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第5章

 フラナガン農場は、ローズ邸から丘を越えて小さな川を挟んだ向こう側に位置していた。エリザベスはふたつの農地の境界線であるこの川を渡るたびにこう思う――昔はここも、うちの土地だったのに、と。

(だがローラとトミーが結婚すれば、このふたつの土地もまた再びひとつになるだろう。ジョサイア・フラナガンはすっとぼけたような男ではあるが、ああ見えて農夫としてはなかなか立派な男だ。そして何よりトミーが、あたしが死んだあとも、ローズ農場のことをうまく切り盛りしていってくれるだろう)

 エリザベスは長生きというのはしてみるものだと、つくづくそう思った。これまでは、ローラの花嫁姿が見られさえすればいつ死んでもいいと思っていたが――いまはもう少し、欲がでてきた。もしふたりの間に男の子が生まれたら、どんなにかいいだろう。そしてその子がゆくゆくは、フラナガン農場とローズ農場の両方を継ぐことになるのだ。

「あら、あれはエリザベスではないかしら」

 トミーの母親、ジョスリン・フラナガンは、家の裏手で洗濯をしていた。彼女はでっぷりとした感じのいい太り方をした女で、いかにも十人の子を生み育て養ったというような、大らかな顔をした婦人であった。ただ、あまり身だしなみには気を使わないほうであったので、この日もお団子にひっつめた髪はあちこちほつれ、服のほうは色褪せて油のしみがあちこち飛んでいるといったような有様であった。

「あの人がうちの勝手口に向かってやってくるだなんて、かれこれ何年ぶり……いや、何十年ぶりかしらね?たぶんきっとローラとトミーのことでやってきたんだろうけど――でなけりゃ誇り高いあの人がうちの敷居を跨ごうなんて気を起こすはずがない。やれやれ、前もって言っといてくれさえすりゃあね、あたしももうちっとましなカッコして、たらいにおとうの作業服なんか突っこんでいなかったもんを……」

 ジョスリンが呟いているうちにも、エリザベスはみるみるうちにフラナガン家へと近づきつつあった。遠目にもびっこを引いているのがわかるし、松葉杖をついているのもわかる。だがその時のエリザベスほど健脚な婦人を――彼女の年齢で、しかも卒中になったあとなのに――ジョスリンは見たことがないとさえ思った。

「少しお邪魔しますよ、ジョスリン・フラナガン」

「ええ、もちろんどうぞ、お上がりになってください」

 ジョスリンは緊張のあまり、いつもの癖で「お上がりになってくだせえ」と言いそうになったが、エリザベスのローズ家の家風に屈伏するかのように、丁寧語で答えた。

(やれやれ。苦手なんだよねえ、あたしは昔からこの人が……学校の先生が出来の悪い生徒を叱り飛ばす時みたいな雰囲気を、いつだって纏いつかせてるんだからね)

「ジョサイアは農場ですか」

 エリザベスはとり散らかったフラナガン家の台所の様子を、内心軽蔑したが――テーブルの上には昼食を終えたあとの食器類などが、まだ片付けられずにのったままだった――子育ての手腕についてはジョスリンのことを高く評価していた。何故ならフラナガン家の子供たちはみな小さな頃から評判がよく、鳶が鷹を十人産んだと、村の人々は噂しあっていたからである。

「へえ、さようです。今日は柵を直しがてら、ペンキを塗り直してるですよ――植えつけのほうはつい先週、終わりましたもんでね」

 エリザベスは一瞬、自分の農場ではまだ終わっていないと思い、ムッとしかけたが、今日は農作物のことではなく、ローラとトミーのことを話しにきたのだと思いだし、台所にあった椅子のひとつに腰かけ、ジョスリンと向き合った。ジョスリンは慌てることもなくのんびりと、テーブルの上のものなどを片付けている。

「あんたも知ってるでしょうがね――話というのは他でもない、ローラとトミーのことですよ。トミーが戦争へいくっていうのは、本当のことですか?」

「ええ、そうですよ」ジョスリンは流しにポンプで水を汲みながら、事もなげに答えた。「だからもしローズ家のほうで反対なさるなら、ローラと結婚するのは諦めなさいと言ってあるです」

