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第6章

 トミーはもうすでに志願兵の届け出をロカルノンの陸軍省で済ませてあったので、本人の準備が整いしだい、陸軍士官学校に特別訓練兵として入隊する運びになっていた。ただ事情が事情なので、トミーの場合、本人の意志次第で猶予期間をいくらでも長く持たせることはできた――あるいは志願兵の届け出の取り下げをすることもしようと思えばできた。タリス政府はそこらへんのことに関しては、この時はまだ非常に寛容であった。世論も<内政干渉>という名の元に、反戦論が根強かったし、実際のところ、ユーディンがランスロックの戦いにおいて我々連合軍を打ち破るまでは――タリス政府の首相サヴェージ・ニュートンはどの新聞紙上でも叩かれっぱなしだったのである。

「そんなに心配しないで、ローラ。僕は必ず帰ってくるよ」

「嘘つき」ローラは幾度となく瞳に涙をためて、トミーに懇願した。「みんな言ってるじゃない。あなたは戦争とか、そういった類のものに向く質じゃないって。せいぜいが、新聞に戯画でも投稿して、反戦を呼びかけるとか――そういったタイプの人よ」

 トミーはいつものように、弱々しく微笑した。そしてローラはその甘い微笑みを目にする度に、ぎゅっと胸が引き絞られるのだった。

「でも、僕は行かなきゃならないよ、どうしても。一部の見識ある人が指摘するように、この戦争は始めた以上は必ず勝たなくてはならない戦争なんだ。これまでゼノン人はシオン人に対して、思うままに振る舞ってきたし、ラヴィニアもタリスも半ばそのことを黙認してきたね。信じられるかい、ローラ?僕たちがこんなふうに呑気に森を散歩している間にも、向こうでは何万何千人という人が、虐殺されたり、敵の捕虜になって強制収容所送りになったりしているんだ。今朝の新聞にも、激戦地ダルヴィッジ・ブリッジのことがでていたけれど……」

「もうやめて。そんな話、聞きたくもないわ」

 ローラは両耳を塞ぐと、籠にサンザシの花を一心に摘みはじめた。この季節になるといつも、ローラはカルダンの森の秘密の場所に、サンザシの花を摘みにくる。ひとりでくる時以外はこれまではずっと、トミーが一緒だった。彼はローラが花を摘む間、ウグイスやノゴマ、ヒバリなどの野鳥を観察しては、的確にその特徴をスケッチした。もちろんサンザシの花やラッパ水仙、時折姿を見せる蝶の姿なども素描し、ローラが気づかないようにそっと、彼女が自然と戯れている姿も、隠れるようにこっそりスケッチしていた。

 トミーはローラと初めて出会った頃から、いつも不思議に思っていたことがある。彼女と一緒に山や森へ足を踏み入れると、途端にまずあちこちから挨拶でもするように鳥たちが現れ、またこの地方では見たこともないような蝶が突然姿を見せたりだとか、リスやイタチやキツネやノネズミやシカなどが次から次へと視界を横切っていくのであった。それはまるで、誰かが意図的に――例えば森の精のような存在が――ローラのことを喜ばせようとしているかのようだった。

 一度、こんなことがあった。

 村の北東にある帽子山へ釣りをしにいった時のこと、トミーとローラは冒険心と探究心が旺盛なあまり、かなり山奥へと入りこんでしまったことがあった。帽子山にはその入口から数えて、村の人間が作った橋が十あるのだが、子供はどんなに遠くても第三の橋まで、たとえ大人が一緒でも、第五の橋以上には行ってはいけませんと、どこの家庭でもきつく戒められていたのだが――ローラとトミーは禁を犯し、朝早起きして第七の橋まで歩いていったのである。

「わたしたち、もう十七歳ですもの。立派な大人よね」

 そう言ってローラが何故か得意顔で道をずんずん進んでいくので、トミーは釣り竿を片手に持ってはいたものの、ほとんど釣りどころではなかった。

「ねえローラ、君が昔から帽子山の第十の橋までいってみたいって、口癖のように言ってたのは知ってるけど、でも君だってわかってるだろ?第五の橋を越えたところからは熊がでるんだよ――だから大人はみんな、よほどのことでもない限り、それ以上上流へ釣りをしにいったり、山奥に山菜をとりにいったりしないんだ。それに僕はともかくとして、このことがエリザベスおばさんにばれたりしたら……」

「あら、トミー。あなた怖いの?」

 ローラの瞳の中に、魅惑的な悪戯っぽい光が宿るのを見たトミーは、観念したように肩を竦めた。彼女はきっと、人間のふりをしてはいるが、失われた妖精族の末裔か何かなのに違いない――だがローラ自身は全然平気な様子でも、トミーはやはり第五の橋を越えたあたりから、深い自然に対する畏敬の念のようなものを覚えはじめ、あまりにも自然の発するその濃い濃度のようなものに、気味の悪いものさえ感じるようになっていた。

 そして古ぼけた丸太の第七の橋が遠くに見えた時――その橋のそばでは、ヒグマが鮭を獲っているところで、トミーはその光景を見るやいなや、当然回れ右をした。

 ところが、ローラはといえば……その六フィートはあろうかという熊をもっと間近で見ようと、ずんずん先へ進んでいくではないか!

