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第4章

 その夜、トミーのことを思って、ローラの心は千々に乱れんばかりだった。上からマーシー少年の大いびきが聞こえてくるからというわけでは決してなく――ローラはその夜、なかなか寝つかれなかった。

(明日、家鴨と鶏の卵をスミスさんのお店に売った帰り、ケネス・ミラーの家を訪ねることにしよう。そして戦争へいくのをやめてもらうのだ。そうすればたぶんトミーも軍用列車に長々と揺られて船に乗り、ロンバルディア大陸に上陸して大砲の打ち合いなんかを経験しなくて済むだろう……)

 正直なところ、ローラは毎日のように新聞の第一面を飾っている戦争の報道には、あまり興味がなかった。ロンバルディーにユーディンが攻めこんだからといって、それがなんだというのであろうか?結局のところそれは、二国間の間の、土地争いではないか――何故遠く海を隔てた我らタリスの国民が、血を流してまで仲裁に入らねばならないのか。

 もちろんローラも、兄弟国であるラヴィニアが参戦を決めた以上は、弟国であるタリスもほとんど同時に参戦せねばならない状態にあることくらいはわかっている――だが、先の大戦――ちょうど、エリザベス伯母やエドワード伯父、フレデリック伯父の両親の世代が経験した戦争――の頃とは事情が大分違うではないか。

 タリス政府は一体なにをしているのかと、それまで政治になどまるで興味のなかったローラはこの夜初めて思った。首相はとにかくひたすら「兄が参戦した以上は弟も参戦するのは当然のことであります」というような意味合いの答弁を繰り返すばかりだ。今日も新聞に、首相を揶揄する風刺画が載っていたけれど――ローラは、自分にもし投票権があったら、絶対に次の選挙の時には民主党に投票してやるのに、とさえ考えた(ローズ家は代々現首相サヴェージ・ニュートンの属する保守党を支持してきたのであったが)。

 窓の外では、春とはいえまだ冷たい冬の名残りの風が吹き荒れ、耳を澄ませたなら彼女の耳に、優しく「ローラ、ローラ」と囁きかける風の精の歌声が聴こえたことだろうが――その夜、ローラはそんな精霊たちの呼びかけにも耳を閉ざし、なんとかしてトミーの考えを翻させねばならないと、そのことばかりを考えていた。


「じゃあ君は、僕がトミーのことをそそのかしたって言いたいのかい?」

 スミスさんの店で家鴨と鶏の卵を売った代金で、生活に入り用なもの――カモミール石鹸やマッチ、アスピリンなど――を買ってバスケットに詰めたローラは、残りの代金でロカルノン・ジャーナルではない他の新聞を一部買った(それは首都タイターニアで発行されている新聞で、戦局についてのより詳しい、確かな情報の載っている新聞であった)。

「だって、あなた……これを見てよ。一日にして一万五千人の兵士が亡くなったって、ここに書いてあるじゃない!」

 ミラー夫人が見ている前であるにも関わらず、ローラは居間のテーブルの上に、ぴしゃりとデイリー・タイターニア紙を叩きつけた。

「ああ、知ってるよ」と、ケネスは事もなげに一瞥をくれた。「その記事は僕も今朝、読んだからね。そして君の言いたいこともよくわかる。僕やトミーが出征したら、その一万五千人のうちのひとりになるかもしれないって言いたいんだろ?でも君はたぶん……まるきり物事ってものをわかってないんだ。ユーディンとロンバルディーの仲が悪いのは昔からのことで、今にはじまったことじゃないよ。ラヴィニアもタリスもはっきり言ってまあ、これまでは放ってきた。だがこれ以上ユーディン軍の民族虐殺にラヴィニアも黙ってはいられなくなったのだ。ローラ、君はたぶん……平気なのだろうね。君の家はこの地方としては家柄もいいほうに属するし、結婚してローズ農場の土地を継いで自分の家さえ戦火で焼かれなければそれでいいのだろう。だがもし立場が逆だったとしたらということを考えてみたまえ。ロンバルディーがタリスで、ユーディンがもしラヴィニアだったとしたら、というようにね」

 ローラはミラー夫人がはらはらした顔で台所のほうから顔をのぞかせているのに気づいていたが、それでも言わずにはいられなかった。

「確かに、ケネス・ミラー。あなたのおっしゃるとおりだとは、わたしも思いますわ。でもそれはあくまでも<理論上>のことなのではないかしら?実際にあなたが戦地へ赴いたとしたら、今あなたが心に抱いている理想的な思いなど、木っ端微塵に砕き尽くされてしまうことでしょうよ。それでもこの泥沼化した戦争へいくっていうの?」