「あんたは――あんたは……」エリザベスは喘ぐように言った。「それで平気なんですか?大切な息子が海を渡ってはるばるロンバルディア大陸まで戦争へいこうっていうのに……よくそんなに平然としてられるもんですね」

 エリザベスは怒りのあまりフン、と鼻を鳴らしたが、フラナガン夫人は聞こえなかったふりをした。

「べつにうちに子供が十人いて、今では孫が二十二人もいるから、ひとりくらい戦争へいってもいいだなどと思っているわけではないですよ――ただ、うちは子供のことはひとり残らず奔放に育てたもんですからね、本人がいくというものを止められないと思っているだけのこってすよ」

「じゃあ……じゃあ、一体ローラはどうなるんです?あの娘はトミーのプロポーズを受けることにしたと言いました――ただ、彼が戦争から帰ったあとでなく、出征前に結婚式を挙げたいと――それでもしトミーが戦死でもしようものなら、あの娘はあの歳にして未亡人ということになるんですよ!」

「まあまあ、エリザベス。そう興奮しないでくださいな。また血圧が上がりますよ」

 ジョスリンはテーブルの上を布巾で軽く拭くと、紅茶を淹れはじめた。フラナガン家で一番上等の、磁器のティーセットであった。

「トミーは昔っから、ローラに夢中でしたよ――あの娘と結婚することができたら、自分は死んでもいいとさえ思っているでしょう。なのにローラはずいぶん長いこと、あの子の気持ちをないがしろにしてきたじゃありませんか。その割にあの子がドナの肖像画を描いたと言えば、やきもちを焼いて口を聞かなくなったり――そういえばあの娘も、ケネスが出征する前に結婚式を挙げるとか言ってましたっけね。ドナのほうはケネスの崇高な理念にすっかり熱を上げている様子で、ローラとは全然逆ですよ」

「あんな戦争に、一体どんな値打ちがあるっていうんですか。シオン人とゼノン人がいつ果てるとも知れない民族同士の争いで揉めているからって――わたしたちに一体なんの関わりがあるっていうんです?確かにわたしたちの先祖を遡れば、彼らとは同族でしょうとも。だからといって……」

 ジョスリンは、エリザベスにお茶を勧めながら、彼女の話を遮るように首を振った。

「わたしには難しいことはなんもわかりはしませんよ。ただ――このことだけは、頭の悪いわたしにもはっきりわかりますよ。シオン人は少数民族で、ずいぶん長いこと、ゼノン人から搾取され続けてきた。いくらゼノン人のほうが広い国土を持っているとはいえ、シオン人の土地のほうが滋味が豊かで作物もよく実るらしいし、金鉱やら銀山やら石炭に石油と資源が豊富なのですからね――ラヴィニアだって何も、ただ慈善行為として戦力を注ぎこんでいるわけじゃありませんよ。当然のことながら、助けてやった見返りをロンバルディー側に要求するでしょうよ――もしタリスが今参戦しなかったら、我々の孫の代には国際情勢がどういうことになっているかわからない、トミーは毎日新聞を読むたびに、そんなような話ばかしするんです。うちのおとうもわたしも、虐殺の話なんかはね、酷いことをするもんだと思っとりましたが、そんなことはちっとも考えておりませなんだ。ただトミーがわかりやすい言葉で色々説明してくれるもんで、「ほほう」とか「へへえ」と言って聞いてるだけです。おとうなんかは、トミーから聞いた話をそのまんま、スミスさんの店のとこで話したりして、偉ぶっとりますけどね、聞いてるみんなはちゃあんとわかってるですよ。そんなのは全部息子の受け売りだろうとね」

 ジョスリンが突然くすくす笑いだしたので、エリザベスは憤慨したように、また鼻を鳴らした。ローズ家の者である自分が、フラナガン家の者に説教をされねばならないとは――なんたる屈辱、とまでは思わないものの、それでも何か面白くなかった。自分だって毎日、ロカルノン・ジャーナルを隅から隅まで読んでいるというのに。