「駄目だよ、ローラ!死んじゃうよ!」

 トミーは小声で叫んだが、ローラは何者かに魅入られてでもいるように、振り向きさえしなかった。

「ローラ!」

 トミーの叫び声に反応したのは当のローラではなく、熊のほうであった。しかもなんとも具合の悪いことには、その大きな母熊の向こうでは、二匹の子熊が川で戯れているではないか!

 母熊が捕獲した銀色の鮭を子熊たちは喜んで川辺で食べていたが、母熊はローラを敵と見なしたのであろう、こちらへと一目散に駆けてきた。

「ローラ!」

 トミーはもう一度呼び、今度は彼女の腕を強く掴んで引き戻した。そして風上の樹木の陰に隠れこみ、彼女を強く抱きしめたまま、母熊が通りすぎていくのを、ただ息を殺して待った。

 ……一体どのくらいの間、そうしていただろう?

 ローラはただ静かに、トミーの胸に抱かれていた。彼女には、彼のとくとくという心臓の音が、確かに聞こえていた。そして緊迫した息詰まる長い時間の過ぎ去ったあとで、ローラはハッと我に返り、トミーの頬を引っぱたいたのである。それからそのあと山を下りるまでずっと、彼とはろくに口さえ聞かなかったのだ。

 トミーはサンザシの花に囲まれたローラを見つめながら、彼女があの時本当はどんな心持ちだったのか、聞いてみたいような気がした。本当に熊が恐くなかったのかどうか、それと自分が咄嗟のこととはいえ強く抱きしめたので、恥かしいと思ったかどうかを……。

 トミー自身は今も、あの瞬間のことをよく覚えていた。ローラの髪はいつも、日向と林檎の匂いが混ざったようなよい香りがしたし、自分がひょろ長くて骨ばった痩せた体つきをしているのに対して――彼女の体はとてもふくよかだった。

 そして彼はつい先日、ローラと初めてキスを交わし、その数日後には婚約をすることができたのを、まるで夢のようだと今も感じていた。海を渡った向こうのロンバルディア大陸では、想像もつかないような数の人間が毎日銃撃戦で倒れているというのに――今自分の目の前に広がっている光景ときたら、本当にまるで夢のようだと、彼はそう思うのだった。

(愛しているよ、ローラ)

 トミーが熱っぽい視線とともにテレパシーでもって囁くと、ローラがそれを心のどこかで受信したように振り向いた。彼女は籠いっぱいにサンザシの花を満たすと、満足したようにトミーのほうへとやってきたのだった。

「どう、トミー?スケッチのほうは進んでいて?」

「うん、まあまあね」

 トミーは、ローラをこっそりスケッチしていたページを、すぐに隠した――一度このことがばれた時、彼女は人を盗み見るだなんていやらしいと言って、ひどく憤慨したのである――ずっと昔のことではあったけれど。

「まあ、素敵だわ。ウグイスにヒバリにノゴマが一緒に同じ枝で囀っているなんてね」

「もちろん、一匹一匹は別々の枝で囀っているのを見たんだよ――で、最後に三匹を一緒にしたというわけ」

「トミー、やっぱりあなたは天才よ。このラッパ水仙もサンザシも、まるで生きているみたいですもの。あなたはこの才能をこそ活かすべきだって、あたしはそう思うわ」

 トミーは苦笑した。そうなのだ。ローラをはじめ、家族も友達も学校の先生も、彼のことを天才だと言って褒めそやした――だが、実際に彼が美術アカデミーへ進学して知ったのは、自分程度の天才など、掃いて捨てるほどいるという苦い現実だったのである。

「……ねえトミー。しつこいようだけど、あなた本当に戦争へいくつもり?」

「ああ、もちろんね」トミーは盗み見がばれないうちに、素早くスケッチブックを閉じた。「君や家族や他のどんな人が反対したとしても――僕はいくよ。そしてどんなことがあっても生きて帰ってくる。そのことだけは約束するよ」

 もう時期自分の花嫁になろうとしている美しい女性が、不安と悲しみの入り混じった瞳で懇願するように見つめるのを、トミーはつらく感じはしたが、何度繰り返し考えてみても、今回の戦争に出征しないということだけは考えられなかった。それは決して幼稚な正義感から彼が思うことではなく――もう何十年も昔から決められた運命であるように感じられる出来ごとなのだった。






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