「そうとも。僕はいくよ。何故って、それが自分の使命だと感じるからね。ローラ・リー、君は間違っている。今の科白は僕にではなくトミーに直接言うべきだ。確かに僕は彼に、顔をつき合わせる度に今度の戦争のことばかりを話したよ。でも本当に他意はなかったんだ。彼は根っからの芸術肌の人間だと、僕はよく知ってるからね――僕はトミーのことを好きだし、気も合うけど、彼が絵筆のかわりに銃剣を持っているところなど、想像もできないよ。だからもし君が彼が僕に感化されたと考えるなら――君が直接トミーにそう言うべきだよ。僕が彼の戦争行きを止めるよりも、君が止めたほうがよほど説得力がある」

「……お邪魔、いたしたようですわね」

 ローラはバスケットを片手に立ち上がると、ミラー夫人に会釈をして、ミラー家の居間を辞去することにした。

 ローラはミラー夫人のことが心底気の毒に思えてならなかったが、自分が力になれないことは明白であった。そしておそらく、他の誰も、どのような力も、ケネスの出征を止めることはできなかったに違いない。短く刈りあげた黒い髪に、聡明な輝きを宿した黒い瞳の、前途有望な青年――彼の父親が彼をロカルノンの法律大学へやったのは、一体なんのためだったのであろうか?そしてトミーは、昔からそんな年上の彼を尊敬し、美術学校時代にはよく互いの家を行き来していたということだったけれど……。

 ヒルトップにあるミラー家から三マイルほど歩いて帰る途中、イチョウ並木のところで、ローラは馬車に乗るトミーと出会った。そういえば、フラナガン家ではうちよりも一週間も早く、植えつけが終わったと言っていたっけ……ローラはぼんやりと考えた。

「乗っていかないかい?」

 この四か月もの間、彼にそう言われるたび、何度意地を張ったことだろう。けれどもこの時ローラは体がいつもよりも重く、なんだか心底疲れたと感じていた。頭の中にはつい先日トミーにプロポーズされたことなどまるで思い浮かばなかった。ただ全然関係のないこと――ケネス・ミラーほど頭の切れる男性が何故、ドナ・マクドナルドのような魅力に乏しい平凡な女と結婚しようというのか、不思議でならないと考えていた。

「……なんだか、元気がないみたいだね」

「元気がない、ですって?」

 トミーの何気ない言葉にカチンときたローラは、彼の馬車に乗ったことを後悔した。そしてふとプロポーズされていたことを思いだし、トミーの心を踏みにじってやりたい衝動にかられた。

「あたしたち、きっと性格が合わないのね。結婚してもたぶんうまくいかないんじゃないかしら?」

 ローラが何故怒っているのか見当もつかないトミーは、彼女があまりにもはっきりプロポーズを断ってよこしたので、顔は冷静さを保ちながらも、内心では狼狽していた。それで呻くように、

「……こんなに愛しているのに?」

 と、真実の響きをこめて言った。

「あたし、戦争へいこうというような人にはまるで興味ないの。それに、結婚するとしたらうちの農場を継いでくれる人がいいわ。あなたがもし戦争へいかないとしても――あなたはフラナガン農場を継がなければならないでしょ?その点ヘンリーは三男だし、条件的にはいいと思っているのよ」

「ヘンリー!」おお、よりにもよってヘンリー・オコナーなんかの名前を、彼女がこの場で口にするとは!「ローラ、悪いことは言わない。僕じゃなくてもいいから、ヘンリーだけはよすんだ」

「まあ、どうして?」ローラは、隣のトミーの顔をじっと覗きこみながら言った。「あなたにはそんなこと、言う権利はないはずだと思うけど?」

「友人のひとりとして忠告するよ。あいつは女なら誰でもいいんだ――たとえ君じゃなくてもね」

 流石にローラもこれにはムッとした。

「わたし、ヘンリーと結婚するわ。あなたが戦争へいこうとどうしようと、関係なくね。この歳で未亡人だなんてとんでもないわ。トミー・フラナガン、あなたはとんでもない考えなしのお馬鹿さんよ」

「もうやめよう、ローラ」トミーは溜息を着きながら、ローズ抵の前で馬車を停めた。「考えなしは、一体どっちだい?それに、ヘンリーとなんか、結婚する気もないくせに――君はとんでもない強情っぱりのひねくれ者だね。どうしてもっと素直になれないんだ?」

