がさんばかりであった。
(その上あの人は、あたしのブライズメイドを断ったのですからね!きっと心の中では笑っているのでしょうよ――あなたとわたしとでは身分が違うとでもいうように。まったくもう、何をそんなにロゼッタは浮かれているのかしら?学校時代からローラは、あたしたちを小馬鹿にしたような態度だったというのに)
ローラがドナとロゼッタを嫌っている理由については、おそらく鈍いドナには考え及びもしなかったかもしれない。ローラがこのふたりを嫌った理由はこうである。このふたりは――というより、実際にはこのふたりだけではなかったが――ビリーが結核菌が移ると学校のみんなにふれまわった時、ローラのことを黴菌を見るような目つきではっきり敬遠したのである。ドナにとってもロゼッタにとっても、それは今では「そんなこともあったかしら?」というような、遠い彼方の記憶であるに違いない。だがローラにとってはそうではなかった。彼女にとってはあの時自分の味方をしてくれた人間だけが――今でも唯一心の友なのだった。
ドナは自分の結婚式以来、心が塞ぐことばかりでとても苛々していた。確かにケネスは素晴らしい男性には違いなかったが、結婚式の翌日には海軍へ入隊してしまったのである!彼女はケネスの崇高な理念のことを思い、なんとか自分の心を慰めようとしたが、無駄だった。結婚式前までは、あんなにロマンチックに燃え立っていた恋心も――彼が初夜の翌日に顔色ひとつ変えずに列車へ乗りこむのを見て、一気に鎮火してしまった。何故なら……おお!何故なら!彼は自分のことなど本当は愛していないのだということに、その時ドナは初めて気づいたのだから!
(あの人は――ただ、結婚したかったのよ。海軍へ入隊する前に。初めての夜を過ごした次の日の味気なさといったらなかったわ。まるで、「君のことはもうよくわかったから、これから何年も会えなくても結構」というように、清々しい顔をして汽車に乗りこんだのですからね。わたしのほうは涙を流したけど――それだって、彼を愛していて流れた涙なのかどうか、今ではよくわからない。果たしてあたしは、もし彼が死んだという報せを受けとったら――悲しみのあまり泣くかしら?それとも自由になったこの身を思って喜ぶかしら?)
ドナは、ローラのことが羨ましかった。トミーとは学校時代からの仲良しで、今も本当に愛しあっているのだということが、お互いを見る目つきでよくわかる。学校時代は、もやしっ子のローラとボーフラのトミーと呼ばれてからかわれたふたりだのに――これは一体どうしたわけなのだろう?ドナは村中の浮かれ騒ぎも気に入らなかった――あたしのケネスだって、海軍へ入隊したじゃない!そう叫びたくてたまらなかった。そしてその鬱屈とした思いを晴らすべく、ひとつのある陰湿な計画を考えついたのである。
(今朝、ジョスリン・フラナガン御自慢の特製スープの中に、イヌサフランの葉を刻んだのを混ぜてやったわ……どのくらいの毒性があるのかは、あたしにもわからないけど、帽子山に住む変わり者のばあさん、エメリン・ゴールディの話によると、人を死に至らしめるほどの毒があるということ……もちろんあれだけの大鍋だし、そこにほんの一包み葉を刻んだものを入れたところで、人が死ぬとも思えないけど……腹痛で倒れたりする人くらいはでるかもしれないわね。そうしたら、きっとパーティはめちゃくちゃになり、ローズ家は末代までこの恥を抱えこむはめになるでしょうよ――いい気味だわ。伯爵夫人があわや毒殺なんて、これほどのスキャンダルはこの村はじまって以来に違いないもの)
ドナは容姿のほうは十人並で、これといって人の目を引くような特徴のある娘でもなく、仮に毒殺騒ぎが起こったとしても――おそらく誰ひとりとして彼女に嫌疑をかけることはないだろう。その黄色い髪に縁どりされた、薄い眉や力強さのない灰色の瞳、小さな鼻、あまり微笑むことのない唇――それらを臆病そうに引きつらせたなら、誰も彼女を疑おうなどとは思わないに違いない。
第一、 もし毒殺騒ぎが起きたと仮定して、警察が現場検証にきたとしたら――疑いはほぼ、村の婦人会の全員にかけられることになるだろう。何故なら、ジョスリン特製のスープに近づくことのできる機会はみなに等しくあったのであるから――その中でローラに恨みを持っていたり、ローズ家に復讐を企てる人間というのはまずほとんどいないといってよい。おそらく事件は政治的な理由によって伯爵夫人を狙ったものと断定されるだろう。
そう考えると、浮かれはしゃぐロゼッタの横で、ドナは初めて心から笑うことができた。
(ああ、これから起きることがとても楽しみだわ――早く十二時になって、結婚披露のパーティが始まるといいのに。村中のみんなが、ジョスリンの特製スープの美味しさを知っているから、きっとほとんどの人があの毒入りのスープを飲むでしょうよ。でもまずジョスリンに疑いがかかるということはありえない――何しろ新郎のお母さまですものね。このことも、この計画の大切なポイントだわ)