「じゃああんたは――ようするに、こう言いたいわけですね?自分の息子がまだ見ぬ孫のためやら、お国のために命を捧げるのは当然のことで、その尊い理念のためなら死をもやむをえないと?」

「そんなこと、あたしゃこれっぽっちも思っちゃいませんよ」

 ジョスリンはクッキージャーの蓋を開けて、そこからジンジャークッキーをとりだして食べた。

「よかったら、どうぞとって食べてくださいな。あたしだって主人だって、できればあの子にはこのままこの家にいてほしいですよ。そしてローラと結婚して、元気な子供さ見せてほしいなあと思ってるです。ただ最初に申しましたとおり、うちは長男のウィリアムも次男のマックスも、三男のロドニーも四男のフレッドも、自分の好きなとおりに生きろと言って育ててきたです。長女のメアリは成績がよかったですからね、ロカルノンの大学までいかせましたし、次女のジェシカは街で自分の作った服を売りたいなんて途方もないこと言いだしましたが、今では成功してますし、三女のシンシアはすったもんだの揚げ句にようやくスミス雑貨店の嫁に収まりましたし、四女のステイシーは街で看護婦をやってますし、五女のケイシーは結婚した今も学校で教えてるっていうのは、奥さんも知っているでしょう?」

 その通りである。しかもケイシーは子供たちにはもちろんのこと、父兄たちにもすこぶる評判のいい先生なのであった。エリザベスはもうこれ以上、フラナガン夫人に言えることは何もないような気がしてきた。

「うちも今、おとうとトミーの三人きりになるまで、家計はいつだって火の車でしたよ――親戚やら町の友人やら、とにかくほうぼうに借金して、農場も家も抵当に入れて、子供たちを上の学校へいかせましたからね。唯一トミーだけですよ。長男のウィリアムが自分の家に下宿させて、生活費も学費もなんもかんもだしてやったのはね。あの子は昔っから大人しい、絵ばっかり描いてる子でしたからね、その子が珍しく自己主張したって言うんで、あたしらはあの子にこそ農場を継いでほしいと思ってたけんど、美術学校へいかせました。それで今度は戦争へいくと――普通の親ならどうするかわかりませんがね、うちは本人のしたいとおりにやらせて、それなりにうまいことなってきた家なもんですから、反対するって言っても、縄で縛りつけとくってわけにもいかないしって感じなんですよ」

 エリザベスは深い溜息を着いた。確かにジョスリンの言うとおりなのかもしれなかった。トミーを縄で縛りつけるようにして農場の仕事に従事させたとしても――いや、やはりそうではない。もしトミーが遠洋漁業にでもでて、三年戻らないが、そのあと帰ってくるとかいうのなら、自分もしぶしぶながら承諾したかもしれない――だが、事は戦争なのだ。やはり自分は断固反対だと、そう思った。

「どうやら、あたしとあんたとでは、意見がさっぱり違うようですね。ただ、それだからと言ってお互い好きあってる者同士を離れさせるってわけにもいきませんからね――本人同士が結婚したいと言っている以上、そうさせるしかないでしょう。トミーが戦争にいくにしろ、いかないにしろ」

 エリザベスの渋々といった体で椅子から立ち上がると、フラナガン夫人の顔がぱっと輝いた。ジョスリンはてっきり、この結婚にエリザベスが反対なものとばかり思っていたのだ。だが嬉しいことに――自分にとっても夫にとっても一番の秘蔵っ子であるトミーが、昔から好いているガールフレンドと、今ようやく結婚することができるのである!

「あのローズさんとこのお嬢さんとうちの息子が結婚とはねえ……フラナガン家も出世したものさね」

 ジョスリンは勝手口からエリザベスの灰色のドレス姿を見送りながら、そう呟いた。そして晴れ間の見えてきた五月の空に向かって陽気に歌を歌いつつ、たらいに手を突っこんで、おとうと末の息子の作業ズボンを洗った。松の樹の間にかかっている洗濯紐には、みるみるうちに洗濯物がびっしり並び、ジョスリンは最後に満足の吐息を洩らしたのだった。


 




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