「あたしは――あたしは……」ローラは喘いだ。「あたしは……本当は素直よ、少なくとも、あなた以外の人の前ではね」

 さっさと馬車から降りると、ローラは踵を返してローズ抵の小径を歩いていった。庭には白や黄色の水仙の花が咲き乱れている――甘い香りのツツジも咲きはじめていたが、ローラの目にそれらの花は映らなかった。何もかもすべてが、涙に滲んで見える。

「待つんだ、ローラ」

 ライラックの花陰のところで、トミーはローラの肩をぐいと掴んで振り返らせた。そして気の強いローラが泣いていることに驚き、思わずぎゅっと彼女のことを抱きしめていた。

「どうして……どうして――」

(涙なんかでるの?)というローラの問いかけを、トミーは心の中で聞いた気がした。彼女は抵抗することもなく、彼に抱きしめられたままでいた。

「それは君が……僕のことを愛しているからだよ。どうしていつまでも自分で気がつかないんだ?」

「だって、なんだか怖いわ。自分が自分でなくなるみたいなんですもの」

(それが恋というものだよ)とは、トミーも口にだして言うほど野暮ではなかった。そう言うかわりにローラに口接けし、数瞬見つめあったあとでまた、彼女のことを強く抱きしめた。

「……本当に、戦争へいくの?」

「ああ、いくよ。べつにケネスの思想にかぶれたってわけじゃなくね――僕がどんなにそうしたくなくても、そうせざるを得ないんだ。僕が君に惹かれるのと同じ理由だよ。何故なのか、自分でもはっきり説明することはできないんだ」

 ローラは溜息を着いた。何故かジュディスのことを思いだしていた。彼の言い方はまるで――彼女にそっくりだった。『死もわたしの信仰を奪うことはできない』と言った時の彼女の顔つきや口調と。

「いいわ。でもそのかわり……戦争へいく前に結婚して。あなたが帰ってきてからだなんてそんなの――わたし耐えられない」


 ローラとトミーがローズ抵の庭で立ち話をしているのを、居間の窓からエリザベスもエドワードもフレデリックも、それからマーシー少年も、じっと見ていた。もちろん、ふたりの抱擁とキスも。

 そしてふたりが話を終えて互いに離れ、ローラが小径をこちらに向かいはじめるやいなや――四人はわたわたと昼食の席に戻り、エリザベスは三人の男たちに、いつもの威厳のある口調で言った。

「三人とも、わかってますね?何も見なかった、知らなかったというふりをするんですよ――いいですね?」

 ローラのふたりの伯父はわかっているとも、というように黙って頷き、マーシー少年はにやっと笑った。あとでキスのことでローラのことをからかってやろうと思っていたのだ。

 ローラは家の正面玄関から入ってくると、ばたばたと音をさせながらそのまま二階へ上がっていき――自分のベッドの上に倒れ伏した。

(ああ、トミー!どうしてこんなことになってしまったのかしら?でももし彼が戦争へいくだなんて言いださなければ、果たしてわたしは気づいたかしら?自分の本当の気持ちに……)

 その時、雲間からさっと光が差しこみ、ガラス窓越しにローラのことを黄金色に染めた。ローラはふと目を上げ、美しい世界へと目をやった。庭では桜が満開で、先ほどトミーと口接けを交わしたライラックの薄紫色の花も春の訪れをともに喜び祝っていた――紫色のムスカリも、ヒヤシンスもクロッカスも――ローラはいつものように踊りあがるような歓喜に包まれ、突然にして理解した。

(そうだわ。そういえばルベドは……トミーのことをわたしの地上の夫として選んだのではなかったかしら?それなら、もし本当にそうなら……わたしはルベドのことも<みんな>のことも裏切らずに、結婚をすることができるのだわ!)