ロゼッタはドナが突然陽気に、そして快活になったのを見てなんとなくほっとした。内心では彼女の服装を地味であまりぱっとしないと思っていたが、ドナが自分の薄緑色のオーガンディーのドレスをとても褒めてくれたので、お返しのような感じで、ロゼッタもドナのドレスや髪型、容姿のことをお世辞で褒めることにした。
「なんにしても、ケネスがこの場にいないのが残念ね。あの方もトミーと同じで、崇高な理念のために、海を越えた戦地へ赴くだなんてね――ああ!あたしのハリーがもし陸軍にしろ海軍にせよ、兵役につかなくちゃいけないなんてことになったとしたら、あたしならきっと耐えられないわ!」
ドナはロゼッタの上っ調子な性格や話しぶりに合わせながらも、心の中では彼女を軽蔑し、せせら笑っていた。そしてこう思った――ケネスの言っていたとおり、これからますます戦争が激化し、ロゼッタの大切な婚約者であるハリー・ノートンも農具を捨てて銃をその手に持つようになればいいのに、と。
さて、ロチェスター中の人間が待ちに待ったミネルヴァ伯爵夫人がとうとうクイーン駅に到着し、村長のステファン・アーヴィングが村を代表して出迎えにいっていた。伯爵夫人は身の回りの世話をさせる年老いた乳母だけを一緒に連れてきており、駅のホームのところで着飾った村の夫人たちや帽子を胸のところにあてた多くの農夫たちに歓待された。
アーヴィング村長が威厳のある、緊張した面持ちで、幾つか型どおりの挨拶をすませると、小さな可愛らしい様子をした子供たちが三人、花束をそれぞれ伯爵夫人に手渡した。
「我がロチェスター村へ、ようこそお越しくださいました、ミネルヴァ伯爵夫人」
デヴィッド・モーガンの家の三つ子たちが、それぞれスカートの裾をちょっと持ち上げて伯爵夫人に優雅に挨拶すると、夫人のほうでも相好を崩して、三人の可愛い金髪の娘たちにキスをしたのだった。
「まあ、ありがとう!とても綺麗なお花ね。そしてあなたたちのなんて可愛らしいこと――お名前を聞いてもよろしくて?」
三つ子たちは伯爵夫人の幾つも襞とりのしてある豪華な絹の衣裳や、胸元に輝く大きなダイヤモンドの宝石、それにあった素敵な帽子やかぐわしい香水の香りなどに圧倒されながらも、お互いに顔を見合わせたあと、恥かしそうに小声で「ティリー・モーガンです」、「ルーシー・モーガンです」、「アルシア・モーガンです」と答えていった。
その微笑ましいやりとりによって、駅のプラットホームに五十名ばかりもいた見物人たちはすっかりミネルヴァ伯爵夫人の虜となった。伯爵夫人は白髪混じりの上品な黒い髪をした中年の女性で、大柄で太っていたが、誰もがその皺のある顔に気品や威厳といったものを見いださずにはおれなかった。若い頃にはタイターニアの宮廷で、<薔薇の貴婦人>と呼ばれたほどの、社交界の花であった女性である。そして年を重ねて四十八歳という年齢に達した今も――その横顔にはどこか、若かりし頃の美貌を思わせるものがあった。
ミネルヴァ伯爵夫人は大衆の好奇の目には慣れている、といったような様子で、アーヴィング村長の案内のもと停車場まで歩いてゆき、そこから四頭立ての黒塗りの箱馬車に乗ってローズ邸を目指した。彼女は馬車の窓から観衆たちに微笑みとともに手をふり、村長を相手に村の大変美しいことや、沿道を飾る花のこと、自然に囲まれた田舎の生活に対する憧れなど、心にもないことを話し、早速とばかり、外交手腕を発揮していた――それから自分の遠い親戚にあたるローズ家との関係について話し、今ロンバルディア大陸で起きている戦争を大変憂えており、このような戦争を一日も早く終結させるにはもっと多くの戦員の確保がどうしても必要だと、嘆きまじりに語ったのだった。
ステファン・アーヴィング村長は真っ白い山羊髭を生やした、ふさふさした銀髪の、なんとも風采の上がらない六十男で、とにかくひたすら伯爵夫人の仰せられることに同意し、ほとんどぼけた老人のような印象をミルドレッド・ミネルヴァに与えていたが、気の毒な山羊村長自身は緊張のあまり、そのことには少しも気づかなかった――伯爵夫人は礼儀上声にだして笑うことはしなかったが、(それにしてもなんてまあ!この人は牧場の山羊にそっくりでしょう!)と、丘陵地帯に寝転んだり草を食んだりしている山羊や牛、羊などの群れを見ては乳母と顔を合わせて目だけで笑った。
(こんな田舎に、一体なんの楽しみがあるだろうと思ったけれど――少し考え直したほうがよさそうね。実際、村の様子がこんなに素晴らしいとは思ってもいなかったし、明後日の夕刻からはじまるエドモンド家のパーティさえなかったら――二三日滞在を延ばしてもいいくらいだわ。これからいくローズ家では一体どんな扱いを受けることかしらねえ……山羊村長さんのように、膝を屈めて滑稽な挨拶をなさったりしなければよいけれど!)
伯爵夫人は思わず声にだして「ふふふ」と笑ってしまい、「いかが致しましたか?」と真面目くさって聞くアーヴィング村長に向かって「いえ、なんでも」と答えた。
「少しだけ、思いだし笑いをしただけですわ」