 ローラは両開きの窓を押して開き、春の香ばしい空気を胸いっぱいに吸いこんだ。

(なんだかまるで――みんな、わたしとトミーの結婚を祝福してくれてるみたい!もちろん人に話せばそんなことはただの偶然の一致と笑われてしまうでしょうけれど――ああ、でももしわたしが結婚しても、この地上で夫を持ったとしても、この<感覚>は決して失われはしないのだわ!わたしにとって、ルベドとの絆が失われることほど、つらいことはないのですもの……)

 その時、不意に大きな風が巻き起こり、ローズ家の庭の桜並木を強く揺らした。物凄い速さで風の精が駈けてきたかのようであった。

『僕の可愛いローラ。君は何も心配することなく、トミーと結婚するがいい。ただし……』

 その時、コンコン、とドアをノックする音がし、ローラとルベドとの会話は中断された。ローラは窓から振り返り、「どうぞ」と言ってエリザベス伯母が部屋に入ってくるのを待った――松葉杖の音で、ドアの向こうにいるのがエリザベス伯母であると、ローラにはわかっていた。

「ちょっと、失礼するよ」

 エリザベス伯母は松葉杖をつきながらローラの部屋に入ってくると、ベッドの端のほうに腰かけた。なんとはなしにいつもの癖で、室内にあるものをぐるりと一通り見回してしまう――木彫りの花の細工がほどこされた化粧台に、くるみ材の古いチェスト、柳の模様の水差しに、オーク材の書き物机――昔、エミリーがこの部屋を使っていた頃と、何ひとつ変わっていない。そう。変わったものといえばひとつだけ――壁に飾られている、トミー・フラナガンの描いたローズ家の庭の絵だけだ。この絵の他にもう一枚、ローラがとても大切にしている絵があるのを、エリザベスはよく知っている。それはローラ自身を描いた肖像画で、エドとフレディは是非それを額に入れて客間に飾ろうなどと言ったものだった――そのくらいその絵はローラの魂の本質のようなものをよく捉えていた。だがローラはその絵をベッドの下のトランクに隠して、滅多なことでは人目にさらさないのだった。

「なにね、あんたがあたしに話したいことがあるのじゃないかと思ってね」

 ローラはさっと顔を赤らめた。おそらく馬車の音と、トミーと一緒に帰ってきたのが伯母にはわかったのだろう――それとたぶん、仲直りのしるしとしてのキスも、見られてしまったのかもしれない。

「おばさん、あたし――あたし……どうしたらいいか……」

 ローラはこの家へきて初めて、エリザベス伯母の胸に抱かれた。伯母はそのような親しみを一切人に与えない、昔から冷厳な顔つきをした婦人であったが、病気をしてからというもの、丸みのある優しさがその表情には加わっていた。

「言ってごらん。トミーにプロポーズされたんだろ?それなら一体なにを迷うことがある?あの子の性質のいいのはわたしもエドもフレディもよく知ってるからね――きっとうまいこといくよ。ジョサイア・フラナガンのほうはローズ家の広大な畑地が手に入るというので、まさか反対などしまいよ。死ぬのはどう考えたってエドやあたしやフレディのほうが先だろうからね。そうしたらローズ家の農場は全部トミーのものになるのだから、ジョサイアたちはさぞ大喜びするだろうよ」

「そうじゃないの。違うのよ、おばさん――」

 ローラが喘ぎあえぎ、トミーが戦争へいくことを話すと、エリザベスの表情はみるみるうちに変わった。そして怒りとも驚きともつかない顔つきをしてすっくと立ち上がると、二三歩あるいてから、松葉杖を忘れたことを思いだして、それを手にとった。

「あたしはこれからちょっとフラナガンのとこへいってくるよ。まさか、父親も母親も諸手を上げて賛成などしちゃいまい――どうしたって止めなきゃならないよ、それだけはね。いくらあの家に十人も子供がいるからって、戦争へいかなきゃならないってことはあるまい。ああ、こうしちゃいられないよ。もし仮にトミーがあんたと結婚しないのだとしてもね、あの子は戦争へいくような柄ではないよ、ええ決して」

 そのあとも伯母はぶつぶつ独り言を呟きながら階段を下りていき――その足音で、彼女が松葉杖などついていないことがローラにはわかった――心配したローラが階下へおりた時には、ねずみ色のボンネットを頭にのせて、家をでていくところであった。

「いや、あんたはついてこなくていい。あたしひとりで十分さ。話をつけるのはね」

 こういう時の伯母を止めても無駄とわかっているローラは、何も言わずにエリザベスを送りだしたが、ローラ自身もそういえば、とふと思った。よくよく考えてみれば、トミーの両親が彼を戦争へなどいかせるはずがないのだ。それにみんなでよってたかって反対すれば――彼も馬鹿な考えを捨ててくれるかもしれない、と。

(ああ、神さま。どうかお願いですから、トミーを戦争へなどやらないでください)

 ローラは居間のソファの上に跪くと、手を組んで一心に神に祈りを捧げ、そしてエリザベス伯母が良い報せを片手に戻ってきてくれるといいと願った。






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